さらに、また、多くの人々や生き物たちが、次々と、”今、ここ”、 の天上の森に集り、

ふたたび、天上の集いがはじまる。

円卓では、さらに活発な会話が....。

”ところで、カントさんは、”今、ここ”、では、どのようなご感想をお持ちでしょうか。”
”私は、精神の働きを分析し、その適用範囲と限界とを説いて、 精神の越権がもたらす 様々な誤謬から人類を解放したいと思い続けていますが、 ”今、ここ”、から、さらに新めて見直してみますと、 生命にとっての解釈は大部分、感性の直感が解釈し、 世界を組み立てる時間と空間も普段は感性の直感が解釈していますが、 特に意識する時にはそれらは悟性が解釈することになり、 その時それらは互いに補完し合う形をとり、 時間が形式である時は、空間はその質料であり、 空間が形式である時は、時間はその質料であるという関係で、 質料である空間が変化する形式が時間となり、 質料である変化(時間)する延長の形式が空間となります。 そして、相対の精神が便宜上、手段として空なる時空間を時間と空間とに分け、 それらを質的量的に解釈しますから、 そこから生み出される悟性世界も、さらに推論される理性世界も便宜上の世界であり、 従ってこの相対の精神が描き出す世界は絶えず便宜上のもので 限界がありますから、 せいぜい一連の精神作用が最善に善であることが求められますので、 実践理性の役割が一層重要になってまいります。 つまり、便宜上、手段として、質的量的に時間と空間とを 解釈するのと同様に、 相対の精神は、実践理性の理念に基づいて、 判断力と理性とで、便宜上、空なるものを空なるものと解釈し、 それが絶対の法則と相対の精神とに分けられ、 さらに、便宜上、解釈された手段としての時間と空間との悟性世界と その推論とで 純粋理性の世界が作り出され、 その実践理性の理念の実現に役立てようとしますから、 ”相対の精神の最善の解釈が、最善の神の最善の解釈”、 という解釈が実践理性に基づく最善の解釈となり、結局、 その最善の解釈の実体は、”今、ここ”、でお話になった、 デカルトさんやヘーゲルさんの ”永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律に 則って律して(運動して)いる”私”という一元の生命の精神、云々” という解釈とまったく同じものということになります。”
”つまり、左官屋のあっしが言うのもナンですが、簡単に言って、 すべての世界が”私”の都合で勝手に解釈されて作られるのなら、 せいぜい最善に解釈して、最善に行動し、最善に生きようということのようですが、 それにしても、先生方は、どうしてこんなに簡単な当たり前のこと(道理)を難しく、 しかめっ面をして話すのか、前から不思議に思っていましたが...。
ところで、智リ(ちぎ)先生、何かおっしゃりたいことがお有りのようですが...。”
”それでは、少しだけ話させていただきますが、”空”の概念は仏教だけの オリジナルの ものではありません。インドの他の宗教や哲学は勿論のこと、ヨーロッパや中近東、 南北アメリカ、等々、殆どすべての地域の宗教なり哲学、思想に、同じような概念が みらせますので、”空”の概念はより普遍的なものだと分かります。 そこで、その”空”の概念を踏まえた 先ほどの先生方の解釈を、”今、ここ”、の仏教側(法華経) の本門から見てみますと、 ”絶対者”の概念は”法諦”として、”相対の精神”の概念は”報諦”として、 ”一元の生命の”私””の概念は”仮諦”として、それぞれ説かれておりまして、 その”絶対者”の最高の存在が”法身如来”、 その”相対の精神”の最高の存在が”報身如来”、 その”一元の生命の”私””の最高の存在が”応身如来”とそれぞれ呼ばれ、 ”永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律に則って律して (運動して)いる”私”という一元の生命の精神、云々”、というところが ”一諦即三諦”、”三諦即一諦”の”円融の三諦”の生命観として、さらに、 その生命観に則った最高の生命の存在が、”一身即三身”、”三身即一身”の ”円融の一身即三身如来”という形で、それぞれ説かれております。”
