appeal

”聖人、示して云く、汝、蘭室(らんしつ)の友に交って、麻畝(まほ)の性と成る、誠に、禿樹(とくじゅ)、禿(かぶろ)に非ず、春に遇って栄え華さく、枯草、枯るに非ず、夏に入って鮮かに注(うるお)ふ、若(も)し、先非を悔いて、正理に入らば、湛寂(たんじゃく)の潭(ふち)に遊泳して、無為の宮に優遊せん事、疑なかるべし、抑(そもそも)、仏法を弘通(ぐづう)し、群生を利益せんには、先(ま)ず、教・機・時・国・教法流布の前後、を弁(わきま)ふべきものなり、所以(しょせん)は、時に、正・像・末、あり、法に、大・小乗あり、修行に、摂・折(しょうしゃく)あり、摂受(しょうじゅ)の時、折伏(しゃくぶく)を行ずるも非なり、折伏の時、摂受を行ずるも失(とが)なり、然(しか)るに、今、世は、摂受の時か、折伏の時か、先(ま)づ、是を知るべし、摂受の行は、此の国に法華一純に弘まりて、邪法・邪師、一人もなしといはん、此の時は、山林に交って、観法を修し、五種・六種、乃至、十種等を行ずべきなり、折伏の時は、かくの如くならず、経教のおきて、蘭菊(らんぎく)に、諸宗のおぎろ誉れを擅(ほしいまま)にし、邪正、肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣(さしお)いて、謗法(ほうぼう)を責むべし、是れ、折伏の修行なり、此の旨(むね)を知らずして、摂折(しょうしゃく)、途(みち)に違(たが)はば、得道は思もよらず、悪道に堕つべしと云う事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈(げしゃく)にも分明なり、是れ、仏法修行の大事なるべし、譬ば、文武両道を以て天下を治るに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり、天下無為にして、国土、静かならん時は、文を先とすべし、東夷・南蛮・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)、蜂起して、野心をさしはさまんには、武を先とすべきなり、文武のよき事計りを心えて、時をもしらず、万邦・安堵の思をなして、世間、無為ならん時、甲冑(かっちゅう)をよろひ、兵杖(ひょうじょう)をもたん事も非なり、又、王敵、起らん時、戦場にて武具をば閣(さしお)いて、筆硯(ひっけん)を提(ひっさげ)ん事、是も亦(また)、時に相応せず、摂受・折伏の法門も亦(また)是(か)くの如し、正法のみ弘まって、邪法・邪師、無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦・書写をもし、観念、工夫をも凝(こら)すべし、是れ、天下の静なる時、筆硯(ひっけん)を用ゆるが如し、権宗・謗法、国にあらん時は、諸事を閣(さしお)いて、謗法(ほうぼう)を責むべし、是れ、合戦の場に、兵杖(ひょうじょう)を用ゆるが如し、然(しか)れば、章安大師、涅槃(ねはん)の疏(じょ)に釈して云く、「昔は、時、平かにして、法、弘まる、応(まさ)に、戒を持すべし、杖(つえ)を持すること勿(なか)れ、今は、時、嶮(さか)しくして、法、翳(かく)る、応(まさ)に、杖を持すべし、戒を持すること勿れ、今昔、倶(とも)に、嶮(さか)しくば、倶(とも)に、杖を持すべし、今昔、倶に平かならば、応(まさ)に、倶に戒を持すべし、取捨、宜(よろ)きを得て、一向にす可からず」、と、此の釈の意、分明なり、昔は、世もすなをに、人もただしくして、邪法・邪義、無かりき、されば、威儀をただし、穏便(おんびん)に行業を積んで、杖をもって、人を責めず、邪法をとがむる事無かりき、今の世は、濁世(じょくせ)なり、人の情(こころ)もひがみ、ゆがんで、権教・謗法のみ多ければ、正法、弘まりがたし、此の時は、読誦・書写の修行も、観念・工夫・修練も無用なり、只、折伏を行じて、力あらば、威勢を以(もっ)て、謗法(ほうぼう)をくだき、又、法門を以ても、邪義を責めよとなり、取捨、其、旨を得て、一向に執する事なかれ、と書けり、今の世を見るに、正法、一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か、勘(かんが)ふべし、然(しか)るを、浄土宗の法然は、念仏に対して、法華経を捨閉閣抛(しゃへいかくほう)とよみ、善導は、法華経を雑行(ぞうぎょう)と名け、剰(あまつさ)へ、千中無一とて、千人、信ずとも、一人、得道の者あるべからず、と書けり、真言宗の弘法は、法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論(けろん)の法と定めたり、正覚房は、法華経は、大日経のはきものとりにも及ばず、と云ひ、釈尊をば、大日如来の牛飼にもたらず、と判せり、禅宗は、法華経を、吐たるつばき、月をさす指、教網なんど下す、小乗・律等は、法華経は、邪教・天魔の所説と名けたり、此等、豈(あに)、謗法にあらずや、責めても、猶(なお)あまりあり、禁(いまし)めても、亦(また)たらず。
