appeal

”爰(ここ)に、愚人、意(こころ)を竊(ひそか)にし、言を顕(あらわ)にして云く、誠に君を諌めて、家を正しくする事、先賢の教へ、本文に明白なり、外典、此くの如し、内典、是に違(たが)うべからず、悪を見ていましめず、謗を知ってせめずば、経文に背き、祖師に違(たがい)せん、其の禁め、殊に重し、今より信心を至すべし、但(ただ)し、此(この)経を修行し奉(たてまつ)らん事、叶(かな)いがたし、若(も)し、其の最要(さいよう)あらば、証拠を聞かんと思ふ、聖人、示して云く、今、汝の道意を見るに、鄭重(ていちょう)・慇懃(いんぎん)なり、所謂(いわゆる)、諸仏の誠諦(じょうたい)得道(とくどう)の最要は、只(ただ)、是れ、妙法蓮華経、の五字なり、檀王の宝位を退き、竜女が蛇身を改めしも、只(ただ)、此の五字の致す所なり、夫(そ)れ、以(おもんみ)れば、今の経は、受持の多少をば、一偈(げ)一句と宣べ、修行の時刻をば、一念随喜と定めたり、凡(およ)そ、八万法蔵の広きも、一部八巻の多きも、只(ただ)、是の五字を説かんためなり、霊山の雲の上、鷲峯(じゅほう)の霞の中に、釈尊、要を結び、地涌(じゆ)付属を得ることありしも、法体は、何事ぞ、只(ただ)、此の要法に在り、天台・妙楽の六千張の疏(じょ)、玉を連ぬるも、道邃(どうずい)行満の数軸の釈、金(こがね)を並(なら)ぶるも、併(しか)しながら、此の義趣を出でず、誠に生死を恐れ、涅槃(ねはん)を欣(ねが)い、信心を運び、渇仰(かつごう)を至さば、遷滅(せんめつ)無常は、昨日の夢、菩提(ぼだい)の覚悟は、今日のうつつなるべし、只、南無妙法蓮華経、とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪やあるべき、来らぬ福や有るべき、真実なり、甚深(じんじん)なり、是を信受すべし。
愚人、掌(たなごころ)を合せ、膝を折って云く、貴命、肝に染み、教訓、意を動ぜり、然(しか)りと雖(いえど)も、上能兼下の理(ことわり)なれば、広きは狭きを括(くく)り、多は少を兼ぬ、然(しか)る処に、五字は少く、文言は多し、首題は狭く、八軸は広し、如何(いかん)ぞ、功徳、斉等ならんや、聖人、云く、汝、愚かなり、捨少取多の執、須弥(しゅみ)よりも高く、軽狭重広の情、溟海(めいかい)よりも深し、今の文の初後は、必ず多きが尊く、少きが卑しきにあらざる事、前に示すが如し、爰(ここ)に、又、小が大を兼ね、一が多に勝ると云う事、之を談ぜん、彼の尼拘類(にくる)樹の実は、芥子(けし)、三分が一のせい(長)なり、されども、五百輛の車を隠す徳あり、是(これ)、小が大を含めるにあらずや、又、如意宝珠は、一あれども、万宝を雨して、欠(かくる)処、之(こ)れ無し、是(こ)れ、又、少が多を兼ねたるにあらずや、世間のことわざにも、一は万が母といへり、此等の道理を知らずや、所詮(しょせん)、実相の理(ことわり)の背契(はいけい)を論ぜよ、強(あなが)ちに、多少を執する事なかれ、汝、至って愚かなり、今、一の譬(たとえ)を仮らん、夫(そ)れ、妙法蓮華経、とは、一切衆生の仏性なり、仏性とは法性なり、法性とは菩提(ぼだい)なり、所謂(いわゆる)、釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等・普賢・文殊・舎利弗・目連等・大梵天王・釈提桓因(しゃくだいかんにん)・日月・明星・北斗・七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・竜神・八部・人天・大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落(ならく)の炎の底まで、所有(あらゆる)一切衆生の備うる所の仏性を、妙法蓮華経、とは名くるなり、されば、一遍、此の首題を唱へ奉(たてまつ)れば、一切衆生の仏性が皆よばれて、爰(ここ)に集まる時、我が身の法性の、法・報・応、の三身、ともにひかれて、顕れ出ずる、是を成仏とは申すなり、例せば、篭(かご)の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の、同時に集まる、是を見て、篭(かご)の内の鳥も出でんとするが如し。