”またぞろ難しい言葉が続きますが、いいえ、左官屋のあっしにも分かりますよ。 ”今、ここ”、 からみると不思議なほどよく分かります。道理に則して、筋を通し、 良い仕事をしながら、人間として立派に誇れる生き方をすれば、それが最高の人生だ、 ってことでさあね。これもまったく至極当たり前のことで、 こんな分かりきったことを先生方が 難しくおっしゃる理由も、”今、ここ”、でなら、 本当ははっきり分かっているんですがね...。しかし、 まったく、近頃のエセ学者、エセ知識人ときたら、不勉強も甚だしく、 あやふやな知識で、その知識の真偽、有害無害、有益無益、等の検証もせず、 本当にいいもの、価値あるものを見ようとも、勉強しようともしない、 自分の小さな思い込みや旧来の因習のような毒々しい誤謬を 批判もしないで(勉強していないから批判もできない) 簡単に受け入れ、喧伝し、まるで有機水銀が少しづつ垂れ流されて 汚染されている海を その不勉強、無知のために、この海は昔から奇麗な海で、今も奇麗なままだと説明し、 ここで採れた魚介類も 何の心配もありませんよ、 とでも言っているようで、その情報を信じて黙々とその汚染された魚介類を 食べている人々やその子供たちの姿を本当のことを知っている者が見たなら、 憤りを感じないでいられるでしょうか。 また、”いいもの”を、例えば、社会の一人一人が孤立化して他人や他者に関心を示さず、 善に対しても、悪に対しても無関心を装う風潮の中で(犯罪の温床)、 他人や他者との関わりの大切さを深く認識し(思想)、 その蔓延し肥大化した虚無にたくさんの風穴を空け新鮮な空気を入れて、 カサカサの社会を潤いのある社会に変えようと積極的に運動している事実を 見ようともせず、犯罪の温床を必要とするもの(一番必要としているものは なんといっても、甘い汁を吸うダニの政治屋、官僚屋、悪徳業者、詐欺宗教屋、等々) にとっては有り難くない、 厄介な存在だから、破壊の情報屋に誹謗、中傷を流させ悪い汚いのレッテルを張らせ、 その存在(価値、有益性)を世間から抹殺させようとするのが常套で、 その誹謗、中傷の情報を鵜呑みにして、 その頭に染み込んだ薄汚れた思い込みで判断し、批判し、 その”いいもの”を潰そうとしていることに気付かない薄弱な知識人がさらに その饒舌によってそれを助長する、まるで伐採されて丸裸にされた山の斜面に、 このままだと大雨の時山が崩れて危険だとボランティアの人たちが 一本一本木の苗を 植えている行為に対して、山の開発業者やその利権に群れる政治屋、 官僚屋の先生達 が金で動く売文屋に流させた誹謗、中傷を、 その山や、ボランティアの人たちの行為が見えない、理解できない、 確かめようともしない薄弱な知識人が真に受けて、さらに その饒舌によってそれを助長し、本当はこれ以上の善はないという行為が 妨げられるとしたら、 本当のことを知っている者は憤りを感じないでいられるでしょうか。 物事を公に責任を持って 喋る人は、自分の言っていることの根拠が確かであるかどうか、 その真偽とその影響とを考え、意図的なデマを流す破壊の権力者、政治屋、情報屋、或は、 悪人や詐欺師でない限り、勉強して確かめて正確な情報を責任を持って 流してもらいたいし、知識があやふやで責任が持てないなら、 話さずに済むことであれば話さずに、話さなければならないことなら、 責任を持って話せるその道のエキスパートに依頼して 的確に正確に”正直”に話させてもらいたいものだと、ボンクラ頭の 知識人面したボクネンジン(学者、ジャーナリスト、先生、等)に、 あっしはほんの一言、言いたいのでさあ...。”
”そのお気持ちはよく分かります。私も森の精として長年この天上の森を 管理してまいりましたが、この森にも守らなければならないルールとか、 管理上のさまざまな難しい問題を抱えておりまして、私自身も本当はいつもこの 円卓にいて、皆様方の楽しいお話をお聴きしたり、 たまにはこうして私の話も聞いてもらったりしていたいのですが、 なんせ、仕事が忙しく、特に森の入り口の門番の仕事は気の休まる暇も ございませんが、 幸い、多くの来客人もすべて初対面ということになっておりますので、 私の姿と声とは私自身の代わりに、本当はまずいんですが、 最近はいい器械もありまして、私の姿はホログラフィーで、 声はRAMチップというようなものに記録されたものを使っておりますので、 いざという時は、その器械にまかせまして、こうしてしばしば 皆様方のお仲間に入れさせていただいております。さて、余計なことを申しましたが、 そのボランティアの方々の思想とその行為とは 宜しいんですが、組織というものは長年、年を経て大きくなると、 中にはそれをチャッカリ不正な金もうけに 利用し私腹を肥やす不埒なものが出てきたり、 不透明な部分(例えば組織のためにと称して内部の悪を 隠したり、見ないふりをしたり)も出てきがちで、 そこのところをきちっとしなければ、 その善の思想も行為も薄汚いものになってしまいます。なかでも重要なのが、 ボランティアの方々、お一人お一人の自覚の問題で、悪を見て何も言わないのは 悪であるということ、特に組織のためといって悪を隠したり、 見ないふりをしたり、といったことがその組織にあれば、その時点で その組織の善はすでに破壊されておりまして、善が破壊された組織は、 悪の組織で、いずれ悪の本領が発揮され内部も外部も破壊され、 それが大善の組織であれば大善が失われますので大悪の組織の大破壊に なってしまいます。 