-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE-----
如来神力品第二十一に、対境(縁)との和合とありますが、それについて、もう少し、お話していただけないでしょうか?
この場合の対境(縁)とは、無上の境涯の普遍の私(仏界の私)の記憶を記録したものですが、その対境(縁)との和合は、なにも神秘的なものではなく、ちょうど優れた作曲家が、優れた音楽を楽譜に書き残し、それを見た演奏家がその道筋を理解し演奏することで、その作曲家の感動を体現できる、といったものとまったく同じです。
すると、その道筋の理解が必要になるわけですか?
いいえ、あってもいいし、なくてもかまわない、ちょうど、その作曲家の優れた音楽を聞くだけで、その道筋を理解していなくとも、感動することができるのと同じです。
絵を見ても、風景を見ても、感動しますが・・・?
ええ、感動とは、本来、私の個人的な感動だと思い込んでいますが、実は、いわゆる、”今、ここ”(ゼロ点)、での、普遍の私の意志(決定権の上位)による、選択、つまり、因(法則を因とした場合の対境である縁)の選択(見る、聞く)(縁)による感動(果)の記憶を思い出している(共に感動している)のであり、ここでいう因とは、風景であり、音であり、記憶を記録した、文字であり、図形であり、音楽であり、といったものです。
つまり、神(相対の神、意志する神)は常に私と共にあり、ですね。
ええ、絶対の神(創造主)(法則)は常に私と共にあり、も当然のことですから、便宜上、方便として(この世界は私の方便の世界ですから)、絶対の神(創造主)が、法則であり、相対の神(意志する神)が、普遍の私の意志である、と、確認さえできれば、”神は常に私と共にあり”、は、正しく、正義、ということになります。
(2008.10.19)
next
back
index
home
other lita site