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その銀蝿が、

”銀蝿”、と、ののしる、その、”銀蝿”、の、”私”、は、
ちょうど、”空”、なる、蚕(かいこ)のまゆの一本の糸のような、
”空”、なる、”今、ここ”、の、断面の、無限に連続した世界に住み、

.


隣り合うそれぞれの糸の、断面の、”私”、は、父の、”私”、であり、母の、”私”、であり、兄の、”私”、であり、水槽に泳ぐタナゴの、”私”、であり、”今、ここ”、で、考えている、”私”、の、脳細胞の、”私”、であり、その手のひらの細胞の、”私”、であり、ガイアの地球の、”私”、であり、

その少し離れた糸の、断面の、”私”、は、その銀蝿が、”銀蝿”、と、ののしる、その銀蝿、の、”私”、であり、

さらに離れた糸の、断面の、”私”、は、ヒトラーの、”私”、であり、セザンヌの、”私”、であり、

さらに遠く離れた糸の、断面の、”私”、は、α 星の、”私”、であり、アンドロメダの、”私”、であり、

つまり、それは、”今、ここ”、の、宇宙の塵点の、”私”、を、身体とする、”私”、であり、

それは、名声、名誉のために、大破壊をしでかす、”第六天の魔王”、に、対する、利剣であり、

その、生命の、”私”、は、生きた様(よう)にしか、死ねないのであり、死んだ様(よう)にしか、生きられないのであり、

たとえば、人間性を破壊する、その、”私”、の、”死”、に、際(ぎわ)に、いくら、”神”、に、慈悲を請うても、その慈悲する、”神”、は、”相対の神”、であり、それは、その、”私”、の、中に生きる、”最善の神”、の、”私”、であり、その、”最善の神”、の、”私”、は、その人間性を破壊し、慈悲を請う、”私”、の、意思、行為のすべてを知るものとして、明らかに判断し、”絶対の神”、の、法則に則って、その人間性を破壊し、慈悲を請う、”私”、を、その人間性の破壊による苦と、それにともなう肉体の苦とを、もって、明らかに裁き、その裁きに従って、その購いの、”空”、に、生きさせ、その購いの、”生”、に、生きさせる。

一人殺した、”私”、と、一人助けた、”私”、と、生きるために動物を殺した、動物の、”私”、と、楽に生きるために人間を殺した、人間の、”私”、と、同じ裁き、同じ購いであるわけがなく、

それは、”絶対の神”、の、法則に則った、火の上に手をかざせば熱い、”因果律”、の、報いの差異であり、

そのための、ムッソリーニの死に様(ざま)なのであり、生命の、”私”、の、成、住、壊、空、の、それぞれにおける、それぞれの差異、それぞれの苦楽の差異、なのであり、

その人間性を破壊する人間の、”私”、が、どんなに着飾り、化粧しても、人間性の破壊である、人間の、”私”、を、虐殺すれば、遅かれ早かれ、いずれかの糸の、いずれかの断面の、人間の、”私”、において、人間性を破壊する人間の、”私”、に、虐殺され、

それは、虐殺する、”私”、が、虐殺される、”私”、を、また虐殺し、また虐殺される、という愚かさ。

(2005.02.26)
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