その典型が例のアメリカのシアトルというところで”売春”をしでかしたハレンチ坊主が 指導者になっている宗教組織で、すでにそうとう以前から、良識者の再三の指摘にも かかわらず、権威、権力に溺れ、すでに俗よりも俗な堕落した坊主どもが その大半を占めるようになってしまっていた宗教組織の、 その指導者の坊主が ”売春”をやったかやらないかで裁判になって、 結局、裁判所の確かなお墨付きを頂いて、淫乱なドロドロ、グチャグチャ坊主である ことが数々の証拠と証言とで公に立証されたにもかかわらず、 相変わらず指導者の立場にいて、ゴ法主上人様と呼ばれ、 それで善を説いているという、 まったく出鱈目な大偽善の大悪の親分子分のドロドロの組織です。 偽善というものの極致の姿をお知りになりたい方は、 どうぞこの良い手本をご参考になさって、ご参考になさりたい方は、 まず、彼等の大事な教義の、 御講聞書の”置不呵責の文の事”、 をお読みになり、彼等の隠れた闇の修行遍歴をお調べになり、 その上で、裁判の資料をじっくり御参照なされたらいかがでしょうか。 まあ、私は、この天上の森の番人といたしまして、近頃、 腹に据えかねてきたことですので、 いつになく興奮してしまいましたが、もちろん、 天上の森の管理上のルールに 従いまして、彼等、聖職者の装いをした淫乱な詐欺師の親分子分は それと同じような巷にはびこるオドロオドロした聖職者を装った犯罪者達の お仲間と肩をならべて、 当分はその贖いのため臭い飯と痛い目とグジャグジャの目とにあって、 この天上の入り口にその気の毒な顔を見せるのはいつの日のことになるのやら...。 ほら、また微かに聞こえて参りました、この天上の森にも、遥か下の地上のさらに 地下深くの地獄の底から、鬼たちのいつものお勤めのヨイトマケの歌が...。”

(2000.05.07)

この天上の森にも
厳しい冬の寒さと
その到来を待ち望む春の暖かさとがあり、
夏の暑さや秋の涼しさ、
それと夏の多いところの暑さや冬の多いところの寒さのそれぞれの季節の変化は、
動物や植物の生活の変化と同様、
地上と少しも変わりありませんが、
地上と少し違う点は、
人間だけが
それなりの苦楽はあるにしても
辛い苦しい時もそれほど辛くもなく、苦しくもなく、
楽しい喜びに満ちた時もそれほど有頂天に楽しんだり喜んだりもなく、
ただ、ふつふつと湧き上る楽しみと喜びの中に生きています。
それらは生命の境涯がもたらすごく自然の状態で、
あの桜の花に囲まれ、
なんとも安らかな表情でその境涯にひたりきっているあの婦人が
まさにその幸福そのものの姿です。
その婦人の名は、
ヘレン・ケラー。

”私は目が見えません。音が聞こえません。真っ暗な闇と沈黙の 世界とに生きています。と言いましてもこれは生まれて間もない時からですので ほんとうのところは他に比べようもなく、 見えないということが聞こえないということが実際どういうことなのか 分からないのですが。しかし、お陰様で多くの人々の愛と真心とによって 助けられ、見えない目でよく見ることができ、聞こえない耳でよく聞くことができ、 おそらく他の三つの感覚と心との相乗効果といいますか、物事の本質を 理解することができるのです。特にこの森では、 いっそう物事の本質を理解することができ、 私はただただ、すべてのものに感謝しているのです。”すべてのもの”、 これが今の私には本質的な事柄で、私はこの”すべてのもの”に支えられて 生きているのです。私の世界は、真っ暗な沈黙の世界ですが、 真っ暗な沈黙の世界であるが故に、その世界の中の私という存在が よく理解できるのです。”
”私は、この森で二つの門を通ってまいりました。一つは権門といって仮の門。 もう一つは本門といって真実の門です。私は権門を通って大人になることができ、 本門を通って真実を知ることができました。権門とは方便に生きることであり、 本門とは真実に生きることです。”
”こうしてたくさんの桜の花に囲まれ、美しい香りと、さわやかな音色の風とが 私を包み、桜の幹に触れる感触も、まるでワインを 飲みながらこうして皆様方と会話を楽しんでいるようで、 私がはじめて言葉というものを知った時も、今のような それもはちきれんばかりの感動が 体中を走りぬけ、とてつもない 大きな世界へ自在に飛び回れるようで、私はそれから夢中になって学び いろいろなことを知り、 世界がどんどん広がり、過去の私がその時々の私がどのような境涯で 何を知らずに何を錯覚し何を思い込んでいたかをよく理解することができました。 言葉を知ってはじめて私が人間であることを知り、 私は人間であることに盲目でありながら人間であることに感謝しています。 人間とは何と奇跡的な生き物なのでしょう。”
