appeal

”うれしきかな、末法流布に生れあへる我等、かなしきかな、今度(このたび)、此の経を信ぜざる人人。抑(そもそも)、人界に生を受くるもの、誰か無常を免れん。さあらんに、取っては、何ぞ、後世のつとめをいたさざらんや。倩(つらつら)、世間の体を観ずれば、人、皆、口には、此の経を信じ、手には、経巻をにぎるといへども、経の心にそむく(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)間、悪道を免れ難し。譬えば、人に、皆、五臓あり。一臓も損ずれば、其の臓より病(やまい)出て来て、余の臓を破り、終(つい)に、命を失うが如し。爰(ここ)を以て、伝教大師は、「法華経を讃すと雖(いえど)も、還(かえ)って、法華の心を死(ころ)す」、等、云云。文の心は、法華経を持ち読み奉り、讃むれども、法華の心に背きぬれば(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、還って、釈尊、十方の諸仏を殺すに成りぬ、と、申す意(こころ)なり。終(つい)に、世間の悪業、衆罪は、須弥(しゅみ)の如くなれども、此の経にあひ奉りぬれば、諸罪は、霜露(そうろ) の如くに、法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし。然(しか)れども、此の経の十四謗法の中に、一も二も、をかしぬれば、其の罪、消えがたし。所以(ゆえん)は何(いか)ん、一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも、争(いかで)か、一仏を殺す罪に及ばんや。法華の心に背きぬれば(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、十方の仏の命を失ふ罪なり。此のをきてに背くを、謗法(ほうぼう)の者とは申すなり。法華経を持ち読み奉り、讃むれども、法華の心に背きぬれば(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、十方の仏の命を失ふ罪なり。地獄、おそるべし、炎を以て家とす。餓鬼、悲むべし、飢渇(けかつ)にうへて子を食ふ。修羅は、闘諍(とうじょう)なり。畜生は、残害とて、互に殺しあふ。紅蓮(ぐれん)地獄と申すは、くれなゐのはちすとよむ。其の故は、余りに寒につめられて、こごむ間、せなかわれて肉の出でたるが、紅の蓮に似たるなり。況(いわん)や、大紅蓮をや。かかる悪所にゆけば、王位・将軍、も物ならず、獄卒の呵責(かしゃく)にあへる姿は、猿をまはすに異ならず。此の時は、争(いかで)か、名聞名利・我慢偏執、有るべきや。
思食(おぼしめ)すべし、法華経をしれる僧を、不思議の志にて、一度も供養(折伏)しなば、悪道に行くべからず。何に況や、十度・二十度、乃至(ないし)、五年・十年、一期生の間、供養(折伏)せる功徳をば、仏の智慧にても知りがたし。”此の経の行者を一度供養”(折伏)、する功徳は、釈迦仏を直ちに八十億劫が間、無量の宝を尽して供養せる功徳に、百千万億、勝れたり、と、仏は説かせ給いて候。此の経にあひ奉りぬれば、悦び身に余り、左右の眼に涙浮びて、釈尊の御恩、報じ尽しがたし。かやうに、”此の山まで、度度の御供養”(折伏)、は、法華経、並に、釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候。弥(いよいよ)、はげませ給うべし。懈(おこた)ることなかれ。皆、人の、此の経を信じ始むる時は、信心有る様に見え候が、中程は、信心もよはく、僧をも恭敬せず、供養(折伏)をもなさず、自慢して悪見をなす。これ、恐るべし、恐るべし。始より終りまで、弥(いよいよ)、信心をいたすべし。さなくして、後悔やあらんずらん。譬えば、鎌倉より京へは十二日の道なり。それを十一日余り歩をはこびて、今一日に成りて、歩をさしをきては、何として、都の月をば詠(なが)め候べき。何としても、此の経の心をしれる僧に近づき、弥(いよいよ)、法の道理を聴聞して、信心の歩を運ぶべし。
