宗教

”宗教”にはそれぞれに多くの分派がある。 最善の解釈から最悪の解釈まで人間ひとりひとりに対応した数だけの分派があるといっても いいくらいだ。生命は自分に都合よく解釈しながら世界をつくっているので当然 その生命の中の高度な解釈の数だけ”宗教”が存在することになる。 しかしどれもが最善に解釈しているわけではなく、 中には最悪を最善と解釈して自他ともに破壊していく生命もある。最善の解釈というものが 確かに存在するものであるならば それぞれの”宗教”の最善の解釈を辿っていけばついには個々の”宗教”の意義が明らかになり枠が取払われ ”宗教”の最高の域が見出され生命の最善の目的つまり生命の真の目的に辿り着く。 その時それぞれの”宗教”の最善でない解釈が その生命の真の目的の手段であることがわかってくる。


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”宗教”と聞くとまだまだ遠い世界の話とか、現実生活と関係ない 特別な世界のように思っている人がたくさんいる。また”宗教”戦争や金儲けのインチキ”宗教”、 催眠術や薬を使って大量殺人、自殺をする狂った”宗教”を見せつけられると”宗教”という言葉自体が 忌むべき響きをもってくる。確かに狂った破壊の”宗教”は忌むべき存在であり断固糾弾して いかなければいけないし、間違っているものは間違っている、正しいものは正しいと言い切っていくのが 真の”宗教”の自由であり言論の自由である。”宗教”の正邪浅深を明らかにし狂った”宗教”による破壊から 生命を守り、その破壊の宗教を助長させるような浅薄な宗教を指摘するのも”宗教”の自由、言論の 自由の目的であり、毒を薬だと言い含められて飲んでいる人に それは毒だと言ってやるのも、さらに薬を毒だといって善を封じ込め悪の蔓延に手をかすやからに 対してその善悪をはっきりさせるのも”宗教”の自由、言論の自由の目的である。毒だと気がつかずに多くの人が その”宗教”(魔女狩りだとか、反ユダヤ、優性民族思想、神国選民主義、階級差別主義、極左、極右、 テロリズム、邪教のいけにえ、インチキ催眠術や薬による洗脳、迷信、虚無思想、無批判、無責任、 無知による善に対する悪口雑言等々、 生命の破壊を正当化し、或は結果的にそれを擁護することになる思想のすべて)を 信じたためにどれだけの悲惨な生命の破壊が繰り返されたか、歴史や現在の世界の現状を 少しでも勉強すれば明らかだ。 無宗教も無宗教という”宗教”だし、唯物論も唯心論も、マルクス教もニーチェ教もトランプ占い、星占い、 霊魂から拝金主義、科学万能主義まで人間が”信”という高度な”智恵”で生活する生き物であるかぎり、 その行為の すべてが”宗教”に基づいているということに気がつかないと”宗教”に対する無知のために 最善を破壊し最悪が最善の顔をしてついには原爆だろうが ホロコーストだろうが生命の大破壊が正当化され実行されてしまう。


人間の生活がどれだけ”宗教”の影響の中にあるか、 ちなみに自分の家の 先祖代々の”宗教”或はその分派を調べ、その”宗教”或はその分派の特徴が 自分の性格日常の振る舞い等にどう関係しているかを 検証してみればいい。生命は厳格に必然性をもってその生命と深い縁のある環境(を作って)に 生まれてくるもので、 その”宗教”或はその分派を現在信じていようがいまいが自分の性格や 日常の振る舞い、傾向性等がその”宗教”或はその分派の性格に驚くほど似ているのに気付くはずだ。


また、迷信や金儲けのインチキ”宗教”、破壊を信望する邪教 セクト教団等を除いた数ある”宗教”の中で、世界に優れた多くの人材を送り出し高度な文化を 生み出している”宗教”の 本当のすばらしさ(最善)をよくよく検証してみる必要がある。その”宗教”の最善に解釈された思想は 驚くほど他の”宗教”の最善に解釈された思想と似てることに気付くはずだ。例えば、 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、これらはもともと同じ神から派生した宗教だから当然といえば当然で、 その最善の解釈は、神は一つであり、創造神であり、絶対神である。その神が絶対神であるならば その神とは真理(法則)であり、絶対神としての人格神は方便だということになる。 一方、インドのヒンズー教、ジャイナ教、仏教等も同じ土壌から生まれ、その最善の解釈はやはり 最高の神は創造神であり、絶対神の真理(法則)であり、他の人格化された神々はその絶対神(法則)の 影のようなものであり方便であるということになる。もちろん、それぞれの宗教には 違う解釈の分派がたくさんあり それぞれが最善の 解釈を主張するだろうけれども、よくよく最善とは何かを検証すればそれぞれの最善の神というのは 絶対神、すなわち真理(法則)であることが明らかになってくる。


そこまで垣根が取り払われればあとは おのずとその最善の真理(法則)とは何かということになる。真剣に最善を求める理性であるならば、 その真理(法則)が仏教に見出されることがわかるはずで、その時、たがいの神をもちだし破壊しあい、 傷付け合っていることがいかに愚かなことかがわかってくる。人間は高度な理性である”疑い”を持ち ”信”を持って”選択”しながら世界を創造する生命なのだからせいぜい”疑い”をもって危険な”宗教”や 分派を明らかにし、”信”を持って最善を選び検証していくことだ。”宗教”の真の姿が明らかになれば”民族”も”国家”も ”文化”もその垣根は必然的に取り払われ、それらの不当な差別も取り払われ、生命に対する尊敬と侮蔑は 厳粛にその生命の行為によって決まり、生命への利他のための創造がより優位となり、 生命への利自のための破壊がより劣位となる。尊敬されるのは生命への利他のための創造の生命であり、 侮蔑されるのは生命への利自のための破壊の生命ということになる。その中でも必然的に最高の善をなし得る 人間に対する創造はより尊敬されるべきものとなり、その人間に対する破壊はより侮蔑されるべきものとなる。


もうすでにうんざりするほど繰り返されてきた ”宗教”の無知による生命の大破壊。人類はすでに原爆というのっぴきならない破壊の武器を 手に入れてしまった以上、 よほど”宗教”の現実に対して慎重に考え正さないと、アッというまに世界はすべて物質に 還元されてしまいかねない。そうしようとする狂った理性がそのボタンに手をかける前に最善の理性は真摯に その”宗教”の最善に解釈された思想に着目すべきだ。


最善の思想が見出されれば、 どの”宗教”であっても、 たとえ個人的な”宗教”であっても、それは最善の”宗教”であり、最善の宗教であれば それは最高に普遍的(宇宙的)宗教である。


人類の繁栄と破壊との未来は まったくこの最善の選択の如何にかかっている。


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