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”問う、弘法大師は、讃岐の国の人、勤操(ごんそう) 僧正の弟子なり。三論・法相、の六宗を極む。去(いぬ)る、延暦二十三年五月、桓武天皇の勅宣(ちょくせん)を帯びて、漢土に入り、順宗(じゅんそう)皇帝の勅に依りて、青竜寺に入りて、慧果和尚に、真言の大法を相承(そうじょう)し給へり。慧果和尚は、大日如来よりは七代になり給う。人はかはれども、法門はをなじ。譬えば、瓶の水を、猶(なお)、瓶にうつすがごとし。大日如来と、金剛薩?(こんごうさった)・竜猛・竜智・金剛智・不空・慧果・弘法、との、瓶は異なれども、所伝の智水は同じ、真言なり。此の大師、彼の真言を習いて、三千の波涛(はとう)をわたりて、日本国に付き給うに、平城(へいぜい)・嵯峨(さが)・淳和(じゅんな)、の三帝にさづけ奉る。去(いぬ)る、弘仁十四年正月十九日に、東寺を建立すべき勅を給いて、真言の秘法を弘通(ぐづう)し給う。然(しか)らば、五畿・七道・六十六箇国・二の島、に、いたるまでも、鈴をとり、杵(しょ)をにぎる人、たれかこの末流にあらざるや。
又、慈覚大師は、下野(しもつけ)の国の人、広智菩薩の弟子なり。大同三年、御歳十五にして、伝教大師の御弟子となりて、叡山に登りて、十五年の間、六宗を習い、法華・真言、の二宗を習い伝え、承和五年、御入唐、漢土の会昌(かいしょう)天子の御宇(ぎょう)なり。法全(はっせん)・元政(げんせい)・義真・法月・宗叡(そうえい)・志遠(しおん)、等、の、天台・真言、の碩学(せきがく)に値(あ)い奉りて、顕密の二道を習い極め給う。其の上、殊に、真言の秘教は、十年の間、功を尽し給う。大日如来よりは、九代なり。嘉祥(かじょう)元年、仁明天皇の御師なり。仁寿(にんじゅ)・斉衡(さいこう)に、金剛頂経・蘇悉地(そしつち)経、の二経の疏(じょ)を造り、叡山に総持院を建立して、第三の座主となり給う。天台の真言、これよりはじまる。
又、智証大師は、讃岐の国の人、天長四年、御年十四、叡山に登り、義真和尚の御弟子となり給う。日本国にては、義真・慈覚・円澄・別当、等、の、諸徳に、八宗を習い伝え、去(いぬ)る、仁寿元年に、文徳天皇の勅を給いて、漢土に入り、宣宗(せんそう)皇帝の大中年中に、法全・良?(りょうしょう)和尚、等、の、諸大師に、七年の間、顕密の二教、習い極め給いて、去る、天安二年に、御帰朝、文徳・清和、等、の、皇帝の御師なり。何(いず)れも、現の為当の為月の如く、日の如く、代代の明主、時時の臣民、信仰、余り有り、帰依、怠り無し。故に、愚癡の一切、偏(ひとえ)に、信ずるばかりなり。誠に、法に依って、人に依らざれ、の、金言を背かざるの外は、争(いかで)か、仏によらずして、弘法等の人によるべきや。所詮(しょせん)、其の心、如何(いかん)。答う、夫(そ)れ、教主釈尊の御入滅、一千年の間、月氏に仏法の弘通せし次第は、先五百年は、小乗、後の五百年は、大乗、小大・権実、の諍(あらそい)はありしかども、顕密の定めはかすかなりき。像法に入りて、十五年と申せしに、漢土に、仏法、渡る。始は、儒道と釈教と諍論(じょうろん)して、定めがたかりきされども、仏法やうやく弘通せしかば、小大・権実、の諍論(じょうろん)いできたる。されども、いたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて、六百年、玄宗皇帝の御宇(ぎょう)、善無畏・金剛智・不空、の三三蔵、月氏より入り給いて後、真言宗を立てしかば、華厳・法華、等、の、諸宗は以ての外にくだされき。上一人自り、下万民に至るまで、真言には、法華経は雲泥なり、と、思いしなり。其の後、徳宗皇帝の御宇に、妙楽大師と申す人、真言は、法華経にあながちに、をとりたりと、おぼしめししかども、いたく立てる事もなかりしかば、法華・真言、の勝劣を弁(わきま)える人なし。
