天上の集い

厳しい冬もそろそろ過ぎようとするある晴れた日の朝、
生きとし生けるものがその予感にうち震えている時、
遠く彼方から聞こえてくるかすかな足音は!

ああ、あの勇しい楽曲は!

胸を張り、
誇らしげに、

軍楽隊に引き連られた、たくさんの人々が、”今、ここ”、にやって来る!

軍楽隊の後ろにはたくさんの兵隊たちが、
そのまた後ろにはたくさんの人々が、
そして、さらにその後ろにはたくさんの生き物たちまでもが!

手にはそれぞれ武器の代わりに、シャベルやつるはしや何か大切なものを携え、

足を高く上げ、楽しそうに、”今、ここ”、にやって来る!

彼らは人殺しや破壊をしに来たのではない。
彼らは人殺しや破壊をして来たのでもない。

たくさんの生命(いのち)を助け、
たくさんの生命(いのち)に助けられて、

共に、晴れ晴れと、この創造の、”今、ここ”、の集いに参加してようとしている!

あるものは道具を携え、
あるものは言語を携え、
あるものは資源を携え、
あるものは技術を携え、
あるものは芸術を携え、
あるものは思想を携え、
あるものは真理を携え、

手にはそれぞれ武器の代わりに、シャベルやつるはしや何か大切なものを携え、
足を高く上げ、楽しそうに、創造の、”今、ここ”、にやって来る!

みんな笑顔で、一仕事終えて、
足を高く上げ、楽しそうに、創造の、”今、ここ”、にやって来る!

今度は、別の方角から!
別の行進が!
同じように、軍楽隊に引き連られた、たくさんの人々が、”今、ここ”、にやって来る!

軍楽隊の後ろにはたくさんの兵隊たちが、
そのまた後ろにはたくさんの人々が、
そして、さらにその後ろにはたくさんの生き物たちまでもが!

手にはそれぞれ武器の代わりに、シャベルやつるはしや何か大切なものを携え、
足を高く上げ、楽しそうに、”今、ここ”、にやって来る!

彼らは人殺しや破壊をしに来たのではない。
彼らは人殺しや破壊をして来たのでもない。

たくさんの生命(いのち)を助け、
たくさんの生命(いのち)に助けられて、

共に、晴れ晴れと、この創造の、”今、ここ”、の集いに参加してようとしている!

さらに、別の方角から!
別の行進が!
同じように、軍楽隊に引き連られた、たくさんの人々が、”今、ここ”、にやって来る!

軍楽隊の後ろにはたくさんの兵隊たちが、
そのまた後ろにはたくさんの人々が、
そして、さらにその後ろにはたくさんの生き物たちまでもが!

手にはそれぞれ武器の代わりに、シャベルやつるはしや何か大切なものを携え、

足を高く上げ、楽しそうに、創造の、”今、ここ”、にやって来る!

さらに、また、別の方角から!
別の行進が!
同じように、軍楽隊に引き連られた、たくさんの人々が、!
たくさんの生き物たちまでもが、!

創造の、”今、ここ”、にやって来る!

たくさんの人々や生き物たちで、

この天上の森とその広場とがいっぱいになったころ、

創造の、”今、ここ”、の一瞬の時間と空間とが無限に開放され、
人々や生き物たちは一瞬の喜びを無限の喜びとしてその幸福感に包まれている時、

その喜びと、それを迎い入れるこの偉大な創造の森とに、

最大の敬意と感謝とを込めて、

静かに演奏は始まった。

(もし、この森に、銃を持った狩人が迷い込んだら、丁重にお引き取り頂きましょう!)

日はさらに昇り、

そのやわらかい光が深い森のすみずみにまで差し込み、

森は安息の時を迎え、

この森の生き物たちも人々も、

互いに、或いは寄り添い、或いは腕を組み合い、

或いは手に手を取って踊り、或いは草や石や倒木に座って肩を揺らし、

或いは子供たちはリスやウサギと駆け回り、

それぞれがそれぞれの思いで過ごしている時、

今まで、軍楽隊の先頭に立って指揮をとっていた軍楽隊長のイヴァノヴィッチが、
丸木で仮に設えた指揮台に登ると、

すべての軍楽隊と演奏家たちとが一斉に彼の方を見た。

手には使い古した指揮棒を持ち、
薄汚れた軍服には勲章など一つもない。

彼は、おもむろに会釈をして、

”この祝福された森に、暖かい春とその喜びを迎えるにあたって、
戦争で殺されたすべての人々とその家族、
そして、破壊に苦しむすべての生命(いのち)に捧げます。”

と言って、勢いよく指揮棒を振りはじめた。

時は、ゆっくりと流れ、

青空にぽっかり浮かんだちぎれ曇は、ときどき太陽を隠して、
その影が、心地よい風とともに大地を這うように、
のんびりと西から東へと移ってゆくと、

わずかにあがった凧のひもを手に、
数人の子供たちが、その雲の影を追いかけ始めた。

動物たちと遊んでいた子供たちも、そのあとを追って、
大歓声や笑い声が、西から東に走り抜ける。

その様子を遠くからじっと眺めていた初老の男性が、なんとも悲痛な顔をして、

愛用のギターを手に取るなり、

”私は、この子供たちのすべてに、戦争の犠牲になった、この子供たちのすべてに、捧げます!”

