appeal

”法華最第一の経文を見ながら、大日経は、法華経に勝れたり、禅宗は、最上の法なり、律宗こそ、貴けれ、念仏こそ、我等が分にはかなひたれ、と、申すは、酒に酔える人にあらずや。星を見て、月にすぐれたり、石を見て、金にまされり、東を見て、西と云い、天を地と申す物ぐるひを本として、月と金は、星と石とには勝れたり、東は東、天は天、なんど、有りのままに申す者をば、あだませ給はば、勢の多きに付くべきか。只、物ぐるひの多く集まれるなり。されば、此等を本とせし、云うにかひなき男女の、皆、地獄に堕ちん事こそ、あはれに候へ。涅槃経には、仏、説き給はく、末法に入って、法華経を謗じて、地獄に堕つる者は、大地微塵よりも多く、信じて、仏になる者は、爪の上の土よりも少し、と、説かれたり。此れを以って、計らせ給うべし。日本国の諸人は、爪の上の土、日蓮一人は、十方の微塵にて候べきか。然(しか)るに、何なる宿習にてをはすれば、御衣をば送らせ給うぞ。爪の上の土の数に入らんとおぼすか。又、涅槃経に云く、「大地の上に針を立てて、大風の吹かん時、大梵天より糸を下さんに、糸のはし、すぐに下りて、針の穴に入る事はありとも、末代に、法華経の行者にはあひがたし」。法華経に云く、「大海の底に亀あり。三千年に一度、海上にあがる、栴檀の浮木の穴にゆきあひて、やすむべし。而(しか)るに、此の亀、一目なるが、而(しか)も、僻目(すがめ)にて、西の物を東と見、東の物を西と見るなり」。末代悪世に生れて、法華経、並びに、南無妙法蓮華経、の、穴に、身を入るる男女に、たとへ給へり。何なる過去の縁にてをはすれば、此の人をと(訪)ふらんと思食(おぼしめ)す御心(みこころ)は、つかせ給いけるやらん。法華経を見まいらせ候へば、釈迦仏の其の人の御身に入らせ給いて、かかる心はつくべし、と、説かれて候。譬へば、なにとも思はぬ人の、酒をのみて、えい(酔)ぬれば、あらぬ心、出来(いできた)り。人に物をとらせ(与える)ばや、なんど、思う心、出来(いできた)る。此れは、一生、慳貪(けんどん)にして、餓鬼に堕つべきを、其の人の酒の縁に、菩薩の入りかはらせ給うなり。濁水に珠(たま)を入れぬれば、水すみ、月に向いまいらせぬれば、人の心あこがる。画にかける鬼には、心なけれども、おそろし。とわり(後妻)を画にかけば、我が夫をば、とらねども、そねまし。錦のしとね(褥)に、蛇をお(織)れるは、服せんとも思はず。身のあつきに、あたたかなる風、いとはし。人の心も此くの如し。法華経の方へ、御心をよせさせ給うは、女人の御身なれども、竜女が御身に入らせ給うか。
さては、又、尾張の次郎兵衛尉殿の御事、見参に入りて候いし人なり。日蓮は、此の法門を申し候へば、他人にはにず、多くの人に見(まみえ)て候へども、いとをしと申す人は、千人に一人もありがたし。彼の人は、よも、心よ(寄)せには思はれたらじ。なれども、自体、人がらにくげ(憎気)なるふりなく、よろづの人に、なさけあらんと思いし人なれば、心の中は、うけずこそ、をぼ(思)しつらめども、見参の時は、いつはり(偽)、をろ(疎)かにて有りし人なり。又、女房の信じたるよし、ありしかば、実とは思い候はざりしかども、又、いたう、法華経に背く事は、よもをはせじ。なれば、たのもしきへんも候。されども、法華経を失ふ念仏、並びに、念仏者を信じ、我が身も多分は念仏者にてをはせしかば、後生はいかがと、をぼつかなし。譬えば、国主は、みやづかへのねんごろなるには、恩のあるもあり、又、なきもあり。少しも、をろかなる事候へば、とがになる事疑なし。法華経も、又、此くの如し。いかに信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも、知れ知らざれ、まじはりぬれば、無間地獄は疑なし。
是はさてをき候ぬ。彼の女房の御歎、いかがとをしはかるに、あはれなり。たとへば、ふじ(藤)のはなのさかんなるが、松にかかりて思う事もなきに、松のにはかにたふれ、つた(蔦)のかき(垣)にかかれるが、かき(垣)の破れたるが如くに、をぼすらん。内へ入れば、主なし、やぶれたる家の、柱なきが如し。客人、来れども、外に出でて、あひしらうべき人もなし。夜のくらきには、ねや(閨)、すさ(凄)まじく、はか(墓)をみれば、しるしはあれども、声もきこへず。又、思いやる死出(しで)の山、三途の河をば、誰とか越え給うらん。只、独り、歎き給うらん。「とどめ(留)をきし、御前たち、いかに我をばひとりやるらん。さは、ちぎ(契)らざり」、とや、歎かせ給うらんかたがた、秋の夜のふけゆくままに、冬の嵐のをとづるる声につけても、弥弥(いよいよ)、御歎き、重り候らん。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。”

(妙法比丘尼御返事、編年体御書P1131、御書P1406)

(2005.07.07)
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