appeal

祈りについて、もう少し伺いたいのですが。

祈りは、受身ではなく、もっと積極的な生命(いのち)への働きかけですが、まず祈っている私自身への、より善の普遍の私による働きかけ、つまり、そのパスが通って、次に、その私自身のより善の普遍の私による、関係する他者への働きかけ、があります。祈りが通じるというのは、これらのパスが通って、それぞれの行動に結びつくことですが、そのより善の普遍の私が、その普遍とあるように、善であればあるほど、より善のより普遍の私の創造する意志として、より普遍により創造に働きかけることができます。より善であるということは、より大愛の、より大慈悲の、私だ、ということです。その私に祈りが通じるとは、そのそれぞれの普遍の私が、その、より大愛の、より大慈悲の、私の感動を、ともに感動していることであり、その時すでに、パスは通じていて、その時すでに、その私は、より善であり、より仏であり、より神であり、より仏界に、より神の国に、住んでいる、宝塔そのもの、ということになります。つまり、そのそれぞれの普遍の私が、そのそれぞれの、より宝塔である、という自覚に立てたとき、そのパスは、そのそれぞれの普遍の私に、より通じ、より創造することに最大の努力を払うことができる、ということです。

祈りが通じないように思えるとき、つまり、ともに感動していないように思えるとき、どんな理由が考えられますか?

対境(本尊)の問題と、祈る側の問題と、他者との関係の問題と、があります。その対境(本尊)は、それがより善の普遍の私によるものか、より悪の普遍の私によるものか、祈る側は、より善に関わる祈りなのか、より悪に関わるの祈りなのか、その祈りが自分自身の私に向けられているものか、他者に向けられているものか、と、があります。その祈りが自分自身の私に向けられている場合は、そのより善悪の対境に対して、その普遍の私の善悪の両方が、ともに祈っていて、その影響力が、ともに強いので、善悪ともに、その決定権の優位にかかわらず、つまり、創造と破壊にかかわらず、そのより善悪に、その祈りは、通じますが、他者に向けられている場合、その祈りは、対境(本尊)と、祈る側と、の、両方ともに、より善でなければなりません。何故なら、生命は、創造する意志として創造を志向していて、それぞれの普遍の私は、創造する生命の意志として、本質的にそのそれぞれの普遍の私に対する創造をより好み、破壊をより嫌いますから、また、その他者は、その対境(本尊)に、直接祈っているわけではないので、その悪の普遍の私の影響力が弱く、本質的に、自身への破壊に関することは、受け付けないからです。つまり、悪の普遍の私による対境(本尊)に、直接祈っている場合は、ともに祈っている悪の普遍の私の影響力が強くなるので、確かに本質的には自身への破壊は嫌いますが、悪の普遍の私にその決定権を委ねる確率が高くなり、自身への破壊や自身による他者への破壊の選択を許してしまう確率も高くなる、ということです。ですから、より悪の普遍の私による対境(本尊)に祈ることは、祈る側の私にとって、その破壊の危険性がより高くなるということなので、気をつけなければなりません。また、”今、ここ”、の、ゼロ点で、祈りとして、他者に働きかることができる、より普遍の私は、より善(創造)に限られますから、他者に向けられた祈りで、その破壊に関する祈り、例えば、呪詛(じゅそ)とか、罰を与えて、とか、或いは、裁きを求めることも、その本質は、大概は他者に対する破壊を意味しますから、その祈りは、通じません。そこで、その祈りの通じない神を、かえって、恨んだり、神の代わりに、その祈る側の私自身が、その意志となって裁こうとしたりします。この場合、意志する相対の神は、生命の原則に基づいて仕事をしているだけですので、通じないからといって、強く求めても、反発しても、どうしようもないことです。

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自然神などに対する祈りの場合は、どうなりますか?

素朴で、教義もあいまいなものですから、創造的には、精神の安定、気休め、になりますが、破壊的には、迷信、因習、のもととなり、それ以上に、都合によって、その素朴さ、あいまいな教義のゆえに、報復、復讐、恨み、怒り、誇り、等、の衣を着た、偏狭の神として祀(まつ)り上げられ、最悪の場合は、国家神道のように、戦争の道具として使われたりしてしまいます。

絶対神への祈りは、どうなりますか?

それが重要な問題です。絶対神は、意志しませんから、その祈りは絶対に通じません。本来、通じないものを、通じると、教えられ、信じ込まされてきたものにとって、それが通じないことは、信じがたい、受け入れがたいものです。その現実、例えば、全知全能の神に祈っているのに身内が殺されるとかの現実を、その絶対神の意志として、全面的に受け入れられるか、或いは、祈る側の問題として全面的に受け入れられるか、或いは、受け入れられない場合は、先の、相対の神に対してのと、同様に、その絶対神の意志の代わりに、その私自身の意志をあてがい、その祈る側の私自身が、その絶対神の意志の代わりに、裁こうとし、選択し、行動してしまう。これが、偏狭の神を生む土壌となります。その偏狭の神は、報復、復讐、恨み、怒り、誇り、等、の衣を着て、その偏狭の神の意志を、絶対神の意志として、戦いの場合は、聖戦と称し、その偏狭の神、実は、その祈る側の私自身の意志である決定権のより下位の私、に、その決定権を委ね、選択させ、他者の破壊を実行させてしまいます。ですから、絶対神を、万物の神、全知全能の神、創造主、と、仰いで、祈りを捧げることは、意味のないことである以上に、極めて危険な要素、火種を、自らに、含んでいる、ということになります。

このことから、万物の神、全知全能の神、創造主、といわれる絶対神は、意志しない、法則、真理、であって、祈りの対象とはなり得ず、祈りの対象は、意志する、相対の神であり、仏であり、その決定権の最上位の、最上の善の普遍の私、である、ということを、深く認識し、その教義に、明記しなければなりません。

宗教が関係する大規模な殺戮の原因は、ほとんどすべて、これら、宗教上の教義の、誤り、あいまいさ、によるものです。

(2008.12.01)
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