”私がまだ”人間”を知らないでいた時、サリバン先生はとても恐ろしい 怪物に思えました。私を容赦なく叩くのです。言葉を知らない、 しかもある程度大きくなって粗暴になっていた私を導くのに 他に方法が無かったのでしょう。まさに真っ暗な沈黙の世界を、動物が、それも 目も耳もない虫けらのようなそれでいて大きな生き物が物を壊しながら 這いずり廻っているわけですから。私がサリバン先生を受け入れたのは、 その私をひっぱたく怪物が必死に私に何かを教えようとしていることに気付いた 時からでした。私は絶対的に暴力や破壊を肯定しません。 しかし現実に暴力や破壊があるのです。何故、創造する意志が創造する意志で あるが故に絶対的に肯定しえない暴力や破壊が現実にあるのでしょうか。 苦痛とは何でしょう。苦痛とは、生命がその破壊から生命自身を 守るための防衛手段です。生命の破壊とは何でしょう。 生命の、肉体の破壊とは肉体の物質(無機)化であり、 生命の、精神の破壊とは精神の空(物質である時の生命の精神の状態)化であり、 肉体の破壊に対して痛みがあり、精神の破壊に対して苦しみがあり、 その肉体と精神との破壊を防ぐために、 創造する意志の”私”は、 おのれの肉体の破壊には痛みを、精神の破壊には苦しみをもって臨み、 他者に対してもその思いを同化させながら、破壊を悪、 創造を善と名付け、その創造する意志の”私”の目的を全うしようとしてる のです。サリバン先生は人間の私を叩くことで動物を叩くのとは違って、 或は、いじめや喧嘩で叩くのとは違って(深いところではつながっているのですが)、 肉体の破壊の危機の 痛みによって、精神の破壊の危機の苦の存在を分からせようとしました。つまり、 精神的苦こそが精神をもつ人間であることの証ですから、 精神的苦のない”虫けら”の 私に精神的苦、”どうしてこんなに私は叩かれるのだろう”、という疑問を 持たせることで気付かせようとしました。 これが大人のサリバン先生が、”虫けら”同然の人間である私に行った方便というものです。 私はサリバン先生が示したこの方便の門をくぐり、 方便の人間の世界に入り、さらに方便の大人の世界と方便の教えの世界とに 入ることができたのです。”
”あなたは人間なんですよ、動物や虫けらとは違うんですよ、 と盲目の私に、必死でうったえ続けたサリバン先生。 私は生まれてから十年近く、まさしく動物の境涯でした。 微生物や虫けらから、より高等な動物へとその違いはありますが、 肉体にもとづく生理的な苦楽だけの世界から、 極めて狭い範囲での他者との関わりあいによる 多少の精神的苦楽を伴う世界まで、 私は人間でありながらそれぞれのそれなりの体験をし、 サリバン先生との苦闘のすえ、はじめて人間の精神性、 精神的苦楽の世界に入り、そこからそれまでの自分の生の営みを 生命の”私”の営みとして振り返ることが できたのです。”
”もちろん、すべては”私”という人間の身体とともに解釈してきた ものですので、その体験はそれなりの域をでませんが、”空”に近い境涯などは 動物や植物にまかせておけばいい、という位のもので、それよりも、 それと対比された人間という生命のすばらしさがくっきりと浮かび上がって 見えてくるのです。確かに、生命の”私”は、物(無機)質の状態ではあきたらずに、 タンパク質からウィルス、微生物、植物、動物、と次々と変容し、 今、人間の段階まできて、それまでの”私”の歴史と それから学べるその創造する意志の”私”の目的を実践理性にしたがって 解釈しながら、権門(方便)の世界から本門(真実)の世界へと”私”をいざなうのですが、 逆に本門(真実)の世界から見えてくるのは、人間の方便の世界は真実の世界とまったく 同等の重さを持っているということです。つまり、方便と真実を 分けるのは、これもまた便宜的(方便)だということです。 時空間を便宜的に時間と空間とに分けているのと同様ということです。 ですからどうしても人間の解釈は実践理性の手の平の上から逃れられない ということです。つまり、”方便も真実も最善に善の解釈の内にあるというのが 真実である”、と いうことです。実は、この分節が、”真実の世界”、の全体なのです。 真実の世界とは解釈の世界、 言葉の世界なのです。そこで、”創造する意志の”私”こそが 実践理性によって生命の目的を決定している”、ということになり、 その”私”は、”今、ここ”で、”生命の目的とは、真の自由の 中に生きること”、と決定したのでした。”

(2000.12.07)





