appeal

”而(しか)るを、去(い)ぬる、延暦(えんりゃく)二十一年、正月十九日に、天皇、高雄寺(たかおでら)に行幸(みゆき)あって、七寺の碩徳(せきとく)、十四人、善議(ぜんぎ)・勝猷(しょうゆう)・奉基(ほうき)・寵忍(ちょうにん)・賢玉(けんぎょく)・安福(あんぷく)・勤操(ごんそう)・修円(しゅうえん)・慈誥(じこう)・玄耀(げんよう)・歳光(さいこう)・道証(どうしょう)・光証(こうしょう)・観敏(かんびん)、等、の、十有余人を召合(めしあわ)す。華厳・三論・法相(ほっそう)、 等、の、人人、各各(おのおの)、我が宗の元祖が、義にたがはず。最澄(さいちょう)上人は、六宗の人人の所立(しょりゅう)、一一に牒(ちょう)を取りて、本経・本論、並びに、諸経・諸論、に、指し合わせて、せめしかば、一言も答えず。口をして鼻のごとくになりぬ。天皇、をどろき給いて、委細(いさい)に御たづねありて、重ねて勅宣(ちょくせん)を下(くだ)して、十四人をせめ給いしかば、承伏(しょうぶく)の謝表(しゃひょう)を奉(たてまつ)りたり。其(そ)の書に云(いわ)く、「七箇の大寺、六宗の学匠(がくしょう)、乃至(ないし)、初めて、至極(しごく)を悟る」、等、云云(うんぬん)。又、云く、「聖徳の弘化(ぐげ)より以降(このかた)、今に二百余年の間、講ずる所の経論、其数多し。彼此(かれこれ)理を争うて、其の疑(うたがい)、未(いま)だ、解(と)けず。而(しか)も、此の最妙の円宗は、猶(なお)、未(いま)だ、闡揚(せんよう)せず」、等、云云。又、云く、「三論・法相、久年の諍(あらそい)、渙焉(かんえん)として、氷の如く解け、照然(しょうねん)として、既に明かにして、猶(なお)、雲霧(うんむ)を披(ひら)いて、三光を見るがごとし」、と、云云。最澄(さいちょう)和尚(わじょう)、十四人が義を判じて云く、「各(おのおの)、一軸を講ずるに、法鼓(ほっく)を深壑(しんがく)に振(ふる)い、賓主(ひんしゅ)は、三乗の路に徘徊(はいかい)し、義旗(ぎき)を高峰(こうほう)に飛ばす。長幼は、三有(さんう)の結(けつ)を摧破(さいは)して、猶(なお)、未(いま)だ、歴劫(りゃっこう)の轍(てつ)を改めず。白牛(びゃくご)を門外に混(こん)ず。豈(あに)、善(よ)く、初発(しょほつ)の位に昇り、阿荼(あだ)を宅内(たくない)に悟らんや」、等、云云。弘世(ひろよ)・真綱(まつな)の、二人の臣下、云く、「霊山(りょうぜん)の妙法を、南岳(なんがく)に聞き、総持の妙悟を天台に闢(ひら)く。一乗の権滞(ごんたい)を慨(なげ)き、三諦(さんたい)の未顕(みけん)を悲しむ」、等、云云。又、十四人の云く、「善議(ぜんぎ)等、牽(ひ)れて、休運(きゅううん)に逢(あ)い、乃(すなわ)ち、奇詞(きし)を閲(けみ)す。深期(じんご)にあらざるよりは、何(なん)ぞ、聖世(せいせい)に託(たく)せんや」、等、云云。此の十四人は、華厳宗の法蔵・審祥(しんじょう)、三論宗の嘉祥(かじょう)・観勒(かんろく)、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣(どうせん)・鑒真(がんじん)、等、の、漢土・日本の元祖(がんそ)、等、の、法門、瓶(かめ)は、かはれども、水は一なり。而(しか)るに、十四人、彼(か)の邪義をすてて、伝教(でんぎょう)(最澄)の法華経に帰伏(きふく)しぬる上は、誰の末代(まつだい)の人か、華厳・般若・深密経、等、は、法華経に超過せり、と、申すべきや。小乗の三宗は、又、彼の人人の所学なり。大乗の三宗、破れぬる上は、沙汰(さた)のかぎりにあらず。而(しか)るを、今に子細(しさい)を知らざる者、六宗は、いまだ破られずとをもへり。譬(たと)へば、盲目(めしい)が、天の日月を見ず、聾人(つんぼ)が、雷(いかずち)の音をきかざるゆへに、天には日月なし、空に声なし、と、をもうがごとし。
真言宗と申すは、日本人王(にんのう)、第四十四代と申せし、元正(げんしょう)天皇の御宇(ぎょう)に、善無畏(ぜんむい)三蔵、大日経をわたして、弘通(ぐずう)せずして、漢土へかへる。又、玄?(げんぼう)等、大日経の義釈(ぎしゃく)、十四巻をわたす。又、東大寺の得清大徳(とくしょうだいとく)、わたす。此等を、伝教大師(最澄)、御らんありてありしかども、大日経・法華経、の、勝劣、いかんが、と、おぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去(い)ぬる、延暦(えんりゃく)二十三年七月、御入唐(ごにっとう)、国清(こくせい)寺の道邃(どうずい)和尚、仏滝(ぶつろう)寺の行満(ぎょうまん)、等、に、値(あ)い奉りて、止観・円頓(えんどん)の大戒を伝受し、霊感(れいかん)寺の順暁(じゅんぎょう)和尚に値(あ)い奉りて、真言を相伝し、同、延暦二十四年六月に帰朝して、桓武(かんむ)天皇に御対面、宣旨(せんし)を下(くだ)して、六宗の学生(がくしょう)に、止観・真言、を、習はしめ、同、七大寺にをかれぬ。真言・止観、の、二宗の勝劣は、漢土に多く、子細あれども、又、大日経の義釈(ぎしゃく)には、理同事勝(りどうじしょう)とかきたれども、伝教大師は、善無畏(ぜんむい)三蔵のあやまりなり、大日経は、法華経には劣りたり、と、知(しろ)しめして、八宗とは、せさせ給はず。