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すると、逆も真なり、ということですか?
ええ、悪魔の選択、人間性を失った私による大破壊の選択、の、その悪魔も、その意志する、選択、行動、の、その一瞬に住んでいます。
その悪の選択を、なぜ防げないのでしょう?
ええ、まず、決定権のより上位の意志をもつ無上の境涯の普遍の私(仏界の私)(相対の神)は、絶対者ではないということ、と、破壊の悪の選択を許してしまう私の意志は、決定権のより下位の意志であり、それを知っている私も知らない私も、さらに、普遍の私を知っている私も、知らない私も、それらを知っても知らなくても、その決定権の優劣は、創造する意志としての生命の普遍の私のそのものの存在に基づいていますから、その決定権は、生命の創造に関わるものは、より上位に、生命の破壊に関わるものは、より下位に、その創造する意志としての生命の普遍の私によって、決定されています。一方、選択の要(かなめ)の一つとなる、欲は、生命の私の存在には、なくてはならないものですから、創造する意志としての生命の普遍の私は、進化の過程、つまり、それぞれの境涯で、その欲を、喜怒哀楽と苦と恐れとをもって制御しようとしますが、人間にまで進化すると、その欲は、単なる、喜怒哀楽と苦と恐れと、だけでは制御しきれず、その進化の過程での、普遍の私の決定権のより上位の意志による選択というかたちで、その欲の暴走を防ごうとします。ところが、まず、その人間の私は、その普遍の私を知らずに、そして、その決定権のより上位の意志(仏界の私)(相対の神)を知らずに、その無知の知恵(神の死、等)によって、かえって、その欲の喜怒哀楽の虜(とりこ)となって、その決定権を、より下位の意志に、委(ゆだ)ねたり、悪質なのは、それらを知りながら、その悪知恵(わるぢえ)によって、あえて、その欲の喜怒哀楽の虜(とりこ)となって、その決定権を、より下位の意志に、委(ゆだ)ねたり、します。
それを防ぐ手立てというのは・・・?
そのために、創造する意志としての生命の普遍の私は、その創造と破壊に対する、喜怒哀楽と苦と恐れとが、その創造する意志としての生命の普遍の私の意志(決定権のより上位)による選択の表れであることを明かし、その今の時と、未来とで、その創造には、喜びと楽を、その破壊には、怒りと哀しみと苦と恐れ、とをもって、その破壊を防ごうとします。
つまり、今の破壊の苦は、その、今の時(あの時)と、未来(今)とでの、その破壊による苦だ、と・・・。
ええ、今の苦は、その創造する意志としての生命の普遍の私の、その破壊に対する、裁き、であるとともに、未来のその破壊を防ぐ、手立て、でもあります。
(2008.10.23)
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