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生命は、”実存”、という家に住み、

生命の、”私”、として振る舞い、
物質の、”私”、として振る舞い、
微生物の、”私”、として振る舞い、
植物の、”私”、として振る舞い、
動物の、”私”、として振る舞い、
人間の、”私”、として振る舞い、
父の、”私”、として振る舞い、
母の、”私”、として振る舞い、
子の、”私”、として振る舞い、
指導者、の、”私”、として振る舞い、
創造者、の、”私”、として振る舞い、
破壊者、の、”私”、として振る舞い、
天国の、”私”、として振る舞い、
地獄の、”私”、として振る舞い、

すべての、”私”、と、その振る舞いと、その世界とは、

まったく自由な、”私”、の振る舞いとその世界(仏界)と、から、
まったく不自由な、”私”、の振る舞いとその世界(地獄界)と、まで、

”実存”、としての、”私”、の振る舞いであり、
その世界は、その振る舞いで創造される、”私”、の、”実存”、の世界である。

そして、さらに、
それぞれの、”私”、の、それぞれの、”振る舞いとその世界”(境涯)、とは、
それぞれに、それぞれの、”振る舞いとその世界”(境涯)、とを、すべて具足するから、

ある時は、怒り、
ある時は、喜び、
ある時は、貪り、
ある時は、苦しみ、

ある時は、それぞれの、”振る舞いとその世界”(境涯)、とが顕現し、
ある時は、それぞれの、”振る舞いとその世界”(境涯)、とが冥伏し、

物質は、物質の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯、地獄界)、とに住み、
物質の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とを顕現し、

”生きた”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との自由の、創造の、”歓喜”(不自由な生命にとって)、のすべてを冥伏し、

”死んだ”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との不自由の、破壊の、”苦”(自由な生命にとっての)、を顕現し、

畜生は、畜生の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とに住み、
畜生の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とを顕現し、

”生きた”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との自由の、
”死んだ”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との不自由の、

或る境涯は、”悲しみ”、冥伏し、或る境涯は、”貪り”、顕現し、
或る境涯は、一瞬一瞬、弱く、冥伏し、或る境涯は、一瞬一瞬、強く、顕現し、

人間は、人間の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とに住み、
人間の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とを顕現し、

”生きた”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との自由の、
”死んだ”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との不自由の、

或る境涯は、”喜び”、冥伏し、或る境涯は、”怒り”、顕現し、
或る境涯は、一瞬一瞬、弱く、冥伏し、或る境涯は、一瞬一瞬、強く、顕現し、

”破壊者”、は、”破壊者”、の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とに住み、
”破壊者”、の、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、とを顕現し、

”生きた”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との自由の、
”死んだ”、”私”、としての、”振る舞いとその世界”(境涯)、との不自由の、

或る境涯は、”楽しみ”、冥伏し、或る境涯は、”苦しみ”、顕現し、
或る境涯は、一瞬一瞬、弱く、冥伏し、或る境涯は、一瞬一瞬、強く、顕現し、

”破壊者”、は、どんなに、”創造者”、を装って、その虚栄を築こうが、その不実の虚無の、”苦”、に苛(さいな)まれ、欲望の奴隷となって、それ相応の不自由な境涯に住み続け、死後もその因果に住み続け(報)、

”創造者”、は、どんなに、”破壊者”、の虚無の、”苦”、に襲われようとも、誠実の栄光の、”歓喜”、とともに、欲望の主人となって、それ相応の自由な境涯に住み続け、死後もその因果に住み続け(報)、

その、生命は、創造する意志としての、その、”自由”、の目的を全うする。

砂漠に井戸を掘っている人々が、ある特定の国のために、民族のために、宗教のために、掘っていると思うのか。彼等は、人間のために、人間を含めた、水を求めるすべての生き物達のために、砂漠に井戸を掘る。

すべての国の指導者は、特定の国のために、特定の国の民族のために、特定の国の宗教のために、ではなく、安息を求める、人間を含めた、すべての生き物達のために、砂漠に井戸を掘りなさい!

砂漠にオアシスをつくるように、破壊ではなく、創造をもって、行動しよう!

その時、

”破壊”、の、”苦”、は、
”創造”、の、”歓喜”、へと変貌し、

”虚栄”、の虚無の、”苦”、も、
”実存”、の本物の、”歓喜”、となって、

死後もその因果に住み続ける(報)。

”誠実”(最善)が、破壊され、冥伏し、

”策略”(最悪)、が、虚無の暗雲とともに、顕現し、世界を支配すれば、

世界は、(核、化学物質、武器で)汚染され、腐り、破壊され、

生命の進化は、いたたまれず、

火星のように、木星のように、天王星のように、意志は冥伏し、

冷たい物質の世界に退化する。

それが、”神”、の意志でないことを!

その、”破壊者”、の、”私”、が、
その、不実の、”偽善者”、の、”私”、が、
その、不実の、”偽善者”、の振る舞いによって、その破壊の世界がつくりだされた、
その、不実の、”私”、が、

”神”、の意志と称して、
”神”、に、その責任を擦(なす)り付けないために!

”神”、の定義をはっきりさせよう!

絶対者の、”神”、とは、
最善の、”法則(真理)”、のことであり、

意志する(相対者の)、”神”、とは、
最善の、”生命”、のことであり、

本質的に、
その、”神”、とは、

絶対者の、”神”、の、最善の、”法則(真理)”、と一体の、
”今、ここ”、に生きる、
あなたの(或は、あなた方の、或は、私の、或は、私たちの)、
その最善(大慈悲心)の、生命の、”私”、のことだ、

と。

その時、はじめて、
”神”、の意志と称して行われた、”私”、の行為も、
意志する(相対者の)、”神”、の、最善の、”私”、の意志として、
最善でも最悪でもある同じ、”私”、が、その全責任を負わなければならず、
”意志する絶対者”、の、”神”、に、その責任を転化して、正当化することも、
”私”の行為の因による、”私”、の果報が、
”意志する絶対者”、の、”神”、によって歪められることもない。

(2003.02.23)
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