appeal

”然(しか)るに、日蓮は、東海道十五箇国の内、第十二に相当る、安房の国、長狭(ながさ)の郡(こおり)、東条の郷、片海(かたうみ)の海人(あま)が子なり。生年十二、同じき郷の内、清澄寺と申す山にまかり登り住しき。遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども、修学の人なし。然而(しかるに)、随分、諸国を修行して、学問し候いしほどに、我が身は不肖なり、人はおしへず、十宗の元起、勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま、仏・菩薩、に祈請して、一切の経論を勘(かんがえ)て、十宗に合せたるに、倶舎宗は、浅近(せんごん)なれども、一分は小乗経に相当するに似たり。成実宗は、大小兼雑して、謬?(みょうご)あり。律宗は、本は、小乗、中比(なかごろ)は、権大乗、今は、一向に大乗宗とおもへり。又、伝教大師の律宗あり。別に習う事なり。法相宗は、源(もと)、権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが、次第に増長して、権実と並び、結句は、彼の宗宗を打ち破らんと存ぜり。譬えば、日本国の将軍、将門(まさかど) ・純友(すみとも)、等、の、ごとし。下に居て上を破る。三論宗も、又、権大乗の空の一分なり。此れも、我は、実大乗とおもへり。華厳宗は、又、権大乗と云ひながら、余宗にまされり。譬えば、摂政・関白、のごとし。然而(しかるに)、法華経を敵となして立てる宗なる故に、臣下の身を以(もっ)て、大王に順ぜんとするがごとし。浄土宗と申すも、権大乗の一分なれども、善導・法然、が、たばかりかしこくして、諸経をば上げ、観経をば下し、正像の機をば上げ、末法の機をば下して、末法の機に相叶える念仏を取り出して、機を以て、経を打ち、一代の聖教を失いて、念仏の一門を立てたり。譬えば、心かしこくして、身は卑しき者が、身を上げて、心はかなきものを敬いて、賢人をうしなふがごとし。禅宗と申すは、一代聖教の外に、真実の法有り、と、云云。譬えば、をやを殺して、子を用い、主を殺せる所従の、しかも其の位につけるがご とし。真言宗と申すは、一向に大妄語にて候が、深く其の根源をかくして候へば、浅機の人、あらはしがたし。一向に、誑惑せられて、数年を経て候。先ず、天竺に真言宗と申す宗なし。然(しか)れども、有りと云云。其の証拠を尋ぬ可きなり。所詮(しょせん)、大日経、ここにわたれり。法華経に引き向けて、其の勝劣を見候処に、大日経は、法華経より七重下劣の経なり。証拠、彼の経、此の経、に分明なり。[此に之を引かず](真言は七重の劣と云う事、珍しき義なりと驚かるるは理なり。所以(ゆえ)に、法師品に云く、「已に説き、今説き、当(まさ)に説かん、而(しか)も、其の中に於て、此の法華経は、最も為れ、難信難解なり」、云云。又、云く、「諸経の中に於て最も其の上に在り」、云云。此の文の心は、法華は、一切経の中に勝れたり[此其一]。次に無量義経に云く、「次に方等十二部経、摩訶般若・華厳海空を説く」、云云。又、云く、「真実甚深、甚深甚深なり」、云云。此の文の心は、無量義経は、諸経の中に勝れて、甚深の中にも、猶(なお)、甚深なり。然(しか)れども、法華の序分にして、機も、いまだ、なましき故に、正説の法華には劣るなり[此其二]。次に涅槃経の九に云く、「是の経の世に出ずるは、彼の果実の利益する所多く、一切を安楽ならしむるが如く、能く衆生をして、仏性を見せしむ。法華の中の八千の声聞、記?(きべつ)を得授するが如く、大果実を成じ、秋収冬蔵して、更(さら)に、所作無きが如し」、云云。籤(せん)の一に云く、「一家の義意、謂(おもえら)く、二部同味なれども、然も、涅槃、尚(なお)、劣る」、云云。此の文の心は、涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味、同じ醍醐味なれども、涅槃経は、尚(なお)、劣るなり。法華経は勝れたり、と、云へり。涅槃経は、既に、法華の序分の無量義経よりも、劣り、醍醐味なるが故に、華厳経には勝たり[此其三]。次に華厳経は、最初、頓説(とんせつ)なるが故に、般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり[此其四]。次に蘇悉地(そしつち)経に云く、「猶(なお)、成ぜざらん者は、或は、復、大般若経を転読すること七遍」、云云。此の文の心は、大般若経は、華厳経には劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり[此其五]。次に蘇悉地経に云く、「三部の中に於て、此の経を王と為す」、云云。此の文の心は、蘇悉地経は、大般若経には劣り、大日経・金剛頂経、には勝ると見えたり[此其六]。此の義を以て、大日経は、法華経より、七重の劣、とは申すなり。法華の本門に望むれば、八重の劣とも申すなり。(真言天台勝劣事、編年体御書P354、御書P134))
