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法華経の哲学者さん、こんにちわ!

やあ、こんにちわ!星の王子さま!

また、本尊(対境)について、で、恐縮なんですが、よく、動物なんかを本尊(対境)として、信仰の対象にしているのを見かけるんですが、これについて、お話いただけませんか。

自然神のひとつの形態ですが、動物には、人間にはない、或いは、ある機能で人間より突出した能力がありますから、それを人間は神の化身と見たり、使いと見たりして、信仰の対象とします。そこで、また重要なのが、その対象に祈っている人間の私は、そのときの私自身(狭義の)だけが、祈っているのではない、ということです。そのことについては、先に、善悪の普遍の私がともに折っている、と、説明しましたが、具体的に言いますと、祈っている私自身の十界の生命(境涯)のそれぞれの、人間にとっての善悪の、普遍の私が、ともに祈っている、つまり、動物の対境には、祈っている私自身の十界の生命(境涯)の中の畜生の生命(境涯)の普遍の私が、ともに、より祈っていてる、ということです。その畜生の生命(境涯)の普遍の私に通じ、働きかけることを、感応といいます。狐を拝めば、狐が、へびを拝めば、へびが、感応します。感応するといってもその能力が出るというのではなく、その生命(境涯)、或いは、記憶、に、なりきってしまうというだけで、それ以上の道理はありませんので、そのものに、害はあっても、利はありません。助かったというのは、思い込みや、錯覚や、誤解にもとずくもので、それ以上の道理はありませんので、害はあっても、その信仰心を利用する、金儲けの利しかありません。

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よく霊魂ということを耳にしますが・・・。

これも道理がありませんので、そのものに、害はあっても、利はありません。死後や、空の概念は、確率でしか、その確からしさを求めることができませんし、肉体を離れた精神、という概念は、肉体あっての精神ということですから、そのままの形としての存在は、確率として0に近くなるので、精神ソノモノ、つまり、認識できないものとしてしか、その確からしさを求めることができません。ですから、幽霊を見た(認識した)とか、心霊写真で霊を見た(認識した)という類(たぐい)は、思い込みや、錯覚や、誤解にもとずくもので、それ以上の道理はありませんので、害はあっても、その信仰心、好奇心、を利用する、金儲けの利しかありません。

すると、霊と話すとか、霊がのりうつるとか、読心術とか、テレパシーとか、千里眼とか、予言とか、も、その類(たぐい)ですか?

ええ、そういったいわゆる超能力も、やはり、空(ゼロ点)の概念や、普遍の私、そのそれぞれのより善の普遍の私による働きかけ、その記憶、その結びつき、というような概念の中での、確率によってのみにしか、その確からしさを求めることはできません。

つまり、それは、ともに感動する普遍の私、という概念も、確率的に確からしい、ということを意味している、ということですね。

ええ、それは、道理として、より確率的に確からしい、ということです。

(2008.12.10)
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