噫(ああ)、過ぎし方の程なきを以て知んぬ。我等が命、今、幾程もなき事を、春の朝(あした)に花をながめし時、ともなひ遊びし人は、花と共に無常の嵐に散りはてて、名のみ残りて、其の人はなし。花は散りぬといへども、又、こん春(しゅん)も発(ひら)くべし。されども、消えにし人は、亦(また)、いかならん世にか来るべき。秋の暮に月を詠めし時、戯れ、むつびし人も、月と共に有為(うい)の雲に入りて後、面影ばかり身にそひて、物いふことなし。月は西山に入るといへども、亦(また)、こん秋(しゅう)も、詠むべし。然(しか)れども、かくれし人は、今、いづくにか住みぬらん、おぼつかなし。無常の虎のなく音は、耳にちかづくといへども、聞いて驚くことなし。屠所(としょ)の羊の、今、幾日か、無常の道を歩まん。雪山の寒苦鳥(かんくちょう)は、寒苦にせめられて、夜明なば栖(す)つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば、朝日のあたたかなるに、眠り、忘れて、又、栖をつくらずして、一生、虚く鳴くことをう。一切衆生も、亦復(またまた)、是くの如し。地獄に堕ちて、炎にむせぶ時は、願くは、今度(このたび)、人間に生れて、諸事を閣(さしお)ひて、”三宝を供養”(折伏)し、後世、菩提をたすからんと願へども、たまたま人間に来る時は、名聞名利の風はげしく、仏道修行(折伏)の灯は消えやすし。無益の事には、財宝をつくすにおしからず。”仏法僧に、すこしの供養”(折伏)、をなすには、是をものうく思ふ事、これただごとにあらず。地獄の使のきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり。其の上、此の国は、謗法の土なれば、守護の善神は、法味にうへて、社(やしろ)をすて天に上り給へば、社には悪鬼入りかはりて、多くの人を導く。仏陀、化をやめて、寂光土へ帰り給へば、堂塔寺社は、徒(いたずら)に、魔縁の栖(すみか)と成りぬ。国の費(ついえ)、民の歎きにて、いらかを並べたる計りなり。是れ、私の言にあらず、経文に、これあり。習ふべし。
諸仏も、諸神も、謗法の供養をば、全く、請け取り給はず。況や、人間としてこれをうくべきや。春日大明神の御託宣に云く、「飯に銅の炎をば食すとも、心、穢(けが)れたる人(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)の物をうけじ。座に銅の焔には坐すとも、心、汚れたる人(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)の家にはいたらじ。草の、廊(ろう)・萱(かや)、の軒にはいたるべし」、と、云へり。「縦令(たとい)、千日のしめを引くとも、不信の所(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)には至らじ。重服深厚の家なりとも、有信の所には至るべし」、云云。是くの如く、善神は、此の謗法の国をばなげきて、天に上らせ給いて候。心けがれたると申すは、法華経を持たざる人(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)の事なり。此の経の五の巻に見えたり。謗法の供養をば、銅焔とこそおほせられたれ。神だにも、是くの如し。況や、我等凡夫として、ほむら(焔)をば食すべしや。人の子として我が親を殺したらんものの、我に物をえさせんに、是を取るべきや。いかなる、智者・聖人、も、無間地獄を遁るべからず。又、それにも近づくべからず。与同罪、恐るべし、恐るべし。
釈尊は、一切の諸仏・一切の諸神・人天大会・一切衆生、の、父なり、主なり、師なり。此の釈尊を殺したらん(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)に、争(いかで)か、諸天善神等、うれしく思食(おぼしめ)すべき。今、此の国の一切の諸人は、皆、釈尊の御敵なり。在家の、俗男・俗女、等、よりも、邪智心の法師ばら(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)は、殊の外の御敵なり。智慧に於ても、正智あり、邪智あり、智慧ありとも、其の邪義には随ふべからず。貴僧・高僧、には、依るべからず。賎(いやし)き者なりとも、此の経の謂(いわ)れを知りたらんものをば、生身の如来のごとくに、礼拝供養すべし。是れ、経文なり。されば、伝教大師は、「無智破戒の男女等も、此の経を信ぜん者は、小乗二百五十戒の僧の上に座席に居(すえ)よ。末座すべからず。