春だ!

春だ!

春だ!

ささやかな春のために!

そして、豊かな春のために!

私達は、解放されました!

(01.01.07)

さて、この天上の森の太陽は今ちょうど天上の真上にあり、
極ゆっくりと西に傾いているもののほとんど停止しているようで
その輝きは一段と増しているようにも見えます。
森では相変わらず大きなテーブルを囲んで会話が弾んでいて、
森の精がその会話のお相手をしたり、
門番や森の管理上の仕事で甲斐甲斐しく働いています。
門番の仕事も一段落して、森の精がさっそくまたその会話に加わりました。

”毎度のことですが、この森の番人の仕事といたしましてこの時刻に定められたことをしなければなりません。 まず森の入り口でうろうろされている方々へのご説得と、この森への精神的な、 そして経済的なご支援のお願いに走り回らなければならないのです。 このご説得とご支援とはこの天上の森の門の外にいる人たちに対してのものですが、 これがなかなか大変な仕事でして、 ご説得もご支援もなかなかご理解が得られません。どんなに宝物を積み上げても、この森には入れませんとご説得申し上げてもなかなかご理解が得られず、方や、この森を維持するためには精神的なご支援とともに経済的なご支援とが是非とも必要なんですとご説明申し上げてもなかなかご理解が得られません。この席でその様子を詳しくお話ししようと思って参りましたが、私の取るに足らない愚痴話よりも、あちらのイブン・シーナーさんが是非お話したいことがあるとお手をお挙げになっていらっしゃいますのでそのお話をお聞きすることにいたしましょう。”


”ありがとうございます。妖精さんのお話の後でとも思いましたがやはり大事なことですのでお言葉に甘えて少し話させていただきます。先ほどのヘレンさんのお話、大変感動いたしましたが、そのヘレンさんのお話の前に話された諸先生方と同様に、私どもの無法者の放蕩息子を諌めませんと、唯一絶対の神アラーの名に泥を塗り、世界に貢献してきたと自負する私たちの文化が破壊されてしまいますのであえて話させていただきます。ご存知のように、唯一絶対の神アラーは偶像を嫌います。何故なら、唯一絶対の神アラーとは唯一絶対の法則(自己の存在の因を自己の内に持つ唯一の存在)のことだからです。しかし衆生を普く救済するためには方便として何らかの形を示さなければなりません。文字で示し、色で示し、形で示し、音で示すわけですが、唯一絶対の神アラーは唯一絶対の法則であり本来偶像を嫌いますので私たちの文化では偶像を極力示しませんでした。しかし、この世界で、唯一絶対の神アラーによる創造物でないものはなく、従ってすべての衆生が唯一絶対の神アラーによる救済の対象となりますので、他の文化に対しては、方便として偶像を示してきたのです。つまりすべての他文化の偶像(文字、音楽、美術、他の造形物)も唯一絶対の神アラーによる創造物に違いないのです。私もこの森で、”今、ここ”の法華経の本門(これも唯一絶対の神アラーによる創造物)から見ておりますので偏狭なものの考え方から免れることができ、私たちの放蕩息子の行為を世界に詫び、その償いの意味でもこうしてイスラムの正義(最善に善の解釈)を世界に示さなければなりません。唯一絶対の神アラーは唯一絶対の法則でありますから姿として見ることは出来ませんし、その示される意志としての文字、色、形、音は相対する精神の”私”の方便としての存在であり、この意志する相対の精神の”私”はその唯一絶対の神アラー(絶対の法則)のもとに律して運動する生命の精神ですので、その唯一絶対の神アラー(絶対の法則)に従う意志する相対の精神の”私”のその一瞬の行為の因果は、波紋の輪のように、つまり、ドミノ倒しのように、その行為者である”私”の身体(世界)(外の世界も内の世界も、物理世界も精神世界も)に普く広がり、その身体(世界)に存在する近いものから遠いものまでの縁するすべの他者にそれぞれにそれぞれの程度で行き渡り、そのすべての他者のそれぞれの新たな縁(影響)となり、また新たな波紋の輪となって跳ね返り、そのいくつもの波紋の輪が重なり合い、やがて、ある一定の干渉を伴う複雑な波紋となってその行為者である”私”に還ってまいります。意志が冥伏している物質だけの世界ではその干渉が規則正しい繰り返しとなって現れ、例えば、地球は太陽の回りを約365日で一周し、電子はそれぞれの干渉の仕切りの中で原子核の周りを運動しながら、その互いの原子のそれぞれの干渉によってそれぞれに新たな物質を作り出しこの世界を組み立てております。その物質だけの物理の世界に、意志する”私”の行為(創造者の創造、破壊者の破壊、そして祈りも行為です)が加わりますとその干渉は複雑になりますが、本来、意志する”私”は、物理の干渉の繰り返しを方便として利用しておりますので(例えば、電磁波の振動(繰り返し)を色として、空気の振動(繰り返し)を音として認識し、心臓はある一定の脈動を繰り返しながら生活している様に)、その行為者である”私”に還ってまいりますその波紋の干渉もまたある一定の周期を持つようになります。その一つの流れ、つまり時の流れとして、その行為のなされた瞬間と、それから百日目、一年目、三年目、七年目、、、という節目に、丁度、波がその岸に打ち寄せるように波紋の干渉が現れてはその行為者に打ち寄せるのです。意志する”私”の行為による因果は、地球が一年して太陽を一周してもとの場所に戻るような単純な干渉ではありませんが(正確には元の位置には戻りませんが)、確実にその行為による因果の果報は波紋の干渉のようにその行為者に及び、その行為による影響を自らに受けるのです。これは唯一絶対の神アラー(絶対の法則)による裁きであり定めでありますので絶対なのです。そこで、唯一絶対の神アラー(絶対の法則)によって方便として創造された創造物を、しかも1500年もの長い間存在し続けてきた貴重な文化遺産であるその創造物を破壊する行為が果たして正しいことなのか正しくないことなのかは、唯一絶対の神アラー(絶対の法則)の定めに照らせば否と言わざるを得ないのですが、私がどうこう言うよりもまず第一に優先されるのがこの唯一絶対の神アラー(絶対の法則)の裁きに従う(是か否が決定される)というのが最善に善の解釈の内のイスラムの正義なのです。他の宗教と同様、私達のイスラム教の世界にも様々な解釈による様々な分派が存在しますが、唯一絶対の神アラー(絶対の法則)によって創造された創造する意志である”私”が、その唯一絶対の神アラー(絶対の法則)と相対の精神の”私”とを分別している、というのがイスラムの正義(最善に善の解釈)にかなう最善に善の内の解釈なのです。さらに、この唯一絶対の神アラー(絶対の法則)の内には、すべての創造物を生む因と同様に、勿論、破壊の因もありますが、なによりも創造する意志である相対の精神の”私”を生む因も含まれておりますので、イスラムの文化は創造の文化に間違いなく、世界がイスラムに対する正しい認識のもとでこのイスラムの正義(最善に善の解釈)に正しい理解を示されることを切に祈るとともに、これからも私は、私の意志として、破壊の苦には創造の歓喜をもって贖って参ります。”