”そして、その生命の目的を決定した”私”とは、相対の精神の”私”であり、 それは、”永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律に 則って律して(運動して)いる一元の生命の精神の”私”であり、 その永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律(法則)とは、 その因果律(法則)そのものを因として、他者という対境(縁)によって、 ”私”の身体(世界)(果)が一瞬一瞬創造される、という法則のことです。 つまり、その法則とは、ある縁によってある物が創造される(果)というある法則が あるとすると、 それは、その法則そのものを因として、その縁によってその物が創造される(果)、 という法則のことだということです。すなわち、 ”空”なるものが、その絶対の法則と相対の精神の”私”とに分けられ、 その”私”は、その法則そのものを因として、他者という対境(縁)によって、 運動している一元の生命の精神の”私”である、ということであり、 その”私”の身体(世界)は、同じく、その法則そのものを因として、 他者という対境(縁)によって、運動している”私”の身体(世界)である、 ということです。ところが、その”空”なるものも、法則も、”私”も、すべて ”私”の最善に善の解釈の内にあるということですので、 最善に善の解釈の内にある”私”の最善に善の解釈の内にある”世界”は、 最善に善の解釈の内にある”空”なるものから最善に善の解釈の内にある法則に則って、 一瞬一瞬の最善に善の解釈の内にある縁によって、一瞬一瞬つくりだされる 最善に善の解釈の内にある”世界”である、ということが、最善に善の解釈の内に見出せる、 ということになるのです。”
”これを、この森の、”今、ここ”、の”法華経”の本門から見てみますと、 その最善に善の解釈の内にある”空”なるものを”妙”といい、 その最善に善の解釈の内にある法則に則ってつくりだされる その最善に善の解釈の内にある世界と その法則とを”法”といい、 その最善に善の解釈の内にある法則である因の中にその法則である因そのものとその果とが 具わっているその法則の仕組みを”蓮華”といい、 その最善に善の解釈の内にある”妙”とその最善に善の解釈の内にある”法”との 一瞬一瞬の繰り返しが最善に善の解釈の内にある”経”の”世界”をつくりだす、 ということが、最善に善の解釈の内に見出せる、ということになるのです。”
”その繰り返しの世界を、最善に善の解釈の内にある”私”は最善に 善の解釈の内にある世界であると最善に善の解釈の内に解釈しているわけですが、 最善に善の解釈の内にある”私”の便宜上の世界であるこの現実の世界は、 まさしく、太陽の光がちょうど良い便宜の明るさであり、温かさであり、 植物はちょうど良い便宜の酸素と栄養とを与えてくれて、 風や雨や熱さや寒さをしのげるちょうど良い便宜の家を持ち、 風や雨や寒さをしのげるちょうど良い便宜の衣服を着て、 生活をするのにちょうど良い便宜の肉体と精神とを持ち、 生活をするのにちょうど良い便宜の道具を使いながら、 ちょうど良い便宜の家庭や社会や環境の中で破壊や創造を繰り返しながら 生活しています。 さらに、精神世界から物理世界まで、生命の発生、進化、成長、死、 そしてその誕生から、星や宇宙の発生、進化、成長、死、 そしてその誕生まで、無限小から超微粒子、 超銀河、宇宙の果て、無限大まで、 一つからこれら無限の多様性まで、 他者である最善に善の解釈の内にあるそのそれぞれの縁によって、 一瞬一瞬、時々刻々、それぞれに変化し続け、繰り返され、 その最善に善の解釈の内にある世界の全体が、 偶然などの一寸の隙間もなく、その最善に善の解釈の内にある法則に 則って運行されていますが、ただその法則を含めてそれらをそれぞれに 感知、解釈する能力には常に限界がありますから、 それぞれの限界に応じたそれぞれの方便が便宜的にそれぞれに使われている ということです。”
”その便宜の方便の世界をより生活に密着した実生活に則して見てみますと、 その方便の世界の中には、例えば、破壊の方便と創造の方便とがあり、 破壊者(悪)の使う破壊の方便では、数ある方便(手段)の中で、”ウソ”をその方便として使う時、破壊者(悪)は、 その”ウソ”に対して、悪であるが故に なんの責務も感じず、獲物である他者や結局は自分自身をも破壊してしまいますが、 創造者(善)の使う創造の方便では、”ウソ”をその方便として使う時、創造者(善)は、 その”ウソ”に対して、善であるが故に 常に責務を感じ、後の謝罪と贖いとを自らに課し、その他者を助け、 結局、自らをも助けるのです。