日本国は、人王三十代、欽明の御時、百済(くだら)国より、仏法、始めて渡りたりしかども、始は、神と仏との諍論(じょうろん)、こわくして、三十余年はすぎにき。三十四代、推古天皇の御宇に、聖徳太子、始めて仏法を弘通(ぐづう)し給う。慧観・観勒(かんろく)、の二の上人、百済国よりわたりて、三論宗を弘め、孝徳の御宇に、道昭、禅宗をわたす。文武の御宇に、新羅(しらぎ)国の智鳳(ちほう)、法相宗をわたす。第四十四代、元正天皇の御宇に、善無畏(ぜんむい)三蔵、大日経をわたす。然而(しかるに)、弘まらず。聖武の御宇に、審祥(しんじょう)大徳・朗弁僧正、等、華厳宗をわたす。人王四十六代、孝謙天皇の御宇に、唐代の鑒真(がんじん)和尚、律宗と法華経をわたす。律をばひろめ、法華をば弘めず。第五十代、桓武天皇の御宇に、延暦二十三年七月、伝教大師、勅宣を給いて、漢土に渡り、妙楽大師の御弟子(みでし)、道邃(どうすい)・行満、に値い奉りて、法華宗の定慧(じょうえ)を伝え、道宣(どうせん)律師に、菩薩戒を伝え、順暁(じゅんぎょう)和尚と申せし人に、真言の秘教を習い伝えて、日本国に帰り給いて、真言・法華、の勝劣は、漢土の師のおしへに依りては、定め難しと思食(おぼ)しければ、ここにして、大日経と法華経と、彼の釈と此の釈と、を引き並べて、勝劣を判じ給いしに、大日経は、法華経に劣りたるのみならず、大日経の疏(じょ)は、天台の心をとりて、我が宗に入れたりけり、と、勘(かんが)え給へり。
其の後、弘法大師、真言経を下されける事を、遺恨(いこん)とや思食(おぼ)しけむ、真言宗を立てんとたばかりて、法華経は、大日経に劣るのみならず、華厳経に劣れり、と、云云。あはれ、慈覚・智証、叡山・園城、に、この義をゆるさずば、弘法大師の僻見(びゃっけん)は、日本国にひろまらざらまし。彼の両大師、華厳・法華、の勝劣をばゆるさねど、法華・真言、の勝劣をば、永く、弘法大師に同心せしかば、存外に、本の伝教大師の大怨敵となる。其の後、日本国の諸碩徳(せきとく)等、各(おのおの)、智慧、高く有るなれども、彼の三大師にこえざれば、今、四百余年の間、日本一同に、真言は、法華経に勝れけり、と、定め畢(おわ)んぬ。たまたま、天台宗を習へる人人も、真言は、法華に及ばざるの由、存ぜども、天台の座主、御室(おむろ)、等、の、高貴におそれて、申す事なし。あるは、又、其の義をもわきまへぬかのゆへに、からくして、同の義をいへば、一向、真言師は、さる事、おもひもよらずと、わらふなり。
然(しか)らば、日本国中に、数十万の寺社あり。皆、真言宗なり。たまたま、法華宗を並ぶとも、真言は主の如く、法華は所従の如くなり、若しくは、兼学の人も、心中は、一同に真言なり。座主(ざす)・長吏(ちょうり)・検校(けんぎょう)・別当、一向に、真言たるうへ、上に好むところ、下、皆、したがふ事なれば、一人ももれず、真言師なり。されば、日本国、或は、口には、法華経最第一とはよめども、心は、最第二、最第三なり。或は、身口意、共に、最第二三なり。三業相応して、最第一と読める法華経の行者は、四百余年が間、一人もなしまして、能持此経(のうじしきょう)の行者は、あるべしともおぼへず。「如来現在・猶多怨嫉(ゆたおんしつ)・況滅度後」、の、衆生は、上一人より、下万民にいたるまで、法華経の大怨敵なり。”

(2005.07.11)
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