でも、地球は随分待っていたんでしょうね、自分を生命の私として確かに認識できる他者の出現を、・・・。
いいえ、地球はほんの僅かで人間の出現を見ています、寿命がとてつもなく長いので。もちろんこれは人間が解釈している時間でのことですが。
何かそれ仏典に出てきますよね。
ええ、法華経は、”その時”、の記憶を比喩をまじえ直に解釈していますから、いろいろな国土や衆生が登場します。
つまり、星々の寿命も、それが生きていることも、それが私であることも、その私が他者の私であり普遍であり一つのものであることも、”その時”、の記憶の解釈から解釈されたものと、・・・。
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ええ、ですからその解釈が正しく世に出るか出ないかは、人間の私にとっても、地球の私にとっても、星々の私にとっても、すべての私にとっても、一大事なことです。
つまり、それは、とてつもなく大きなことに思えますが、一方、記憶となると、・・・。
そうです。確かにそれは宇宙大の大きさで、無限大でも無限小でもありますが、またそれはすべて、”今、ここ”、の、私の記憶です。そのことも法華経で比喩的に説かれています。
つまり、”今、ここ”、の、私の日記、文書、ということですね。
ええ、その、”今、ここ”、の、私の日記、文書、をひもといているということです。
その日記、文書、に、すべての私の記憶、石ころから宗教まで、その実在の大小、高低、実存の大小、高低、価値の大小、高低、等、と、納まっているということですね。
ええ、その、”今、ここ”、の、私の日記、文書、から、すべての、インチキであろうと高等であろうと、宗教的啓示、科学的啓示、芸術的啓示、生活的啓示、等々の、ひらめき、示唆も、生まれています。
だから、謗法厳戒なんですね。
そうです。その解釈が見えなくされること、傷つけられ、汚され、歪んでしまうことは、すべての私にとって重大なことなんです。
すべての私、本当は、たった一つの私、の日記、文書ですものね。
ええ、まったく同じの私の、つまり、たった一つの、”ぼく”、の日記、文書です。