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ところで、星の王子さま、
また、先日の法則云々のお話の続きで、恐縮なんですが、ボタンを押してリンゴが落ちるとして、そのボタンは、ただ枝を揺らすだけなのでしょうか、それとも、すべてがあらかじめプログラムされていたものなのでしょうか?

プログラムされていなかったとしたらどうでしょう。ボタンを自然の風に置き変えて、風はただ枝を揺らしただけですが、リンゴは落ちた。もう少しゆるい風だったら落ちなかったかもしれない。その選択は、つまり、そのリンゴを落とす程の風が吹くという選択ですが、これはリンゴを落とす縁になりますが、それはまた何かの因と縁との結果でもあります。つまり、繰り返しの法則がそうさせている。一方、プログラムとは何でしょう。それは、時間の経過とともに選択をして結果を出し、その繰り返しでさらなる結果を出していく、まさに、因、縁、果の繰り返しの法則そのものです。つまり、これも、繰り返しの法則がそうさせている。プログラムは人間が作ったものです。では、法則はどうでしょう。法則は、その定義により、絶対の存在ですから、その存在を存在たらしめることの出来るものは、絶対の存在以外にないはずです。すると、その、絶対である法則自体が、当のその法則を、絶対の、その存在そのものとして、存在たらしめている、と、いうことになり、さらに言えば、そう、人間の、”私”、が、解釈している、ということになります。そこで、ここでは、そのボタンを押して、モーターが回って、リンゴの枝を揺らし、リンゴが枝から落ちた、というプログラムだとすると、それは無数の選択枝を選択していった結果が、リンゴが落ちた、ということで、たとえば、ある区切りで、そのプログラムの選択枝をおおまかに都合よくいくつか抜き出してみますと、まず最初のボタン(因)を押します(縁)。モーター(因)にある量(因)の電気(因)が送られ(果、縁)、回転し(果、縁)、ある程度(因)に枝(因)を動かします(果、縁)。ここから自然に移るとして、リンゴ(因)の重さ(因)が耐えられなくなって(果、縁)枝(因)からちぎれます(果、縁)。リンゴ(因)は地面(因)に引っぱられ(果、縁)落ちます(果、縁)。途中、ある程度(因)の風(因)が吹いて((果)縁)、リンゴ(因)はある程度(因)、風下(因)に移動させられたとします(果、縁)。リンゴ(因)はさらに地面(因)に引っぱられ(果、縁)、ある地点(因)に着地します(果)。この、ボタン(因)を押す、から、リンゴの着地(果)、までの因果の区切りの中で、自然を含めた、(縁)のところは、すべて選択を意味しています。そこで、さらに細かく、短い区切りと因の選択枝とを無限に選択することもできますが(例えば、原子レベルでも、それ以下でも、それ以上でも)、リンゴが地面に落ちた時点で、リンゴに視点を移せば、これら無限の因は、そのすべてがそのリンゴの存在因になります。すると、自然も、そのプログラム同様、無数の選択肢を選択しているのか、ということになりますが、重要なのは、そのすべてが、そう解釈している、”私”、の解釈であり、その解釈の選択だ、ということです。意識と記憶の背後にあるとする自然現象に対する意識を、無意識の、”私ソノモノ”、への意識としたわけです。そこで、ゼロ点での、”私”、は、そのゼロ点にある無数の因を選択して、そのそれぞれの果の現象の記憶の連なりを空間と解釈し、その選択の量の記憶を時間と解釈していますから、その因もその選択も、実は、時間を追いかけるわけでも、歴史を遡(さかのぼ)るわけでもなく、まさに、その今というゼロ点で、意識(意志、意思)する、”私”、は、その因縁果の繰り返しの法則下にある無数の因を、その法則に則って選択し続け、その一連の記憶をもとに、その推測や錯覚やイメージや、さらに、それらの中での選択で、さらに、その記憶で、と、その、”私”、の、世界を作りだしている、ということになります。

すると、宇宙の誕生も、生命の誕生も、銀河も、星々も、今のゼロ点にあるということですか?

そうです。宇宙の誕生も、生命の誕生も、銀河も、星々も、その記憶も、その消滅も、その空なる、”ソノモノ”、も、今のゼロ点にあるということです。

すると、死というのは、その意識(意志、意思)する、”私”、の、脳が解釈しなくなる、選択しなくなる、ということですから、因も、縁も、果も、選択も、法則も、そのプログラムも、その絶対も、その記憶も、その意識(意志、意思)する、”私”、も、その世界も、その宇宙も、空なる、”ソノモノ”、に、なるということですか?

ええ、空なる、”ソノモノ”、に、なります。しかし、すぐになるわけではなく、環境にもよりますが、しばらくは、脳の解釈の世界、記憶の世界の時間と空間とが開いて、過去と未来とが現れます。脳の過去の記憶が開くと過去が、脳の今の因の選択とその一連の因果の記憶とが結びつくと未来が、走馬灯のように現れます。その時、人間としての、”私”、の、悪の苦は、さらに永くて暗い苦しみとなり、善の楽は、一瞬の輝く光の歓喜となって、その走馬灯は、回り続けます。そこで、その時点で、”私”、の、周りにあるとされる実際の世界が、”客観的”、に、どうなっているかを問うのは、その問い自体が無意味になります。すでに、”私”、の、脳の解釈の世界から、その解釈を超えた、空なる、”ソノモノ”、の、内に、入ろうとしているわけですから。

すると、逆に、その、空なる、”ソノモノ”、の、から、”私”、の、解釈の世界に生まれたとき、その、”私”、の、世界は・・・?

ええ、それも、当然、その繰り返しの法則に則って、その、空なる、”ソノモノ”、が、因となり、縁となって、いわゆる仏教で説かれている、その、”私”(因)、の、成(果、縁)、住(果、縁)、壊(果、縁)、空(果)、が、始まります。

つまり、人間であったり、動物であったり、男であったり、女であったり、と・・・。

ええ、その、”私”、が、寸分違(たが)わぬ、その法則に則って、現れます。

すると、その、”私”、とは、いったい何んなんでしょう?

その、”私”、も、その、”私”、の、脳の、ゼロ点の、空なる、”私ソノモノ”、に、対する解釈に過ぎない、ということになるわけですが、その、空なる、”私ソノモノ”、もまた、解釈を超えたものですから、それは解釈のしようがないもの、ということになります。ただ、空なる、”ソノモノ”、や、空なる、”自然ソノモノ”、と、同列の、空なる、”あるもの”、と、いうことぐらいは言えると思います。

としますと、”私、は、どこから来て、どこへ行くのか”、という、昔からの問いの答えは・・・?

ええ、それは、”空なる、”私ソノモノ”、から来て、空なる、”私ソノモノ”、に、帰る”、と、いうことになります。

空より来たりて、空に帰る・・・

つまり、”私”、とは、”色即是空、空即是色”、ですか。

いえ、”如来”、すなわち、”是(か)くの如く、如如(一瞬一瞬)として、如(空)より、来(きた)る”、です。

(2008.06.22)
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