appeal

”問うて云く、無智の人も、法華経を信じたらば、即身成仏すべきか。又、何(いず)れの浄土に、往生すべきぞや。答えて云く、法華経を持(たも)つにおいては、深く法華経の心を知り、止観の坐禅をし、一念三千・十境・十乗、の、観法を、こらさん人は、実に、即身成仏し、解(さとり)を開く事もあるべし。其の外に、法華経の心をもしらず、無智にして、ひら信心の人は、浄土に必ず生(うまる)べし、と、見えたり。されば、「生十方仏前」、と、説き、或は、「即往安楽世界」、と、説きき。是の法華経を信ずる者の、往生すと云う明文なり。之(これ)に付いて不審あり。其の故は、我が身は一にして、十方の仏前に生るべし、と、云う事、心得られず。何(いず)れにてもあれ、一方に限るべし。正(まさ)に、何れの方をか信じて往生すべきや。答えて云く、一方にさだめずして、十方と説くは、最もいはれあるなり。所以(ゆえ)に、法華経を信ずる人の、一期(いちご)終る時には、十方世界の中に、法華経を説かん仏のみもとに生るべきなり。余の、華厳・阿含・方等・般若経、を、説く浄土へは、生るべからず。浄土、十方に多くして、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏(ひゃくしぶつ)の法を説く浄土もあり、或は、菩薩の法を説く浄土もあり。法華経を信ずる者は、此等の浄土には、一向生れずして、法華経を説き給う浄土へ直ちに往生して、座席に列(つらな)りて、法華経を聴聞して、やがてに仏になるべきなり。然(しか)るに、今世にして、法華経は機に叶(かな)はずと云いうとめて、西方浄土にて、法華経をさとるべし、と、云はん者は、阿弥陀の浄土にても、法華経をさとるべからず。十方の浄土にも、生るべからず。法華経に背く、咎(とが)重きが故に、永く地獄に堕つべし、と、見えたり。「其人命終・入阿鼻獄」、と、云へる、是なり。
問うて云く、「即往安楽世界・阿弥陀仏」(法華経薬王品)、と、云云。此の文の心は、法華経を受持し奉(たてまつ)らん女人は、阿弥陀仏の浄土に、生るべし、と、説き給えり。念仏を申しても、阿弥陀の浄土に生るべし、と、云ふ。浄土、既に、同じ。念仏も、法華経も、等(ひとし)と、心え候べきか、如何。答えて云く、観経は権教なり。法華経は実教なり。全く、等(ひと)しかるべからず。其の故は、仏、世に出でさせ給いて、四十余年の間、多くの法を説き給いしかども、二乗と悪人と女人とをば、簡(きら)ひはてられて、成仏すべしとは、一言も仰せられざりしに、此の経にこそ、敗種(はいしゅ)の二乗も、三逆の調達(ちょうだつ)も、五障(ごしょう)の女人も、仏になるとは説き給い候つれ。其の旨、経文に見えたり。華厳経には、「女人は、地獄の使なり。仏の種子を断ず。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し」、と、云へり。銀色女(ごんじきにょ)経には、「三世の諸仏の眼(まなこ)は、抜けて大地に落つるとも、法界の女人は、永く仏になるべからず」、と、見えたり。又、経に云く、「女人は、大鬼神なり。能(よ)く、一切の人を喰う」、と。竜樹菩薩の大論には、「一度、女人を見れば、永く、地獄の業を結ぶ」、と、見えたり。されば、実にてやありけん、善導和尚は、謗法(ほうぼう)なれども、女人をみずして、一期生(いちごしょう)と云はれたり。又、業平(なりひら)が歌にも、「葎(むらぐさ)、をいて、あれたるやどの、うれたきは、かりにも鬼のすだくなりけり」、と、云うも、女人をば、鬼とよめるにこそ侍(はべ)れ。又、女人には、五障三従と云う事有るが故に、罪深しと見えたり。五障とは、一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏、に、ならずと見えたり。又、三従とは、女人は、幼き時は、親に従いて心に任せず、人となりては、男に従いて心にまかせず、年よりぬれば、子に従いて心にまかせず。加様に、幼き時より老耄(ろうもう)に至るまで、三人に従て、心にまかせず、思う事をもいはず、見たき事をもみず、聴問したき事をもきかず、是を三従とは説くなり。