愚人、云く、日本、六十余州、人替り、法異りといへども、或は、念仏者、或は、真言師、或は、禅、或は、律、誠に、一人として、謗法ならざる人はなし、然(しか)りと雖(いえど)も、人の上、沙汰してなにかせん、只、我が心中に深く信受して、人の誤りをば、余所の事にせんと思ふ、聖人、示して云く、汝、言う所、実にしかなり、我も其の義を存ぜし処に、経文には、或は、不惜(ふしゃく)身命とも、或は、寧喪(ねいそう)身命とも説く、何故に、かやうには説かるるや、と存ずるに、只、人をはばからず、経文のままに、法理を弘通せば、謗法の者多からん世には、必ず三類の敵人有って、命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目を見ながら、我もせめず、国主にも訴へずば、教へに背(そむ)いて、仏弟子にはあらず、と説かれたり、涅槃経第三に云く、「若し善比丘あつて、法を壊らん者を見て、置いて、呵責(かしゃく)し、駈遣(くけん)し、挙処(こしゃ)せずんば、当に知るべし、是の人は、仏法の中の怨なり、若し能く駈遣(くけん)し、呵責(かしゃく)し、挙処(こしゃ)せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」、と、此の文の意は、仏の正法を弘めん者、経教の義を悪く説かんを聞き見ながら、我もせめず、我が身、及ばずば、国主に申し上げても、是を対治せずば、仏法の中の敵なり、若し経文の如くに、人をもはばからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして、真の僧なり、と説かれて候、されば、仏法中怨(おん)の責を免れんとて、かやうに諸人に悪(にく)まるれども、命を釈尊と法華経に奉り、慈悲を一切衆生に与へて、謗法を責むるを、心えぬ人は、口をすくめ、眼を瞋(いか)らす、汝、実に後世を恐れば、身を軽しめ、法を重んぜよ、是を以て章安大師云く、「寧ろ身命を喪(うしな)ふとも、教を匿(かく)さざれ、とは、身は軽く法は重し、身を死して法を弘めよ」、と、此の文の意は、身命をばほろぼすとも、正法をかくさざれ、其の故は、身はかろく法はおもし、身をばころすとも法をば弘めよとなり。
悲いかな、生者必滅の習なれば、設(たと)ひ、長寿を得たりとも、終(つい)には、無常をのがるべからず、今世は、百年の内外の程を思へば、夢の中の夢なり、非想の八万歳、未だ無常を免れず?利(とうり)の一千年も、猶(なお)、退没(たいもつ)の風に破らる、況(いわん)や人間、閻浮(えんぶ)の習は、露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだなり、水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれ、さきだつ身なり、若し、此の道理を得ば、後世を一大事とせよ、歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒、此の行者を怨(あだ)みて、責めしかば、有徳国王、正法を守る故に、謗法を責めて、終(つい)に、命、終して、阿?(あしゅく)仏の国に生れて、彼の仏の第一の弟子となる、大乗を重んじて、五百人の婆羅門の謗法を誡めし、仙予(せんよ)国王は、不退の位に登る、憑(たのも)しいかな、正法の僧を重んじて、邪悪の侶(とも)を誡(いまし)むる人、かくの如くの徳あり、されば、今の世に摂受を行ぜん人は、謗人と倶(とも)に、悪道に堕ちん事疑い無し、南岳大師の四安楽行に云く、「若し、菩薩有って、悪人を将護し治罰すること能わず、乃至(ないし)、其の人、命、終して、諸悪人と倶に地獄に堕せん」、と、此の文の意は、若し、仏法を行ずる人有って、謗法の悪人を治罰せずして、観 念・思惟を専(もっぱ)らにして、邪正・権実をも簡(えら)ばず、詐(いつわ)って、慈悲の姿を現ぜん人は、諸の悪人と倶に悪道に堕つべし、と云う文なり、今、真言・念仏・禅・律、の謗人をたださず、いつは(詐)って、慈悲を現ずる人、此の文の如くなるべし。”

(2005.05.03)
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