例えば、根っからの悪党の詐欺師が 獲物に対して”ウソ”の方便を使ってその獲物と自分自身とを破壊するのと、 根っからの善人の父親が自分の子供に対して、”ウソ”の方便を使ってその子供と 自分自身とを助けるのとでは、 まさに、その結果に、悪と善と、破壊と創造とのはっきりとした違いがあるのです。 この方便の世界(現実の世界)では、方便の世界であるが故に すべての道具(方便)が方便として使われ、その基本的なものが お金であったり権力であったり名声であったりしますが、 これらの道具(方便)が方便として破壊に使われるか創造に使われるかで、 この方便の世界では 重要になってまいります。そこで、これら、お金、権力、名声、を 得ている権力者は、その権力が大きいほど”善”であることが 望ましいわけですが、 得てして権力者が”善”であることは稀れなのです。何故なら、権力者に なろうなどという人は、ほとんどがその権力(方便)を目的としている 典型的な権門(方便)に生きる人だからです。 お金、権力、名声を手に入れるために手段を選ばない、 それぞれの程度で”悪”を方便に利用して、伸し上がってきた権力者が多いからで、 権力の多くはそのぐらいの執心がないと得ることが難しいという事情もあります。 つまり、権力(お金、権力、名声)に目が眩んで、 その獲得に奔走しがちだということで、こういう権力者はたとえその目的の権力を 得たとしても、権力が目的なので、さらにその権力を使って、 より多くの権力(お金、権力、名声)を 得ようとしますから、権力が大きいほど支配下の破壊の被害は大きくなり、 大きなブヨブヨした独裁の権力者の下に、破壊で泣くたくさんの人々がいるのも このためです。希に、破壊の権力者が創造の権力者に転向するというようなこともございますが、 それは極々希なことで、それよりも、権力は魔物ですから、はじめは比較的健全だった人が、 権力の座に長く居すわるといつのまにか外面はともかく その内面は別人のようになってしまっていたというようなことはよくあることなのです。 そのような権力を魔物に変えてしまう権力者自身の己身の強大な支配欲の 悪(破壊者)のことを仏教では”第六天の魔王”、 または”他化自在天”と呼び、お金、権力、名声、の力で他者を支配し、 独裁者となってその支配をその独裁者中心の全体主義でかため、独裁者自身に対する批判を 彼の支配する組織なり国家なり民族なり宗教なりに転嫁して、 自分の支配を脅かすもの、自分に逆らうもの気に入らないものはすべて粛正、 破壊してしまう破壊の権化みたいなもので、強大な権力者の心がこの欲望に 憑りつかれてしまいますとヒトラーやスターリンといったような大破壊の独裁者に なってしまうのです。ですから、 善良な知識人達が絶大な権力者に対して神経過敏に反応するのは至極当然な ことなのです。しかし、そこで、その善良な知識人達のこの悪(破壊)の権力者に 対する神経過敏な反応と、逆に悪(破壊)の権力者の手先となって善(創造者)をおとしめる 売文屋やそのウソの悪(破壊)の情報を真に受けて悪(破壊者)に荷担しいてしまう無学な 知識人達の善(創造者)に対する悪意に満ちた過剰反応とを しっかりと区別していかなければなりません。悪の敵は善であり、 悪を破壊できるのは善しかいないのです。 ところで、余談になりますが、このように長々と口幅ったいことを 言わせていただいている私は、もう、そうとうの年寄りで、 しかも、盲目で、耳も聞こえず、 喋ることもままなりませんし、お金や権力にはまったく無縁の者ですので、 あちらの芸術家の方々同様、どうぞ、ご安心くださいませ。 芸術家でいらっしゃるあちらの方々もまた、こう言ってはなんですが、 お金も権力もございませんし、優れた芸術家がたまたま権力の下部に なることはありましても、権力者になることはまずありませんし( あってもその権力は善(創造)に基くもので強大にならず、 独裁とは程遠いもの)、 反対に、独裁の権力者に対しては甚だ厳しくものを言う人達ばかりでして、 あちらにいらっしゃる詩人のダンテさんや、ベートーベンさん、 トルストイさん、ショスタコビチさん、 なんかは、その見本のような方々です。 ですから、はっきりものを言う芸術家達を疎んだり、画策しておとめたりして、 民衆から遠ざけようとする権力者(官僚、政治家、大商人、宗教屋、聖職者、等) がいましたなら、それは間違いなく、サメのような目をした、 或は妖気に輝く目をした、破壊の権力者達、独裁者にほぼ間違いございませんので、 どうぞお気を付けくださいませ。独裁者は終始、独裁であらんが為に後継を育てず、或いは、育たず、情報を隠しますから、 その破壊の独裁者、権力者達の周りに集まるのは その権力(お金、権力、名声)を狙う同類の破壊者と小賢しい追随者達と決まっています。 そのような独裁者、権力者達が牛耳っている社会は 経済も政治も文化も凋落の坂を転げ落ちている社会ですので、 余程きちっとしませんと、悪(破壊者)がどんどん集まり、はびこって、 物理的な破壊から大人や子供達の精神的な破壊まで、 その社会はことごとく破壊されてしまいます。 といいましても、残念ながら、一般の民衆、家庭人の方々にはなかなか分からず、 特に宗教の絶対的権力者(人間の”私”を絶対化して他者を支配しようとする権力者)によって絶対的に 支配されているような方々は、精神的に深く支配されてしまっておりますから、 なかなか気付くことができません。その権力者が白といえば白になり、 黒といえば黒になってしまう、まことに厄介な世界なのです。”