と言って、ギターを弾き始めた。

.

この天上の森は、

とてつもなく大きくもあり、小さくもあり、

入り易くもあり、入り難くもあり、

その入り口には、いつも、

入るのをためらったり、迷ったりしてうろうろしたり、
無理やり入ろうとしても、入れずに怒ったり、
あきらめ、絶望して塞ぎ込んでいる人々(特に、権力者たち)、がいたりするので、

その時はいつも、森の精が現れて、

決まって言うには、

”この森では、
人間以外の生き物たちは、
すでにその行為によってより不自由な苦楽に生きているので、
その出入りの自由は許されているけれども、
すでに、その智恵によって、より大きな自由を与えられている人間にとっては、
この森に入るのに、
どんなに大きな偉い人間であっても、不自由な苦しい思いをするし、
どんなに小さな貧しい人間であっても、自由な楽しい思いをする。”
ただ、その一瞬、一瞬の、”今、ここ”、の、その行為によって。”

その森の精と森のカッコウたちとが、森の子供たちに贈り物。

おもちゃ箱のおもちゃたちも一緒になって、この子供たちのために。

小さな森の一角で、
小さな銀色の正服を着て、
小さなカールのあるかわいい銀色のカツラをつけた小さな男の子が、
小さなピアノの前にすわって背中をピンと伸ばし懸命にピアノの練習をしている。
その側にまったく同じいでたちで、
随分大きな体をしたお父さんらしい人が立っていて、
ピアノに左手を軽く置きもう一方の手を懐に入れ、
目をつむって静かにその演奏を聞いている。
彼らはほんの少し前に、この森のあの丘で再会したらしい。
ピアノの音色が森中に響きわたる。

別の一角では、
愛する人々が、夫妻が、恋人同士が、それぞれ再会を果し、喜びのダンスが。

天上の森の昼時、

たくさんの陽気な中間たちもあの丘で再会を果して、

あの大工の仲間もいる、

あの彫金師や、建具職人や、靴職人、ガラス職人、焼物師、 料理人、設計師、機械工、鍛冶屋、 金具屋、仕立て屋、床屋、洗濯屋、肉屋、魚屋、八百屋、 パン屋、花屋、電気屋、事務員、販売員、タイピスト、プログラマー、学生、先生、科学者、哲学者、 医者、音楽家、美術家、文学者、役者、芸人、スポーツ選手、ウエイトレス、皿洗い、農民、漁民、狩人、等々、

