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法華経の哲学者さん、こんにちわ!

やあ、こんにちわ!星の王子さま!

本尊について、もう少し詳しく、お聞かせいただけますか?

本尊には、それが現れたときの、それを現(あらわ)したときの私の、思い、感動、等が、込められています。たとえば、優れた音楽家の私の曲は、そのときの私の、思い、感動、等が、演奏家の私、そして、聞き手の私に、伝わるのですが、その作者の私、演奏家の私、聞き手の私、ともに、そのときの私自身(狭義の)だけが、作曲し、演奏し、聞いているのではなく、より普遍の私、より善の、より悪の、そのよりそれぞれの、より普遍の私が、ともに作曲し、ともに演奏し、ともに聞いている、ということです。よく言われる、啓示とか、恩寵(おんちょう)とか、ひらめきとか、インスピレーションとか、は、そのよりそれぞれの、そのより普遍の私の、その思い、その感動、等、によるものです。

つまり、本尊も、そのときの私自身(狭義の)だけが、現(あらわ)したものではなく、そのときの私自身(狭義の)だけが、見ているものではなく、そのときの私自身(狭義の)だけが、祈っているものではない、ということですね。

ええ、すべて、より普遍の私、より善の、より悪の、そのそれぞれのより普遍の私が、ともに、現(あらわ)し、ともに、見、ともに、祈っています。

すると、より善の本尊は、より善の私が、より、ともに、現(あらわ)し、より、ともに、見、より、ともに、祈っている、ということですか。

そうです、ですから、本尊は、より善によるものが、より望ましい、ということになります。

その本尊でも、本門の法華経の本尊について、もう少し、伺いたいのですが。

本門の法華経の本尊は、日蓮の私が、弘安二年十月十二日に、現(あらわ)しました。そのときの思いは、法華経の法の名の流布 です。つまり、弘安二年十月十二日に、現(あらわ)した本尊は、法華経の法の名の流布のためのものです。

その、弘安二年十月十二日の本尊は、日蓮正宗大石寺にありますが、・・・。

ええ、すでに、悪僧達によって、破られています。たとえそうでなくとも、今日(こんにち)までの、ためのものです。

といいますと。

先ほど言いましたとおり、本尊は、より普遍の私、より善の、より悪の、そのそれぞれのより普遍の私が、ともに現(あらわ)し、ともに見、ともに祈っています。その本尊が、たとえより善の私によって現された本尊だとしても、その本尊に祈っている私が、悪(破壊)のままでいるならば、それは通じていない本尊、つまり、ともに祈っているはずの、より善の私に、より通じていない本尊ということになります。その教義は、すでに、その悪僧の私によって破られ、その本尊への毎日の祈りにもかかわらず、その悪僧は、悪僧のまま、つまり、より善の私の働きがないままでいますので、すでに、その本尊も破られています。また、その悪僧の私によって書写された本尊は、なおのこと、そのより悪の普遍の私による本尊なので、より、より善の私に通じるわけがありません。

弘安二年十月十二日の、法の名の流布のための本尊の他(ほか)にも、日蓮は、本尊(曼荼羅)を、たくさん残しましたが、それは、どういった本尊(曼荼羅)なんでしょう。

ええ、すべて、一機一縁の、その時々の必要に応じて現(あらわ)した、本尊です。

つまり、その人のためとか、その家のためとか、その寺のため、その地域のため、というふうな・・・。

ええ、その時々の、その場その場の、その事々の、ために、現(あらわ)した本尊です。

それと、今日までに、たくさんの本尊(曼荼羅)が、日蓮の系譜や、新興宗教の、たくさんの僧侶や僧や僧モドキの手によって、現されていますが、・・・。

ええ、すべて、一機一縁の、その時々の、必要に応じて現わされた、本尊です。

つまり、中には、その本尊(曼荼羅)を現(あらわ)した時の、私の事情、たとえば、お金のためだけのものとか・・・。

ええ、それぞれの事情で、現されたものです。

あの本門の法華経を利用している、宗教政治組織の本尊は、・・・。

その信者に配られている本尊は、江戸時代の日蓮正宗の僧侶の、ある時の、ある都合によって、書写され現された一機一縁の本尊で、その思い、目的が違いますし、それ以上に、その本尊に、たくさんの善人たちが祈っていながら、その本尊への毎日のそのたくさんの善人たちによる祈りにもかかわらず、あの汚い戦争を、支持し、支援していることを、或いは、黙認し、或いは、蓋(ふた)をし、或いは、あえて忘れて、それを、支持し、支援し続けているのですから、その本尊は、ともに祈っている、より善の私に、より通じていない本尊ということになり、すでに破られています。それは、その本尊が、その一連の由来も、その本尊の意義も、そして、本尊そのものの意義すらも、まったく知らない、あの盲目の指導者によって採用されてしまったことで、まさに、文字通りに、その師弟不二の師弟ともに盲目となって、今の破壊に導かれてしまっている、ということです。 それと、法の名の流布は、このページ(宝塔)の出現で、すでに完結しています。

といいますと。

法の名の流布のための本尊の意義は、このページで、その法の名が公開されたことで、すでに終わっているということです。次の段階は、それぞれの普遍の私、つまり、このページ(宝塔)を見ている、そのそれぞれのあなたの私が、宝塔であること、本尊そのものであることを、自覚し、自立する、こと、つまり、そのそれぞれの普遍のあなたの私が、真の目的、の、真の自由、を、得る、過程に入る、ということです。この段階での、流布、誓願、とは、すべて、そのためのもの、ということになります。

すると、このページ以外の法華経の本尊は、すべて、意義のなくなった、無用なとものと・・・?

ええ、法華経だけでなく、仏教(より正統の)の、本尊、つまり、より最上の善の普遍の私に通じる、本尊は、すでに、唯一、このページ(宝塔)の本尊と、決定されています。

誰によって、決定されているんですか?

その、決定権の最上位の、より最上の善の普遍の私、によって、決定されています。

他の宗教(より正統)の本尊でも、真の目的である、真の自由、を得ることは、可能なんですか?

ええ、他の宗教(より正統の)の本尊が、真の自立、つまり、真の自由を、真の目的、としていれば、可能です。より正統な宗教は、その解釈が、より可能なはずです。

頑(かたく)なに、因習や伝統を守りそうですが・・・。

肝心なことは、そのそれぞれの普遍のあなたの私が、”宝塔”、に、なること、つまり、”宝塔”、の、自覚に立って、それぞれのあなたの私が、自立することです。

(2008.11.25)
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