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何かをしようとすると、必ず"邪魔"が入る。


"邪魔"の正体は大概、"欲"である。


"判断"や"行動"は、"欲"、等の"生命の属性"に よって歪められる。


"天使"も、"善人"の"悪意と憎悪"に、 ひとたまりもない。


"仏陀"の"イメージ"や"思想"も、その"本義"が伝えられる 一方、それを"邪魔"するかたちで、それを"判断、解釈"する人間の"欲"、等によって歪められ、伝えられる。


そして、多くの"仏陀"の"イメージ"がつく られ、"宗派"がつくられる。


他のすべての"思想"、等の"手本"につい ても、同じことが言える。


巧妙に仕掛けられた"罠"。


"本物"に似せて作り、"本物"以上に輝い て見せる。


"お金"のため、"名誉"のため、"支配欲"の ため。


どれも"利己欲"だ。"欲"のために"歪められ"、"信じられ"、 "毒"を流し続ける。じわじわと"生命"を虫食(ば)んでいく。


"仏教"が"生命"を説き、"体現"する"思想"であるだけに、 真の"仏教"に似せて"生命"に染み込んだ"毒"は性質(たち)が悪い。


ある"毒"は、"現実逃避欲"、"依存欲"、等をくすぐり、"極楽"を 夢見させ、"アヘン"のように虫食(ば)んで、"利他"の行を疎かにして、本物の"仏陀への道"を閉ざす。 その"手本"としている"経典"(阿弥陀経、等)は、"現実世界"の"苦"や"楽"の仕組みを、"衆生"にわかりやすく 教えるために、"比喩"として、"地獄"や"極楽"やそこに住む"架空の仏陀"(阿弥陀如来)等を用いて、 説いているに過ぎない、この"仮の思想"を"手本"としている(浄土宗、等)。


ある"毒"は、"支配欲"、"権勢欲"、等をくすぐり、"仏陀"以上 の"輝く仏陀"を作り、"衆生"の目を奪い、"利他"の行を疎かにして、本物の"仏陀への道"を閉ざす。 その"手本"としている"経典"(大日経、金剛頂経、等)は、"仏陀"の"最高の真理と智恵"のすばらしさを、 "架空の仏陀"(大日如来)に託して、"比喩"として、説いているに過ぎない、 この"仮の思想"を"手本"としている(真言宗、等)。


ある"毒"は、"顕自欲"、"知識欲"、等をくすぐり、"瞑想"に ふけりながら、"欲"に囚われて、くるくる変わる迷いの"自分の心"を"仏陀"として(無我、空、等を説くが、何れ も、自分の心の内)、"利他"の行を疎かにして、本物の"仏陀への道"を閉ざす。その"手本"としている "経典"(楞伽経リョウガキョウ、等)(自分の心を手本とするため、手本になる経典などないとしているが)は、 "仏陀"への道を歩んでゆくための、ほんの初段階の、身心の心構えを説いているに過ぎない、この"仮の 思想"を"手本"としている(禅宗、等)。


ある"毒"は、"高慢欲"、"潔癖欲"、等をくすぐり、"戒律"で 縛り、生きる術(すべ)である"欲"をも消滅してしまおうと、"灰"となって、"利他"の行を疎かにして、 本物の"仏陀"への道"を閉ざす。その"手本"としている"経典"(阿含経アゴンキョウ、等)は、"仏陀"への道を 示す前に、"快楽"に溺れる"衆生"を諭すために、仮に、厳しい"戒律"を説き、"欲"の"消滅"を説いている に過ぎない、この"仮の思想"を"手本"としている(阿含宗、等)。


この様に、"仏陀"が"衆生"の"機根"にあわせて、 仮に"比喩"をもって説いた"思想"を、"欲"に支配されたままの"人間"が、勝手に都合よく解釈して、 "最高の思想"となして"宗派"をつくり、それがまた、都合よく、"欲"に生きる"人間"によって支持され、 広められていった。