その他たくさんの仲間が輪になって踊りだし、

たくさんの食べ物と、たくさんの飲み物と、たくさんの音楽と、たくさんの笑い声とで、

天上の集いの楽しい昼餉のはじまりだ。

食卓では、

いたるところで会話の花が咲き、
いろいろな思いが語られているが、

実はこの森には、テーブルが一つしかなく、小さくもあり大きくもある丸いテーブルに 全員が輪になって席に着き話をしている。

あるところではこんな会話が聞こえてくる。

”ヘーゲルさん。嘆かわしいことですな、子孫の悪餓鬼どもが、あんなことをしでかして。 私は口を酸っぱくして、小さな頭で考えることは高が知れているし、 限度というものがあるのに、限度を超えてとんでもない下劣で野蛮で幼稚な理想をまじめに掲げて、 世界に甚大な迷惑をかけ、私たちが世界に果してきた多くの貢献も台無しにしてしまった。 ”今、ここ”、で、こうしてその尻拭いを 私たちがしているわけですが、未だにその汚い尻を突き出すアホどもがいる。”
”まったく、嘆かわしいかぎりです、カントさん。私も生命の精神の歴史を普遍精神の目的論的進化論として 子供たちに教えてきたのに、最善に理解しなかったり、愚劣に解釈したりして、とんでもない愚行を しでかしてしまって、なんとも世界に対して、ただただ申し訳ないと、その尻拭いに奔走しています。”
”あっしは、昔は先生方の話を聞いてもチンプンカンプンでしたが、”今、ここ”、で聞いてみますとよく分かります。 まったくこんな小さな頭で馬鹿息子どもがとんでもない妄想に取り付かれ、とんでもないことをしでかし てしまって、地道に人様からいい仕事と言われるような恥ずかしくない仕事をしながら、 弟子たちにもそう言って聞かせてきた左官屋の頭領として、 この馬鹿息子どもの尻拭いは情けない限りでさあ。 確かに、人間には思い上がりというものがあって、ある国なり民族なりの優れた文化で 自分が築き上げたものでないのに、その外化した自分を小さな自分の隠れみのとして自分のものとして着飾って、 それがこうじて選ばれた優等民族の優等民族だけの神の国の実現だなどと、 自分の先祖や父や母や兄弟の名を汚し、その父や母を兄弟を、そして実は自分自身のその身体を殺戮し、 世界に残虐な悪魔の汚名を残した放蕩息子たちに熱いお灸をすえたうえで、 私たちはその謝罪と償いとに奔走しているというのに、またぞろその汚い尻を突出して、 みっともない姿を世界に晒している、情けない限りでさあ。”
”そうそう、私も神の理想を音楽に託して、たくさんの人々に天上の音楽をと頑張ってきましたが、 あんまり有頂天にさせたので、かえって能天気な輩が出てきて、人間としての分別を見失わせて、 おぞましい破壊の地獄を作らせてしまったような、、、。”
”いやいや、バッハさん。いわゆる文化と称される音楽とか絵画、文芸といった芸術は、 科学と同じようにそれを道具として使う人間によって、 破壊者の”破壊”の道具に使われたり、創造者の”創造”の道具に使われたりしますから、 もしそれが破壊者の”破壊”に利用されても、 無念さはあってもその責任はそれを利用するもののそれ以上ではないはずです。 ただ、破壊者に利用され騙されないためにも 特に芸術は、あの香しい香水と同じように、破壊の悪の臭みを消し去る隠れみのとして使われやすいので、 それを人々に訴えて、破壊を未然に防ぐ努力を怠ってはならないということが重要だと思います。 きれいな服を着て、豪華な邸宅に住んでいても、 それをまとい住んでいる者(或は思想、哲学、教義、考え、意図)が善とは限らない、 詐欺師や悪党は外見を美しく着飾ざり、或いは訳有りのパフォーマンスをしながら、 いい香りを振りまくものだと。”
”どうも、デカルトさんにそう言っていただけると、創作意欲もわいてきますし、息子達の尻拭いにも 力がはいり、何よりも子供たちを破壊の魔の手から救う励みにもなります。 ところでデカルトさんの二元論は、ご自身、”今、ここ”、ではどのように解釈されますか。”
””今、ここ”、で私の考え(二元論)を解釈しますと、 簡単に言って、闇に浮かんだ二つの認識対象がさらに明るい光の智恵に さらされて、実はひとつの実体に対するその智恵の光の 解釈の差異によるもので、この点で、その智恵の光を生み出す生命の一元に帰着します。 そして、その一元の生命とは、一元であることから、時間的にも空間的にも、 永遠であり無限でなければならず、 その一元の生命の実態は、”今、ここ”、の”私”以外には存在しないものです。”
”すると、法則との関わりは。”
”法則は”絶対者”ですから、何も無いところから、他によって、或いは自らによって作られたり作ったり、 或いは破壊されたり破壊したりするものではない、常に有り、変化しないもので、それは、永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、 を貫いている因果律です。 したがって、永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律に 則って律して(運動して)いる”私”が 一元の生命の実態、ということになります。”
”よく分かります。ところで、ヘーゲルさんのご意見は。”
”私も、”今、ここ”、で思うことは、私の”世界精神”は、”絶対の創造主である神”になぞらえるわけですが、 やはり、精神と物質、自と他、世界と私、神と自然といった二元論の 極めて経験的なドグマを含む解釈(観念)がその土台にあり、そのために私の体系の 基礎概念である”絶対精神”がその矛盾に、もろくも崩れ、その上に築き上げられた体系も 木っ端微塵というところですが、 幸い、”今、ここ”、から眺めてみますと、その矛盾も”空”の解釈から否定的に再構築することができます。 すなわち、”絶対精神”を従来の”絶対の精神(或は精神の理念)”と解釈しますと、 絶対と、相対(精神は常に相対的である。 何故なら精神は生命の属性だから)の(である)精神(或は精神の理念)、 との矛盾から私の体系は崩壊しますが、 ”一体としての、絶対者と相対の(である)精神(或は精神の理念)”、 と解釈しなおしますと私の体系はさらに発展的に生きてきます。 これが新たに 解釈された弁証法的進化論となりますが、このままですとあまりにも浅薄ですので、 ここで”空”の概念を取り入れます。 ”絶対者”(絶対の法則)も”相対の精神”も本来”空”なるあるものを解釈してはじめて 認識されるもので、 ”絶対者”(絶対の法則)が存在していても、”相対の精神”が解釈しなければ”無”ということになり、 解釈されない”無”の状態、つまり”空”において、それは、一つでも、多くでも、絶対でも、相対でも、 白でも、黒でもない、としか言いようのないものですので、”空”なる”絶対精神”は ”相対の精神”の解釈によって、便宜上(解釈とは生命がその目的の便宜のためにおこなうもの)、 ”絶対の法則”と”相対の精神”とに分けられ、”絶対の法則”を”絶対者”と名づけ、 ”相対の精神”を”世界精神”と名づけますと、 便宜上分けられた”世界精神”は、便宜上分けられた”絶対者”と一体となって運動する”一つ”のもの、 ということになります。 すなわち、この”世界精神”こそ、永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている因果律に 則って律して(運動して)いる”私”という一元の生命の精神、ということになり、 これで私の矛盾の上に築かれた体系は、その一元の生命の”私”の体系として止揚され、 発展的に生きてくるわけです。”
”よく分かりました。この喜びをどう表現してよいか。この豊かで実りある会話に感謝して、
私は、この円卓に、この曲を捧げます。”

(2000.1.30-.3.16)

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