”仏教では、このような強大な支配欲(第六天の魔王、他化自在天)に憑りつかれ、 しかもその支配欲、破壊面をひた隠し、善を迫害し、 人々から神様か仏様のように慕われている 宗教の絶対的権力者、指導者を、 特に僭聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)と呼び、 内外のたくさんの人々から信望を集め、 聖に僭(おご)り、聖人を装いながら、 人間の”信じる”という極めて 基本的で重要な行為を利用しコントロールしますので、 その支配から逃れることは甚だ難しく、特にその支配者への批判はタブーとされ、 その破壊の被害は個人の肉体的精神的被害から家庭、地域、社会の 物理的精神的被害まで、その被害は甚大になります。 得てして、健全な知識人が特に忌み嫌うのはこの独裁者で、 健全な聖職者の指導者のみなさんはくれぐれも この僭聖増上慢の権力者に間違われませんよう。 所詮、権力者、指導者などは、その方便の社会の 方便上の役職でしかなく、得てしてそれを勘違いして、 ちょうど、大きな宮殿に住んでいる王様が自分自身を その大きな宮殿だと思い込むように、人々が賞賛しているのは その大きな宮殿のすばらしさだったりするのに 自分に対してだと勘違いして、カエルのように その大きなお腹を膨らませてしまったりするのです。 また、根っからのインチキ宗教は別として、もし、 宮殿がたいそう立派なのにそこに住む聖職者、 宗教指導者に その僭聖増上慢が憑りついてしまい、その立派な宮殿が壊されるに 忍びないという場合、 その憑りついた僭聖増上慢を取り除くには、その聖職者、宗教指導者に、 こう質問してみればいいのです。”あなたの信奉している”お悟り”とは何ですか。 あなたの信奉している”神様”とは 何ですか。あなたの信奉している”仏様”とは 何ですか。”、と。 必ず帰ってくる答えは、曖昧な煙のようなものからいくらか道理にかなうものまで、 お告げでしょうが、先人の比喩、 警句でしょうが、 その答えはすべて方便ですので、何故なら、言葉は方便であり、”お悟り”の言葉も、 ”神”の言葉も、”仏”の言葉も、それぞれ、”お悟り”の方便、”神”の方便、 ”仏”の方便となり、たとえ何も言わないことがその答えであり真実だと 言っても、 方便の世界に住んでいて、しかも方便によってその方便と真実とに立てわけているのですから 方便以外にはあり得ません。 そこでその聖職者、宗教指導者の答えは絶対ではありませんから、 ”あなたが”白”と言っても必ずしも”白”でなく、 ”黒”と言っても必ずしも”黒”でないということで、 あなたは、方便の聖職者であり、方便の宗教指導者ですので、 そんなにお腹を膨らませなくても普通に与えられた方便のお仕事を していればいいのです。”、とでも言っておあげになったらいいのです。”
”或は、”お父様の方便のお仕事の御功績は御尊敬申し上げますが、 先代のおじい様は、お父様に方便のお仕事をさせるために、お父様を方便によって方便の指導者に育てられ、 方便の王様として 方便の権力(お金、権力、名声)を お与えになったので、お父様はおじい様のお計らいの通りに、 その方便であればこその御功績をあげられ、その当然の御評価も受けられておりますが、 その先代のおじい様の深いお心までは理解されずに、また方便が方便だと分かってしまうと、 その方便に力がなくなってしまうという事情もございますが、 その方便の自覚のないままのご振る舞いは、本物の宝物の大きな宮殿と それを守っている人々とを汚し、 傷つけていらっしゃるという側面もございますので、そのために お父様ご自身も汚れて傷つき、 お父様が作られたあちらの小さな方便の宮殿はもうすでに崩れてしまいましたし、 そちらの小さな方便の宮殿も泥にまみれとうとう泥そのものになってしまったようで 瀕死の状態です。そのため善は汚く見え、社会は混乱し、 世相はすさんでしまって大人達は正義(最善に善の解釈)を見失い、子供達の心は荒れています。 