これらの"毒"は、人々に"毒"と気づかせずに、 何代にもわたって浸みわたり、社会に深刻な影響を与え続けている。

ある人々は、"来世の幸福"ばかりを考え、自分以外の"他力"に依存し、"現実"を変えようとせず、 "無気力"、"無関心"になり、あげくの果ては"死"のことばかり考えて、"諦めの哀音"の中に生きている (浄土宗、等)。

ある人々は、"強い力"にあこがれ、弱いものを見下し、へいきで人を裏切り、"力"でものを言わせ、 絶えず"自分"を偉いものに見せようと、"虚飾"の中に生きている(真言宗、等)。

ある人々は、人と離れ、世間と離れ、"自分の世界"に閉じこもり、他人がどうなろうと、世間がどうなろうと、 自分には関係ないものとし、人間以外のものや、自然を好み、"自分だけの楽しみ"の中に生きている(禅宗、等)。

ある人々は、"人を本来悪"とみなし、"規律"や"制度"のみを重視し、"人間の美徳"など信用せず、 すべての"善なるもの"を"偽善"とし、"幸福"は"欲の規制"にあり、"制度の変革"のみで、達成されるものと して、"重い鎖"に縛られ、"冷たい牢獄"の中に生きている(阿含宗、等)。

これらの人々に共通している最大の欠点は、"仏陀への道"の"本道"である、"利他の道"が塞がれている という点である。"利他"こそが、"手本"となる"仏陀への道"の"本道"である。また、真の"利他"は、"施し"に はなく、"自立の道を教えること"、にある。



この他にも、"私利私欲"のために、いろいろな耳触りの いい"思想"を寄せ集め、"特別な宗教"として祭り上げ、人の不幸につけこんで、"金"や、時には"命"まで 奪う、"インチキ宗教、思想"が、たくさん存在する。


騙されるな、気を付けよう!

"ク サイ"と思っているのが、実は"本物"で、"本物"だと思っているものが、実は"偽者"だ、というようなことが たくさんある。"欲"に惑わされ、"欲"に支配されている"心"、この世の中は欲得だけで、"善"を"偽善"にしか 見ようとしない"心"、自分が一番よく知っている"自分自身"の一番汚い部分からでしか物事を見ようと しない"心"、を決して信じるな。そんな"心"が見ているものは、結局、"自分自身"の"汚い心"だけだ。



"罠"に落ち込まないために、


まず、"刺さった矢"を抜くことだ。


そのためには、"毒"と"薬"とをはっきりさせ、


"生命の大樹"の"枝葉の部分"と "根幹の部分"を明らかにしなければならない。


"枝葉の部分"の"大要"は、 すでに明らかにされた。


つぎは、"根幹の部分"。


すなわち、"仏陀の最高の思想"とは何か。


それは、"法華経"である。


"litaの思想"は、すべて、この"法華経"に 基づいている。


"法華経"こそが、"仏陀"の"最高の思想"であり、"最高の生命" の"哲学"である。"仏陀"はこれを説くためにのみ現れる。何故なら、"仏陀"とは、すべての"生命の救済"を "目的"とする、"最高の慈悲"に生きる、"最高の生命"の"体現者"だからだ。"仏陀"は、"衆生"を この"法華経"に導くために、その"衆生の機根"にあわせて、"様々な経"を説いてきた。"法華経"以外の すべての"経典"(実は、仏教以外のすべての思想も含む)は、そのための"方便の思想"、"部分の思想"に 過ぎない。


"最高の優位"を知り、"最高の行為"をする"生命"だ から、"最高の生命"であり、"法華経"は、それが説かれている"思想"だから、"最高の思想"である。


"問題の本質"は、"答え"から見ていった ほうが、よく見える。


"思想"は、"生命"から見ると、わかり やすいように、"生命"は、"法華経"から見ると、わかりやすい。


しかし、"法華経の大樹"にも"枝葉" と"根幹"とがあり、"偽物"と"本物"とがある。


さらに、"枝葉"と"根幹"、"偽物" と"本物"とを、選り分ける作業が必要だ。


(1997.5.30)

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