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”問うて云(いわ)く、末代、悪世の凡夫は、何物を以(もっ)て、本尊と定むべきや。答えて云く、法華経の題目を以て、本尊とすべし。問うて云く、何(いず)れの経文、何れの人師の釈にか出でたるや。答う、法華経の第四法師品に云く、「薬王、在在処処に、若(も)しは、説き、若しは、読み、若しは、誦(ず)し、若しは、書き、若しは、経巻、所住の処には、皆、応(まさ)に、七宝の塔を起てて、極めて、高広厳飾(こうこうごんじき) なら令(し)むべし。復(また)、舎利(しゃり)を安(やす)んずることを須(もち)いじ。所以(ゆえん)は何(いか)ん。此の中には、已(すで)に、如来の全身、有(ましま)す」、等、云云。涅槃経(ねはんきょう)の第四如来性品に云く、「復(また)、次に、迦葉(かしょう)、諸仏の師とする所は、所謂(いわゆる)、法なり。是の故に、如来、恭敬(くぎょう)供養す。法、常なるを以ての故に、諸仏も、亦(また)、常なり」、云云。天台大師の法華三昧(さんまい)に云く、「道場の中に於て、好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦(また)、必ずしも、形像(ぎょうぞう)、舎利、並びに、余の経典を、安(お)くべからず。唯、法華経一部を置け」、等、云云。
疑って云く、天台大師の摩訶止観(まかしかん)の第二の四種(ししゅ)三昧(さんまい)の御本尊は、阿弥陀仏なり。不空三蔵の法華経の観智の儀軌(ぎぎ)は、釈迦・多宝、を以て、法華経の本尊とせり。汝(なんじ)、何ぞ、此等の義に相違するや。答えて云く、是れ、私の義にあらず。上に出だすところの経文、並びに、天台大師の御釈なり。但し、摩訶止観の四種三昧の本尊は、阿弥陀仏とは、彼は、常坐・常行・非行・非坐、の三種の本尊は、阿弥陀仏なり。文殊問経・般舟(はんじゅ)三昧経・請観音経、等、に、よる。是れ、爾前(にぜん)の諸経の内、未顕真実の経なり。半行半坐三昧には、二あり、一には、方等経の、七仏・八菩薩、等、を、本尊とす。彼の経による。二には、法華経の、釈迦・多宝、等、を、引き奉れども、法華三昧を以て案ずるに、法華経を本尊とすべし。不空三蔵の法華儀軌は、宝塔品の文によれり。此れは、法華経の教主を本尊とす。法華経の正意にはあらず。上に挙ぐる所の本尊は、釈迦・多宝・十方の諸仏、の御本尊、法華経の行者の正意なり。
問うて云く、日本国に十宗あり。所謂(いわゆる)、倶舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗、なり。此の宗は、皆、本尊、まちまちなり。所謂(いわゆる)、倶舎・成実・律、の三宗は、劣応身(れつおうじん)の小釈迦なり。法相・三論、の二宗は、大釈迦仏を本尊とす。華厳宗は、台上の、るさな(盧遮那)報身の釈迦如来。真言宗は、大日如来。浄土宗は、阿弥陀仏。禅宗にも、釈迦を用いたり。何ぞ、天台宗に独り、法華経を本尊とするや。答う、彼等は、仏を本尊とするに、是は経を本尊とす。其の義あるべし。問う、其の義、如何(いかん)。仏と経といづれか勝れたるや。答えて云く、本尊とは、勝れたるを用うべし。例せば、儒家には、三皇五帝を用いて本尊とするが如く、仏家にも、又、釈迦を以て本尊とすべし。
問うて云く、然(しか)らば、汝、云何(いかん)ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答う、上に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは、法華経を本尊と定め給へり。末代、今の日蓮も、仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は、法華経は、釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日、総じて、十方の諸仏は、法華経より出生(しゅっしょう)し給へり。故に、今、能生(のうしょう)を以て、本尊とするなり。問う、其(その)、証拠、如何(いかん)。答う、普賢経に云く、「此の大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」、等、云云。又、云く、「此の方等経は、是れ諸仏の眼なり。諸仏は、是に因って、五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は、方等より生ず。是れ大法印にして、涅槃海を印す。此くの如き、海中より、能く、三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は、人天の福田、応供(おうぐ)の中の最なり」、等、云云。此等の経文、仏は、所生(しょしょう)、法華経は、能生(のうしょう)。仏は、身なり、法華経は、神(たましい)なり。然(しか)れば、則(すなわ)ち、木像・画像、の開眼供養は、唯、法華経にかぎるべし。而(しか)るに、今、木画の二像をまうけて、大日仏眼の印と真言とを以て、開眼供養をなすは、も(最)とも、逆なり。
問うて云く、法華経を本尊とすると、大日如来を本尊とすると、いづれか勝るや。答う、弘法大師・慈覚大師・智証大師、の御義の如くならば、大日如来はすぐれ、法華経は劣るなり。問う、其の義、如何(いかん)。答う、弘法大師の秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)十住心に云く、「第八法華・第九華厳・第十大日経」、等、云云。是は、浅きより深きに入る。慈覚大師の金剛頂経の疏(じょ)、蘇悉地経(そしつちきょう)の疏、智証大師の大日経の旨帰(しき)、等、に、云く、「大日経第一・法華経第二」、等、云云。問う、汝が意、如何。答う、釈迦如来・多宝仏、総じて十方の諸仏、の御評定に云く、已今当(いこんとう)の一切経の中に、法華最為第一なり、云云。問う、今、日本国中の、天台・真言、等、の、諸僧、並びに、王臣・万民、疑って云く、日蓮法師めは、弘法・慈覚・智証大師、等、に、勝るべきか、如何。答う、日蓮、反詰(はんきつ)して云く、弘法・慈覚・智証大師、等、は、釈迦・多宝・十方の諸仏、に勝るべきか、是(これ)一。今、日本の国王より民までも、教主釈尊の御子(みこ)なり。釈尊の最後の御遺言に云く、「法に依って、人に依らざれ」、等云云。法華最第一と申すは、法に依るなり。然(しか)るに、三大師等に勝るべしやとの給ふ。諸僧・王臣・万民、乃至、所従・牛馬、等、に、いたるまで、不孝の子にあらずや、是二。問う、弘法大師は、法華経を見給はずや。答う、弘法大師も一切経を読み給へり。其の中に、法華経・華厳経・大日経、の、浅深・勝劣、を読み給うに、法華経を読給う様に云く、文殊師利、此の法華経は、諸仏如来秘密の蔵なり、諸経の中に於て、最も其の下に在り。又、読み給う様に云く、薬王、今、汝に告ぐ、我が所説の諸経あり、而(しか)も、此の経の中に於て、法華最第三、云云。又、慈覚・智証大師の読み給う様に云く、諸経の中に於て、最も其の中に在り、又、最為第二、等、云云。釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏、法華経を一切経に相対して、説いての給はく、法華最第一。又、説いて云く、法華、最も其の上に在り、云云。所詮(しょせん)、釈迦・十方の諸仏、と、慈覚・弘法、等、の、三大師と、いづれを本とすべきや。但(ただ)し、事を日蓮によせて、釈迦・十方の諸仏、には、永く背きて、三大師を本とすべきか、如何。

(2005.07.09)
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