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天国

”天国”にいざなうものに、さらに、 人殺しをしても”天国”へ行けると”天国”にいざなうものに、 仮に彼の”天国”なるものが存在するものとして、その”天国”とはどういうところかを聞いてみよう。


”天国は神の住むすばらしいところだ”、と言うだけでは実感がわかないので、その”すばらしさ”の具体的な 在りようを聞いてみて、”夢がかなうところ”、と言うなら、その”天国”とはその夢がかなう一瞬の”天国”であり、 ”夢がかない続けるところ”、或は、”快楽や幸福が永遠に続くところ”、と言うなら、 それはまるでビフテキを食い続けるような、ダイヤモンドの雨が降り続くようなもので、 空腹であるからビフテキは御馳走なのであり、希少であるからダイヤモンドは高価なのであり、 満腹のそれもビフテキばかりの満腹で、さらにビフテキを食らうことは”地獄”ではないのか、 たくさんの物質のそれもダイヤモンドばかりの世界でさらにダイヤモンドの雨が降り続くことは ”地獄”ではないのか。今空腹だからうまそうなビフテキの”天国”を夢見るのであり、 今貧乏だから高価なダイヤモンドの ”天国”を夢見るのであり、苦の無い楽、不幸の無い幸福は、蔭のない光、悪のない善と同じで、 その言葉すら存在しない。また、”苦も楽もないところ”、と言うなら、それは行為しない生命の物質の状態、 或は、行為する生命にとっては感じる身体の無い”空”の状態で、 生命が夢も見ない(解釈しない)眠っている状態だから解釈する生命の目的にはなりえない(生命の目的が 物質、或は”空”であるとするならば、生命はいつまでも物質のまま、”空”のままでい続けるだろう)。


今空腹のものにビフテキの”天国”を夢見させ、今貧乏なものにダイヤモンドの”天国”を夢見させ、 現実の破壊を強いる”アヘン”の売人を信じるな。神の名で借金をし、神の思し召し(意志)と称して その借金を踏み倒し、さらに返済を迫ると”神の敵”として神の名のもとに他者を破壊してしまう、 この己の欲望の道具に神を使い、神に責任をなすりつけ他者の生命を破壊する悪党よりも悪党な偽善者の 卑怯者の”アヘン”の売人を信じるな。 禅や瞑想で、解釈する”私”を否定し解釈しない物質、 或は解釈しない”空”の状態を悟りの境涯(生命の目的、天国)であるかのように説いて現実の解釈の世界から逃避させ、 解釈しない境涯(空、死)へ、畜生の境涯から微生物の境涯、そしてついには物質の境涯(空、死)へと、 虚無への 虜となさしめ現実の破壊を強いる”アヘン”の売人を信じるな。 現実の破壊は”天国”の破壊であり破壊された”天国”は ”地獄”であり、創造の神にとって破壊は悪であり、生命の神にとっての敵は生命の破壊者であり、 神の名において破壊するものはその神の名を汚(けが)し、その神を裏切り、 その神を破壊するものだ。


また、”聖地”と称するものも、真の”聖地”とは、 聖なる振る舞いをしている(創造)”今、ここ”の”私”の立っている場所にほかならないから、これ以外の 宇宙のどんな”聖地”と称する場所も すべて方便でしかなく、したがって、もし、この方便の”聖地”に執着し、頑迷にその方便に生きるものが いるならば、真の”聖地”を知っているものはその方便に生きるものにその方便の”聖地”を与えてやろう。 その人はすでに遥か高みの真の”聖地”に住んでいるし、 また、互いに与えあう人々もすでに互いに遥か高みの真の”聖地”に住んでいる。


地球も月も太陽も銀河も アンドロメダも、”私”の指先の皮膚の細胞もそのミトコンドリアもその分子も その原子もその素粒子も、 無限大の無限の存在として、無限小の無限の存在として、まったく同等の無限の存在であり、 ”今、ここ”の”私”の存在にとって無くてはならない 無限の環境の身体であり、”今、ここ”の”私”の無限の 宇宙が、”今、ここ”の”私”の身体の全体であるから、”天国”も”地獄”も”聖地”も、無限に存在し続ける ”今、ここ”の”私”(精神)の身体(世界)以外には存在しない。


すでに無(何も存在しないことと定義されている)はそれ自身の定義によって存在しないことが 証明されているから、無の”私”もまた存在 しないし、”私”は無にならないから無限の存在であり、無限の存在であるから無限の”私”は 無限の”あなた”(他者)の”私”である。


その”私”がその”あなた”(他者)の”私”を破壊する愚かさに気づくには”私”たちは あまりにも方便の世界に 住みついている。 ”お金”も方便、”名誉”も方便、”権力”も方便、”弱肉強食”も方便、 ””私”と”あなた”(他者)の”私”との差異”も方便、”生と死との繰り返し”も 方便、等。 生命は巧みにこれら方便を使いながら生命の目的地に向う。その生命の目的地とは”自由”であり、 ”最高の生命の自由の境涯”であり、 真の”天国”とはまさにこの”今、ここ”の”私”の最高の生命の自由の境涯に住むことであり、 これ以外の”天国”はすべて方便だ。 永遠の”私”が現れれば方便の”お金”、 方便の”名誉”、方便の”権力”、等、 が何になろう。 すでにナポレオンであった”私”がさらにナポレオンの”私”でありたいというのか。 すでに アインシュタインであった”私”がさらにアインシュタインの”私”でありたいというのか。 すでにヒトラーであった”私”がさらにヒトラーの”私”でありたいというのか。 ”今、ここ”の”私”は”今、ここ”の振る舞いによる境涯に住む”私”であり、 ”今、ここ”の”私”は”今、ここ”の振る舞いによってその最高の生命の自由の境涯に住む”今、ここ”の”私”でありたいと望むべきだ。 ”お金”の方便に生きるものには”お金”が方便であることがわからない。 ”名誉”の方便に生きるものには”名誉”が方便であることがわからない。 ”権力”の方便に生きるものには”権力”が方便であることがわからない。 ”自と他の対立”の方便に生きるものには”自と他の差異”が方便であることがわからない。 方便は方便としての理由があるから方便としてあり、方便が方便であるとわかっているものには その方便を方便として最善に使うことができるが、方便に生きるものにはその方便が 方便であることがわからないからそれができずにその方便を目的にして悪(破壊)をなす。


破壊に生きるものは破壊に死んで破壊の”天国”(地獄)に行く。 それでもその方便に執着し方便に生きる方便のものに対しては、 方便への方便として最善に振る舞うべきだ。


”天国”も”地獄”も”聖地”も、無限に存在し続ける ”今、ここ”の”私”(精神)の身体(世界)以外には存在しない。


(2000.1.16)

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