されば、栄啓期(えいけいき)が三楽を立てたるにも、女人の身と生れざるを、一の楽みといへり。加様に、内典・外典、にも、嫌はれたる女人の身なれども、此の経を読まねども、かかねども、身と口と意とにうけ持ちて、殊(こと)に、口に、南無妙法蓮華経、と、唱へ奉る女人は、在世の、竜女・?曇弥(きょうどんみ)・耶輸陀羅女(やしゅたらにょ)、の、如くに、やすやすと、仏になるべし、と、云う、経文なり。又、安楽世界と云うは、一切の浄土をば、皆、安楽と説くなり。又、阿弥陀と云うも、観経の阿弥陀にはあらず。所以(ゆえ)に、観経の阿弥陀仏は、法蔵(ほうぞう)比丘の阿弥陀、四十八願の主(あるじ)、十劫成道の仏なり。法華経にも、迹門の阿弥陀は、大通智勝仏の十六王子の中の、第九の阿弥陀にて、法華経大願の主(あるじ)の仏なり。本門の阿弥陀は、釈迦分身の阿弥陀なり。随って、釈にも、「須(すべから)く、更(さら)に、観経等を指すべからざるなり」、と、釈し給えり。
問うて云く、経に、「難解難入」、と、云へり。世間の人、此の文を引いて、法華経は機に叶(かな)はず、と、申し候は、道理と覚え候は、如何(いかん)。答えて云く、謂(いわ)れなき事なり。其の故は、此の経を、能(よく)も、心えぬ人の云う事なり。法華より已前の経は、解(さと)り難(がた)く、入り難(がた)し。法華の座に来りては、解(さと)り易く、入り易し、と、云う事なり。されば、妙楽大師の御釈に云く、「法華已前は、不了義なるが故に、故に難解と云う。即(すなわ)ち、今の教には、咸(ことごと)く、皆、実に入るを指す故に、易知と云う」、文。此の文の心は、法華より已前の経にては、機、つたなくして、解(さと)り難く、入り難し。今の経に来りては、機、賢く成りて、解(さと)り易く、入り易し、と、釈し給へり。其の上、「難解難入」、と、説かれたる経が、機に叶(かな)はずば、先(まず)、念仏を捨てさせ給うべきなり。其の故は、雙観(そうかん)経に、「難きが中の難き、此の難に過ぎたるは無し」、と、説き、阿弥陀経には、「難信の法」、と、云へり。文の心は、此の経を受け持たん事は、難きが中の難きなり、此れに過ぎたる難きはなし、難信の法なり、と、見えたり。
問うて云く、経文に、「四十余年、未(いま)だ、真実を顕さず」、と、云い、又、「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過(すぐ)るとも、終(つい)に、無上菩提を成ずることを得じ」、と、云へり。此の文は、何体(いかてい)の事にて候や。答えて云く、此の文の心は、釈迦仏、一期五十年の説法の中に、始めの華厳経にも真実をとかず、中の、方等・般若、にも、真実をとかず、此の故に、禅宗・念仏・戒、等、を、行ずる人は、無量無辺劫をば過ぐとも、仏にならじと云う文なり。仏、四十二年の歳月を経て後、法華経を説き給ふ文には、「世尊の法は、久くして、後に、要(かな)らず、当に、真実を説き給うべし」、と、仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵王、帝釈、等、の、万億の天人、阿闍世(あじゃせ)王等の無量無辺の国王、仏の御言(みことば)を領解(りょうげ)する文には、「我等、昔より来(このかた)、数(しばしば)、世尊の説を聞きたてまつるに、未(いま)だ曾って、是くの如き、深妙の上法を聞かず」、と、云って、我等、仏に離れ奉(たてまつ)らずして、四十二年、若干の説法を聴聞しつれども、いまだ是くの如き貴き法華経をばきかず、と、云へる。此等の明文をばいかが心えて、世間の人は、法華経と余経と等しく思ひ、剰(あまつさ)へ、機に叶(かな)はねば、闇の夜の錦、こぞ(去年)の暦(こよみ)、なんど、云ひて、適(たまたま)、持つ人を見ては、賎(いやし)み、軽しめ、悪(にく)み、嫉(ねた)み、口をすくめなんどする。是れ、併(しかしなが)ら、謗法なり。争(いかで)か、往生成仏もあるべきや。必ず、無間地獄に堕つべき者と見えたり。”

(2005.06.17)
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