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”天台大師も、法華経に付いて、玄義・文句・止観、の三十巻の釈を造り給う、妙楽大師は、又、釈籤(しゃくせん)・疏記(じょき)・輔行(ふぎょう)、の三十巻の末文を重ねて消釈す、天台六十巻とは是(これ)なり、玄義には、名・体・宗・用・教、の五重玄を建立して、妙法蓮華経、の五字の功能を判釈す、五重玄を釈する中の宗の釈に云く、「綱維(こうい)を提(ひっさ)ぐるに、目(もく)として動かざること無く、衣(ころも)の一角を牽(ひ)くに、縷(る)として来(きた)らざる無きが如し」、と、意(こころ)は、此の、妙法蓮華経、を、信仰し奉る一行に、功徳として来らざる事なく、善根として動かざる事なし、譬(たとえ)ば、網の目、無量なれども、一つの大綱を引くに、動かざる目もなく、衣の糸筋、巨多(あまた)なれども、一角(すみ)を取るに、糸筋として来らざることなきが如し、と云う義なり、さて、文句には、如是我聞(にょぜがもん)より、作礼而去(さらいにこ)まで、文文句句に、因縁・約教・本迹(ほんじゃく)・観心、 の四種の釈を設けたり、次に、止観には、妙解(みょうげ)の上に立てる所の、観不思議境の一念三千、是れ、本覚の立行、本具の理心なり、今、爰(ここ)に、委(くわ)しくせず、悦(よろこ)ばしいかな、生を五濁(ごじょく)悪世に受くといへども、一乗の真文を見聞する事を得たり、熈連恒沙(きれんごうじゃ)の善根を致せる者、此の経にあい奉(たてまつ)って、信を取ると見えたり、汝、今、一念随喜の信を致す、函蓋相応(かんがいそうおう)・感応道交(かんのうどうこう)、疑い無し。
愚人、頭(こうべ)を低(た)れ、手を挙げて云く、我れ、今よりは、一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として、今身(こんしん)自(よ)り、仏身に至るまで、此の信心、敢(あえ)て、退転無けん、設(たと)ひ、五逆の雲厚くとも、乞(こ)ふ、提婆達多(だいばだった)が成仏を続(つ)ぎ、十悪の波あらくとも、願くは、王子・覆講(ふっこう)の結縁に同じからん、聖人、云く、人の心は、水の器(うつわ)にしたがふが如く、物の性は、月の波に動くに似たり、故(ゆえ)に、汝、当座は信ずといふとも、後日は必ず翻(ひるが)へさん、魔、来り、鬼、来るとも、騒乱(そうらん)する事なかれ、夫(そ)れ、天魔は、仏法をにくむ、外道は、内道をきらふ、されば、猪(い)の金山を摺(す)り、衆流(しゅうる)の海に入り、薪(たきぎ)の火を盛んになし、風の求羅(ぐら)をますが如くせば、豈(あに)、好(よ)き事にあらずや。”

(聖愚問答抄、編年体御書P267、御書P474)

(2005.05.05)
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