それに、この大きな”真実”の宝物の宮殿もすべて偉大な先人達がお残しになったもので、 おじい様やお父様のものは何一つないはずですし、 お父様はそれを多くの人々に 分かりやすく御紹介申し上げるのが主なお仕事のはずです。 おじい様はそれをよく御存じでいらっしゃいましたが、 お父様には方便として方便のお仕事をさせるために その方便が方便であることをお父様にはあえておっしゃらなかったものですから、 お父様はその方便の自覚のないままにその方便の御功績以上にこの大事な”真実”の宮殿を汚し傷つけてしまい、 子供達は、その汚れや傷を修復し、その元の輝きを現わすのに大変苦労しています。 はやく子供達を、高いところからよく見渡せるようなりっぱな白馬の一人前の大人にさせておやりになって、 この大きなりっぱな宝物の宮殿を皆様でさらに磨き上げましたなら、それこそ、 それはもっとすばらしく輝くのではないでしょうか。”、とでも言っておあげになったらいいのです。”
”さて、方便が方便であると明されるのは、ちょうど、 法華経の化城喩品で化城の方便が方便であると明かされた時のように、 その方便の目的が達せられた時点で新たに真の目的を指し示し 次の展望を開くためのものです。 さらに、方便は方便であるからこそその働きを示すものなので、 その方便の創造の功績に対する 真価が方便だからといっていささかも下がるものではございませんし、 ”真実”の解釈はどんなに汚れ傷ついて見えましても、 その”真実”の解釈に対する真価はいささかも変わるものではございません。 さらに、その”真実”の宝物の宮殿を守っていらっしゃる方々の御功績の真価も いささかも下がるものではございませんので、 その”真実”の宮殿とそれを守り実践されている方々に対する、 破壊者(悪)の”ウソ”の非難や中傷は、 この天上の森に対する、そして、”今、ここ”、の天上の森にお集まりの 無数の大善の方々に対するのと同様の、そして、 その最善の正義(最善に善の解釈)の真理に対するのと同様の、”ウソ”の非難や 中傷となることは 間違いございませんので、つまり、”大悪”となりますので、 どうぞ”悪”(破壊者)の ”ウソ”の方便に惑わされて、”大善”を破壊する ”大悪”(大破壊者)の邪義、邪僧、そして、どこかの淫乱坊主のお仲間と間違われて、 地獄の鬼達の酒盛りの肴になりませんよう、くれぐれもお気を付けくださいませ。 そのことは、”今、ここ”、の天上の森に御列席の 大善の方々も大きく頷いていらっしゃりまして、 その頷きによる風のうねりが、そよ風となってこちらに伝わってまいります ほどです。 その昔は皆様方の長いお舌を拝借いたしまして梵天に付けていただくというのが 習わしでございましたが、 あまりに体裁がよろしくないということで、皆様方には大きく頷いていただくことで その儀式に代えさせていただくことといたしました。 中には、涙をながしながら何回も頷いていらっしゃる方も いらっしゃるぐらいですので、 このように、 すでに、”今、ここ”、の天上の森では、 御列席の大善の皆様方とともに決定されたことでもあり、 どうか、浅薄な知識で破壊者(悪)の言い分に惑わされ、 大破壊者(大悪)のお仲間に 間違えられませんよう、 くれぐれも、重ねて、お気を付けくださいませ。 さて、だいぶ長々と踏み込んでおしゃべりをしてまいりましたが、 西洋の文化に育ち、しかもクリスチャンでもあるこの盲目の私がこのように仏教の 言葉でお話しできますのも、この森(”今、ここ”の創造(善)の森であり悪は冥伏されている) では、すべての情報が共有されておりまして、東洋の仏教のこともよく理解でき、 特に、”今、ここ”、では、”法華経”の本門から見ておりますので、 さらによく理解できるのです。しかし、専門的なことは、 やはりそれにふさわしい方に御登場願う ことといたしまして、私の長いおしゃべりもここまでといたしましょう。 最後に、私をここまで導いてくださいましたすべての方々に 感謝申し上げますとともに、 誰よりも、私の掛け替えのないサリバン先生、 人間にとって一番大切な、人間の心の奥深くにある輝くような 精神性を体を張って教えてくださり、私も先生のように生きようと、 先生と同じ道の他者に尽くすというこの救済(利他)の道に生涯を 捧げることできまして、 こうして、皆々様と、この天上の森で楽しくお話ができますまでに 私を導いてくださいました、 実の父より厳しくも慈愛あふれるサリバン先生に、 そして、この厭うべき存在であったにちがいない私を最後まで見捨てずに 愛し育て見守ってくれました、私の父と母と、そして、皆様方とに、 心より感謝をこめて、この歌を捧げます。”

(2000.01.30-.12.31)

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