(01.03.18)

さあ! あの丘へ!

さあ! あの丘へ!

さあ! あの自由の丘へ!








タン、タ、タン。
タン、タン、タン。

タン、タ、タン。
タン、タン、タン。

タン、タ、タン。
タン、タン、タン。

タン、タ、タン。
タン、タン、タン。

タン、タ、タン。
タン、タン、タン。












タン、タ、タン。
タン、タン、タン。























ベアトリーチェ! ここは一体、何処です!

何故、私は、ここにいるのでしょう!

確か、私は、7つの罪を贖い、ウェルギリウスの回向に導かれ、
日も高くなったころ、彼の地にやって来たはずです。

ベアトリーチェ! 教えて下さい!

”ここ”、は、何処で、
”今”、何がなされようとしているのかを!












やっと、お目覚めになったのですね。

あなたは、随分と長い間、眠っておいでになり、
かなり、うなされていましたが、・・・。

”ここ”、は、今の、あなたにとっては、まだ、地上(煉獄)の森です。
あなたは、この森の門の前で、行き倒れになっていたのです。

それを、あのマテルダのヘレンさんが見つけて、
この森の奥まで運び入れてくれたのです。







私が、行き倒れに・・・!
そして、”ここ”、は、まだ、地上(煉獄)の森、・・・?

私は、確かに! ベアトリーチェ! あなたの導きで、彼の地に行き、あの、輝くばかりの、”神”、の恩寵に浴したはずです。

教えて下さい! ベアトリーチェ!
一体、この私に、何が起きたというのですか!

(00.01.30-01.11.24)

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