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法華経の哲学者さん、こんにちわ!

やあ、こんにちわ!星の王子さま!

常不軽(じょうふぎょう)菩薩品第二十について、もう少し、お話いただけますか。

常不軽菩薩の、常とは、普遍を意味し、不軽菩薩とは、軽くない救済者を意味し、全体で、深くて、重い、真理、妙法蓮華経、を受持している、救済者の普遍の私、すなわち、南無妙法蓮華経菩薩、を、意味します。この菩薩は、みすぼらしい凡夫の姿で登場します。みすぼらしい凡夫ですので、特に、高慢な知者からは蔑(さげす)まれますが、この凡夫は、普遍の私と、その真理、妙法蓮華経、を、受持、体得していますので、高慢な知者でも、敵でも、下賎なものでも、頭を下げて、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏になられます”、と、いって、敬いますので、”この乞食が何を言う”、と、かえって、嫌われ、疎(うと)んじられます。特に、疎んじるのが、勧持品第十三で説かれる、三類の敵人の、俗衆増上慢、道門増上慢、僣聖増上慢、で、俗衆とは、権威に従属する盲目の民衆であり、道門とは、聖職者、僣聖とは、権力のある聖職者、のことで、その権威に従属する盲目の民衆は、とくに聖職者の権威に盲従しがちで、聖職者も、絶対的権力の聖職者に随従し、結局、その絶対的権力の聖職者が、この下賎の凡夫にとっての最大の抵抗となります。例えば、その絶対的権力の聖職者(例えば、イスラムの)が、その教義にある、”聖戦”、を、拡大解釈して、偏狭の神の意志として、その下賎の凡夫に対しての、”聖戦”、を、主張しているとします。この下賎の凡夫は、その教義によって、また、その教義の由来、理由を、よく知っていますから、頭を下げて、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏(相対の神)になられます”、と、いって、敬いますので、戦いになりません。一方、別の金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者(例えば、仏教ではない、池田教の教祖)がいて、同じように、その絶対的権力の聖職者が、その教義にある、”聖戦”、を、拡大解釈して、偏狭の神の意志として、その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者に対しての、”聖戦”、を、主張しているとします。その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者は、確かに、その教義には、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏になられます”、という項目がありますが、その由来、理由を知らない、といってもいいくらいのものですから、別の項目にある、”護法”、を、拡大解釈し、”生活に密着した現実主義”、”責任政党”、として、その戦いに挑みます(例えば、汚いイラク戦争の、支持、支援)。戦いは、報復が報復を呼び、いつまでたっても終わらず、そのしこりが残ります。また、その下賎の凡夫は、その教義の由来、理由も、よく知っていますから、自(みずか)ら掲げた、その教義の、”鏡”、を、その絶対的権力の聖職者に見せて、その、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏(相対の神)になられます”、の、その教義の由来、理由を説明し、その絶対的権力の聖職者は、自(みずか)らの顔が映ったその、”鏡”、を、見て、その教義の由来、理由を、よく理解し、その教義が、自(みずか)らの教義の中にも冥伏(みょうふく)されている普遍的なものだと気づき、双方が、同じひな壇の同じ席に着きます。一方、その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者は、その、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏になられます”、の、その教義の由来、理由を知らない、といってもいいくらいのものですから、さらに、その由来、理由に、是非とも必要な、普遍の私、相対の神、決定権の上位、繰り返しの法則、等々、といった概念さえ、知りませんから、その、”鏡”、を、使って、説明することもできず、いつまでも、それぞれの教義を持ち出し、それぞれにいがみあい、双方が、同じ席につくことはできません。さらに悪いことに、その教義(折伏教典、等)に、各宗教の批判があり、その批判だけが残ったままの形でいますので、新たに、より真実の真理、より真実の解釈を、示さない限り、或いは、世界が、ひとつの、”ある宗教”、で、統一されない限り、その対立は、永遠に、続くことになります。しかし、世界が、ひとつの、”ある宗教”、で、統一される、などという発想は、”紫のラベンダーに覆われた地球”、の、インテリアにはふさわしい、ような、馬鹿げた話で(真の目的は、真の自立であり、それは、人間の普遍の私のそれぞれに、それぞれの宗教があるということで、決定権の上位があれば、下位もある)、また、その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者は、”同じ席につける”、という、その由来、理由、を明示できませんし、その、”同じ席につける”、という発想すらなく、その批判だけが残りますので、同席もままならず、さらに、その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者の、その変質して、色あせてしまっている、宗教が、その本尊が、その、”ある宗教”、と、なって、世界のすべての人々に受持される、といったような、馬鹿げた、”変質して色あせた紫のラベンダーに覆われた地球”、の、ような話が、到底、あるはずもありません。

その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者の教義(折伏教典、等)にある、各宗教に対する批判というのは、どういったものですか?

それは、是非とも、自立した宝塔、より輝くより善の宝塔となるためにも、宗教、仏教、の教義全般を含めて、詳細はともかく、自分自身で確かめるようにしてください。インターネットは、そのためのものです。その金ぴかの黄金で着飾った、絶対的権力者の、仏教者と称する仏教者に、金箔を与えてしまっている、盲目や無知は、それが、お金や票ではなく、まじめなものであるならば、その初門での真理の輝きや、その師弟の金箔に惑わされて、昔に比べれば、はるかに調べる環境が整い進歩しているというのに、それを使って調べようともしない、まったくの、だらしのない、怠惰によるものです。

ところで、菩薩と仏との違いは、何ですか。

ともに救済者ですが、菩薩は、仏をめざす救済者、仏は、その菩薩の、その一瞬一瞬の救済者です。

それと、その、”あなたは、軽くはありません、いずれ、仏(相対の神)になられます”、というのは、攻撃してくる敵に対しても、言う、ということですか?

ええ、どんな相手(基本的には人間ですが)に対しても、言う、ということです。

戦わない、ということですか。

いいえ、その選択は、いかに戦わないか、を含めて、より決定権の上位に、従います。例えば、一方に、或いは、双方に、たくさんの生命(いのち)がかかっている、といったような場合、そのより決定権の上位に、従います。

その選択は、環境によって、まちまち、ということですね。

ええ、完全に、”泥をかぶる”、ということもありうる、ということです。

(2008.12.19)
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