爰(ここ)に、愚人、云く、首題の功徳、妙法の義趣、今、聞く所、詳(つまびら)かなり、但(ただ)し、此の旨趣、正しく経文に是をのせたりや、如何(いかん)、聖人、云く、其の理(ことわり)、詳(つまびら)かならん上は、文を尋ぬるに及ばざるか、然(しか)れども、請(こい)に随って、之れを示さん、法華経第八、陀羅尼(だらに)品に云く、「汝等、但(ただ)、能(よ)く、法華の名を受持せん者を擁護(おうご)せん、福、量るべからず」、此の文の意は、仏、鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓い給うを、讃(ほ)むるとして、汝等、法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は、三世了達の仏の智慧も、尚(なお)、及びがたし、と説かれたり、仏智の及ばぬ事、何かあるべきなれども、法華の題名受持の功徳ばかりは、是を知らずと宣(の)べたり、法華一部の功徳は、只(ただ)、妙法等の五字の内に籠(はい)れり、一部八巻、文文ごとに、二十八品(ぽん)、生起かはれども、首題の五字は、同等なり、譬ば、日本の二字の中に、六十余州、島二つ入らぬ国やあるべき、籠(はい)らぬ郡やあるべき、飛鳥とよべば、空をかける者と知り、走獣といへば、地をはしる者と心うる、一切、名の大切なる事、蓋(けだ)し、以(もっ)て、是(か)くの如し、天台は、名詮自性・句詮差別、とも、名者大綱とも判ずる、此の謂(いわ)れなり、又、名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり、法華題名の功徳も、亦(また)以(もっ)て、此くの如し。
愚人、云く、聖人の言の如くば、実に首題の功、莫大(ばくだい)なり、但(ただ)し、知ると知らざるとの不同あり、我は弓箭(きゅうせん)に携(たずさわ)り、兵杖(ひょうじょう)をむねとして、未(いま)だ、仏法の真味を知らず、若(も)し、然(しか)れば、得る所の功徳、何ぞ、其れ深からんや、聖人、云く、円頓(えんとん)の教理は、初後、全(まった)く、不二にして、初位に後位の徳あり、一行一切行にして、功徳、備わらざるは之れ無し、若(も)し、汝が言の如くば、功徳を知って植えずんば、上は等覚(とうかく)より、下は名字(みょうじ)に至るまで、得益(とくやく)、更(さら)にあるべからず、今の経は、唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)と談ずるが故(ゆえ)なり、譬喩(ひゆ)品に云く、「汝、舎利弗、尚(なお)、此の経に於ては、信を以(もっ)て、入ることを得たり、況(いわん)や、余の声聞をや」、文の心は、大智、舎利弗も、法華経には信を以て入る、其の智分の力にはあらず、況(いわん)や、自余の声聞をやとなり、されば、法華経に来って信ぜしかば、永不成仏の名を削りて、華光如来となり、嬰児(ように)に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども、自然(じねん)に其の身を生長す、医師(くすし)が病者に薬を与うるに、病者、薬の根源をしらずといへども、服すれば、任運(にんうん)と病(やまい)愈(い)ゆ、若(も)し、薬の源をしらずと云って、医師(くすし)の与ふる薬を服せずば、其の病、愈(い)ゆべしや、薬を知るも知らざるも、服すれば病の愈(い)ゆる事、以(もっ)て、是れ同じ、既に、仏を良医と号し、法を良薬に譬へ、衆生を病人に譬ふ、されば、如来一代の教法を、擣?(とうし)和合して、妙法一粒の良薬に丸(がん)ぜり、豈(あに)、知るも知らざるも、服せん者、煩悩の病、愈(い)えざるべしや、病者は薬をもしらず、病をも弁(わきま)へずといへども、服すれば必ず愈(い)ゆ、行者も亦(また)然(しか)なり、法理をもしらず、煩悩をもしらずといへども、只(ただ)、信ずれば、見思(けんじ)・塵沙(じんじゃ)・無明(むみょう)、の三惑の病を、同時に断じて、実報(じっぽう)・寂光(じゃっこう)の台(うてな)にのぼり、本有(ほんぬ)三身の膚(はだえ)を磨かん事、疑いあるべからず、されば、伝教大師、云く、「能化・所化、倶(とも)に、歴劫(りゃっこう)無く、妙法、経の力、即身成仏す」、と、法華経の法理を教へん師匠も、又、習はん弟子も、久しからずして、法華経の力をもって、倶(とも)に、仏になるべし、と云う文なり。”

(2005.05.04)
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