況や、大乗、此の経の僧をや」、と、あそばされたり。今、生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)よりも、此の経を信じたる男女は、座席を高く居(すえ)ることこそ候へ。彼の二百五十戒の良観房も、日蓮(道理を説く者)に会いぬれば、腹をたて、眼をいからす。是、ただごとにはあらず。智者の身に、魔の入りかはればなり。譬えば、本性よき人なれども、酒に酔いぬれば、あしき心、出来(しゅったい)し、人の為にあしきが如し。仏は、「法華以前の、迦葉・舎利弗・目連、等、をば、是を供養せん者は、三悪道に墮つべし。彼が心は、犬野干(いぬやかん)の心には劣れり」、と、説き給いて候なり。彼の四大声聞等は、二百五十戒を持つことは、金剛の如し。三千の威儀、具足する事は、十五夜の月の如くなりしかども、法華経を持たざる時は、是くの如く、仰せられたり。何に況や、それに劣れる、今時の者共をや。
建長寺・円覚寺、の僧共の、作法戒文を破る事(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)は、大山の頽(くず)れたるが如く、威儀の放埒(ほうらつ)なること(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)は、猿に似たり。是を供養して、後世を助からんと思ふは、はかなし、はかなし。守護の善神、此の国を捨つる事、疑あることなし。昔、釈尊の御前にして、諸天善神・菩薩・声聞、異口同音に、誓をたてさせ給いて、若し、法華経の御敵(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)の国あらば、或は、六月に霜霰(しもあられ)と成りて、国を飢饉せさせんと申し、或は、小虫と成りて、五穀をはみ失はんと申し、或は、旱魃をなさん、或は、大水と成りて、田園をながさんと申し、或は、大風と成りて、人民を吹き殺さんと申し、或は、悪鬼と成りて、なやまさんと、面面に申させ給ふ。今の八幡大菩薩も、其の座におはせしなり。争(いかで)か、霊山の起請(きしょう)の破るるをおそれ給はざらん。起請を破らせ給はば、無間地獄は、疑なき者なり。恐れ給うべし、恐れ給うべし。今までは、正(まさし)く、仏の御使、出世して、此の経を弘めず、国主もあながちに、御敵にはならせ給はず。但(ただ)、いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。
今、某(それがし)、仏の御使として、此の経を弘むるに依りて、上一人より、下万民に至るまで、皆、謗法と成り畢(おわ)んぬ。今までは、(諸天善神は、)此の国の者ども、法華経の御敵にはなさじと、一子のあひにくの如く、捨てかねておはせども、霊山の起請のおそろしさに、社を焼き払いて、天に上らせ給いぬ。さはあれども、身命をおしまぬ法華経の行者あれば、其の頭(こうべ)には住むべし。天照太神・八幡大菩薩、天に上らせ給はば、其の余の諸神、争(いかで)か、社に留るべき。縦(たと)ひ、捨てじと思食すとも、霊山のやくそくのままに、某、呵責し奉らば、一日もやはか、おはすべき。譬えば、盗人の候に、知れぬ時は、かしこや、ここに住み候へども、能(よ)く、案内知りたる者の、是こそ盗人(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)と、ののしり、どめけば、おもはぬ外に、栖(すみか)を去るが如く、某にささへられて、社をば捨て給ふ。然るに、此の国、思いの外に、悪鬼神の住家となれり。哀なり、哀なり。
又、一代聖教を弘むる人多くおはせども、是れ程の大事の法門をば、伝教・天台、も、いまだ仰せられず、其も道理なり、末法の始の五百年に、上行菩薩の出世あって、弘め給ふべき法門なるが故なり。相構(かま)へて、いかにしても、此の度、此の経を能(よ)く信じて、命終の時、千仏の迎いに預り、霊山浄土に走りまいり、自受法楽すべし。信心弱くして、成仏ののびん時、某をうらみさせ給ふな。譬えば、病者に良薬を与ふるに、毒を好んでくひぬれば(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、其の病、愈(い)えがたき時、我がとがとは思はず、還(かえ)って医師を恨むるが如くなるべし。