真言宗の名を けづりて、法華宗の内に入れ、七宗となし、大日経をば、法華天台宗の傍依(ぼうえ)経となして、華厳・大品般若・涅槃、等、の、例とせり。而(しか)れども、大事の円頓(えんどん)の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に、立(たと)う、立(たて)じ、の、諍論(じょうろん)が、わずらはしきに依りてや、真言・天台、の、二宗の勝劣は、弟子にも分明(ぶんみょう)に、をしえ給わざりけるか。但(ただ)、依憑(えびょう)集と申す文に、正しく、真言宗は法華天台宗の正義(しょうぎ)を偸(ぬす)みとりて、大日経に入れて、理同とせり。されば、彼の宗は、天台宗に落ちたる宗なり。いわうや、不空(ふぐう)三蔵は、善無畏(ぜんむい)・金剛智(こんごうち)、入滅の後、月氏(がっし)に入りてありしに、竜智(りゅうち)菩薩に値(あ)い奉りし時、月氏には、仏意(ぶっち)をあきらめたる論釈なし。漢土に、天台という人の釈こそ邪正(じゃしょう)をえらび、偏円(へんえん)をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ、月氏へ渡し給え、と、ねんごろにあつらへ(誂)し事を、不空の弟子、含光(がんこう)といゐし者が、妙楽大師にかたれるを、記の十の末に、引き載(の)せられて候を、この依憑(えびょう)集に取り載(の)せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心(みこころ)、顕然(けんねん)なり。されば、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師、の、御心は、一同に、大日経等の一切経の中には、法華経はすぐれたりという事は分明なり。又、真言宗の元祖という、竜樹(りゅうじゅ)菩薩の御心もかくのごとし。大智度(だいちど)論を能(よ)く能く尋(たず)ぬるならば、此の事、分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に、皆、人、ばかされて、此の事に迷惑(めいわく)せるか。
又、石淵(いわぶち)の勤操(ごんそう)僧正の御弟子(みでし)に空海と云う人あり。後には、弘法大師とがうす。去(い)ぬる、延暦二十三年五月十二日に、御入唐(ごにっとう)、漢土にわたりては、金剛智(こんごうち)・善無畏(ぜんむい)、の、両三蔵の第三の御弟子(みでし)、慧果(けいか)和尚といゐし人に、両界を伝受し、大同二年十月二十二日に、御帰朝、平城(へいぜい)天皇の御宇なり。桓武(かんむ)天皇は、御ほうぎよ、平城天王に見参(げざん)し、御用(おんもち)いありて、御帰依(ごきえ)、他にことなりしかども、平城(へいぜい)ほどもなく嵯峨(さが)に世をとられさせ給いしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は、嵯峨(さが)天皇の弘仁(こうにん)十三年六月四日、御入滅。同じき、弘仁十四年より、弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てて、東寺を給い、真言和尚とがうし、此より八宗始る。一代の勝劣を判じて云く、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃(ねはん)、等、云云。法華経は、阿含(あごん)・方等(ほうどう)・般若(はんにゃ)、等、に、対すれば、真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば、戯論(けろん)の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向うれば、無明(むみょう)の辺域(へんいき)と申して、皇帝と俘囚(えびす)との如し。天台大師は盗人(ぬすびと)なり。真言の醍醐(だいご)を盗んで、法華経を醍醐(だいご)という、なんど、かかれしかば、法華経は、いみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば、物のかずにもあらず。天竺(てんじく)の外道(げどう)は、さて置きぬ、漢土の南北が、法華経は、涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が、法華経は華厳経に対すれば、枝末(しまつ)教と申せしにもこへたり。例えば、彼(か)の月氏(がっし)の大慢婆羅門(だいまんばらもん)が、大自在天(だいじざいてん)・那羅延天(ならえんてん)・婆籔天(ばそてん)・教主釈尊、の、四人を高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。伝教大師、御存生(ごぞんしょう)ならば、一言(いちごん)は、出(いだ)されべかりける事なり。又、義真(ぎしん)・円澄(えんちょう)・慈覚(じかく)・智証(ちしょう)、等、も、いかに御不審(ごふしん)は、なかりけるやらん。天下第一の大凶(だいきょう)なり。”

(2005.05.18)
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