しかるを、或は云く、法華経に三重の主君、或は、二重の主君なり、と、云云。以(もっ)ての外の大僻見(だいびゃっけん)なり。譬えば、劉聡(りゅうそ)が、下劣の身として、愍帝(びんてい)に馬の口をとらせ、超高が、民の身として、横(よこしま)に、帝位につきしがごとし。又、彼の天竺の大慢婆羅門が、釈尊を床として坐せしがごとし。漢土にも知る人なく、日本にもあやしめずして、すでに四百余年をおくれり。
是くの如く、仏法の邪正、乱れしかば、王法も、漸(ようや)く、尽きぬ。結句は、此の国、他国にやぶられて亡国となるべきなり。此の事、日蓮、独り、勘(かんが)え知れる故に、仏法のため、王法のため、諸経の要文を集めて、一巻の書を造る。仍(よ)って、故最明寺入道殿に奉る、立正安国論と名けき。其の書に、くはしく申したれども、愚人は知り難し。所詮(しょせん)、現証を引いて申すべし。抑(そもそも)、人王八十二代、隠岐の法王と申す王、有(おわしまし)き。去(いぬ)ぬる、承久三年[太歳辛巳]、五月十五日、伊賀太郎判官、光末(みつすえ)を打捕(うちとり)まします。鎌倉の義時をうち給はむとての門出なり。やがて、五畿七道の兵を召して、相州鎌倉の権の太夫、義時を打ち給はんとし給うところに、還りて、義時にまけ給いぬ。結句、我が身は、隠岐の国にながされ、太子二人は、佐渡の国、阿波の国にながされ給う。公卿七人は、忽(たちまち)に、頚(くび)をはねられてき。これは、いかにとして、まけ給いけるぞ。国王の身として、民の如くなる義時を打ち給はんは、鷹の雉(きじ)をとり、猫の鼠を食むにてこそあるべけれ。これは、猫のねずみに、くらはれ、鷹の雉に、とられたるやうなり。しかのみならず、調伏(ちょうふく)、力を尽せり。所謂(いわゆる)、天台の座主(ざす)、慈円僧正・真言の長者・仁和寺の御室(おむろ)・園城寺の長吏、総じて、七大寺・十五大寺・智慧戒行は、日月の如く、秘法は、弘法・慈覚、等、の、三大師の心中の深密の大法、十五壇の秘法なり。 五月十九日より、六月の十四日にいたるまで、あせをながし、なづきをくだきて行いき。最後には、御室・紫宸殿(ししんでん)、にして、日本国にわたりて、いまだ三度までも行はぬ、大法、六月八日、始めて之を行う程に、同じき、十四日に、関東の兵軍、宇治勢多をおしわたして、洛陽に打ち入りて、三院を生け取り奉りて、九重に火を放ちて、一時に焼失す。三院をば、三国へ流罪し奉りぬ。又、公卿七人は、忽(たちまち)に、頚をきる。しかのみならず、御室の御所に押し入りて、最愛の弟子の小児、勢多伽と申せしをせめいだして、終(つい)に、頚をきりにき。御室、思いに堪えずして、死に給い畢んぬ。母も死す、童も死す。すべて、此のいのりをたのみし人、いく千万といふ事をしらず、死にき。たまたま、いきたるもかひなし。御室、祈りを始め給いし、六月八日より、同じき、十四日まで、なかをかぞふれば、七日に満じける日なり。此の十五壇の法と申すは、一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星(そんしょう)王・太元守護経、等、の、大法なり。此の法の詮は、国敵王敵となる者を、降伏して、命を召し取りて、其の魂を、密厳(みつごん)浄土へつかはす、と云う、法なり。其の行者の人人も、又、軽からず。天台の座主、慈円・東寺・御室・三井の常住院の僧正、等、の、四十一人、並びに、伴僧等、三百余人なり、云云。法と云ひ、行者と云ひ、又、代も上代なり。いかにとして、まけ給いけるぞ。たとひ、かつ事こそなくとも、即時に、まけおはりて、かかる、はぢにあひたりける事、いかなるゆへといふ事を、余人いまだしらず。国主として、民を討たん事、鷹の鳥をとらんがごとし。たとひ、まけ給うとも、一年・二年・十年・二十年、も、ささうべきぞかし。五月十五日におこりて、六月十四日にまけ給いぬ。わづかに、三十余日なり。権の大夫殿は、此の事を兼てしらねば、祈祷(きとう)もなし、かまへもなし。”

(2005.07.12)
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