此の経の信心と申すは、少しも私なく、経文の如くに、人の言を用ひず、法華一部に、背く事(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)無ければ、仏に成り候ぞ。仏に成り候事は、別の様は候はず。南無妙法蓮華経、と、他事なく、唱へ申して候へば、天然と、三十二相・八十種好、を備うるなり。「如我等無異」、と、申して、釈尊程の仏に、やすやすと成り候なり。譬えば、鳥の卵は、始は水なり。其の水の中より誰かなすともなけれども、觜(くちばし)よ目よと厳(かざ)り出来(いでき)て、虚空にかけるが如し。我等も、無明の卵にしてあさましき身なれども、南無妙法蓮華経、の、唱への母にあたためられまいらせて、三十二相の觜(くちばし)出でて、八十種好の鎧毛(よろいげ)生(おい)そろひて、実相真如の虚空にかけるべし。爰(ここ)を以て、経に云く、「一切衆生は、無明の卵に処して、智慧の口ばしなし。仏母の鳥は、分段同居の古栖に返りて、無明の卵をたたき破りて、一切衆生の鳥をすだてて、法性真如の大虚にとばしむ」、と、説けり(取意)。
有解無信(うげむしん)とて、法門をば解(さと)りて、信心なき者は、更に、成仏すべからず。有信無解(うしんむげ)とて、解はなくとも、信心あるものは、成仏すべし。皆、此の経の意(こころ)なり。私の言にはあらず。されば、二の巻には、「信を以て入ることを得。己が智分に非ず」、とて、智慧第一の舎利弗も、但(ただ)、此の経を受け持ち、信心強盛にして、仏になれり、己が智慧にて、仏にならず、と、説き給へり。舎利弗だにも、智慧にては仏にならず。況(いわん)や、我等衆生、少分の法門を心得たりとも、信心なくば、仏にならんこと、おぼつかなし。末代の衆生は、法門を少分こころえ、僧をあなづり、法をいるかせにして(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、悪道におつべし、と、説き給へり。法をこころえたるしるしには、”僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養”(折伏)、すべし。今は、仏、ましまさず、解悟(げご)の智識を仏と敬ふべし。争(いかで)か、徳分なからんや。後世を願はん者は、名利名聞を捨てて、何に賎しき者なりとも、法華経を説かん僧(道理を説く者)を、生身の如来の如くに、敬ふべし。是れ、正く、経文なり。
今時の禅宗は、大段、仁義礼智信、の、五常に背けり。有智の高徳をおそれ、老いたるを敬ひ、幼きを愛するは、内外典の法なり。然るを、彼の僧家の者を見れば、昨日・今日、まで、田夫野人にして、黒白を知らざる者も、かちん(褐色)の直綴(じきとつ)をだにも、著(き)つれば、うち慢じて、天台・真言、の有智高徳の人をあなづり、礼をもせず、其の上に居らんと思うなり。是れ、傍若無人にして、畜生に劣れり。爰(ここ)を以て、伝教大師の御釈に云く、「川獺(せんだつ)祭魚のこころざし、林烏父祖(りんうふそ)の食を通ず。鳩鴿(きゅうごう)三枝の礼あり。行雁(こうがん)連(つら)を乱らず。羔羊(こうよう)踞(うずくま)りて、乳を飲む。賎き畜生すら、礼を知ること是くの如し。何ぞ、人倫に於て、其の礼なからんや」、と、あそばされたり(取意)。彼等が法に迷ふ事(例えば、本門の仏教者が、汚い大殺戮、イラク戦争を支持、支援すること)、道理なり。人倫にしてだにも知らず、是れ、天魔破旬のふるまひにあらずや。
是等の法門を、能(よ)く能く、明らめて、一部八巻、廿八品を頭にいただき、懈(おこた)らず、行ひ給へ。又、某を恋しくおはせん時は、日日に日を拝ませ給へ。某は、日に一度、天の日に影をうつす者にて候。此の僧によませまひらせて、聴聞あるべし。此の僧を、解悟(げご)の智識と憑(たの)み給いて、つねに、法門、御たづね候べし。聞かずんば、争か、迷闇の雲を払はん。足なくして、争か、千里の道を行かんや。返す返す、此の書をつねによませて、御聴聞あるべし。事事、面の次を期し候間、委細には申し述べず候。穴賢穴賢。

  弘安三年二月 日                                 日蓮 御判

 新池殿

(新池御書、編年体御書P1731 御書1440)

(2005.09.18)
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