悟り

有名な仏教書の”ミリンダ王の問い”の冒頭にでてくる問答の 中で”私”という実体は 存在しないというのがあるが、これは小乗教、或はそれ以前のインド教の一部に説かれる”析空観”を現わしている。 すなわち、”私”の心や肉体(物質)をいくら分析しても”私”の在処(ありか)などはないというものだ(無我)。 確かに”私”の心を刹那に分析しても現われるのは 生命の属性の断片だけだし”私”の身体を極限まで分解してもそこに 現われるのは組織(縁)された物質だけで、とくに精神の座とされる脳を分析しても”私”の実体(実態)は出てこない。 出てくるのはせいぜい脳の一部の刺激によって記憶が消えたり(”私”という記憶が消えたり) 現われたり、色や音を感じたり、幻想を見たり、怒ったり、泣いたり、不愉快になったり、快楽を感じたり、等、 生命の個々の属性が現われたり消えたりするだけだ。瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等 で”悟り”といわれるものの ほとんどは この手合いで事前に本や教科書や先輩や師匠などから吹き込まれた段階的な”悟り”と称するイメージを 幻想として 見て、”私”も悟ったと錯覚し それをまた後輩に吹き込むということを繰り返して広まってゆく。特にこれらで得られる快感は脳に対する 無理で不自然な刺激よるので薬や催眠の中毒と同じように 慢性化し(癖になり)、特定の音楽を聴いたり特定の匂いや視覚やしぐさ等で容易にはまり込んでしまうし、 その快感を求めて再びはまり込みたくなってしまう(常習化する)。 極端になるとヨガ等の経典に出てくる空中遊泳とか物体の素通りだとか透明になるとかのいわゆる 荒唐無稽な”通力”を本当に信じこむようになり極度のトランス状態 (脳の痙攣)にまでなって、飛び跳ねたり手足をバタバタさせて、はたから見ると異常だが当人にとっては 快感となっている。 この快感は極度の運動(祭りやスポーツ等)などで得られるもの(いわゆる”真っ白になる”) と何ら変らないものだが、 極度のトランス状態のもとでは脳に対する 無理な作用、不自然な刺激による ものなので薬物と同様、後遺症、 精神的副作用(人格、精神異常、意識障害等)などを伴う。


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トランス状態での幻想には光を見たとか音を聞いたとか霊魂を 見たとか死人が乗り移ったとか神を見たとか輝く仏陀(実体の明かされていない法身如来)と 一体になったとか様々だが、仏教は本来、 こういう 呪術を含む神秘主義的、オカルト的なものに対する依存を原始仏教から”正統”の大乗仏教に至るまで強く否定し、 インドや中国、日本での仏教の堕落、衰退は実にこの呪術、 神秘主義等(インド教、インド哲学、ヨガ等の一部に見られる呪術的な思想)の取り込み(密教化)の著しい偏重に依る。 ちなみに仏教で説く”境智冥合”(これは極一般の法則) に則れば、現実の”境”に対する”境智冥合”は 現実の世界像となり、空想、幻想の”境”に対する”境智冥合”は空想、幻想の世界像となる。すなわち、 現実にある花を見て美しいと感じ、実際の思想、真理を信じて体現し、これこれの具体的な法則によって これこれの現象が生じる。つまり実体(実態)のある真理(法則)から実体(実態)のあるもの(現実)が生じ、 実体(実態)のない真理(法則)からは実体(実態)のないもの(空想、幻想) しか生じないということだ。


そして、さらに悪いことには、これらの方便教はその思想に 固執してしまうあまりに、正しい見方、正しい道(正法)から 多くの人々の目をそらし塞いでしまう。”正法”では、仏界に至る条件である”生命の浄化”、 ”罪障生滅”は、煩悩を最善に生かしながらの利他の創造(利他行)でしか実現出来ないとされているので、 必然的に 利他行に重きを置くことになるが、方便教では瞑想、荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等によって ”生命の浄化”、”罪障生滅”が実現出来るとしているので、利他行には重きが置かれず上記の自行に専念するようになる。 まともに考えれば罪業(例えば、何十人何百人殺した罪)が瞑想や荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等で 生滅するなど考えられないが、 もしそれが出来るとしたなら何人殺そうがどんなに悪いことをしようが”チョチョイ”と瞑想すればたちどころに その罪が消えて(消えたと思い込んで)さっぱりと平常心でいられるという、とんでもない話になり、とんでもない方向に 進んでしまうことにもなる。正しい見方、正しい道(正法)から 多くの人々の目をそらし塞いでしまう行為 (謗法)が厳しく戒められるのも、それらが容易にエゴイズム、生命軽視(蔑視)、生命の大破壊等に つながりかねないからだ。瞑想、荒行、座禅、護摩、加持祈祷、他力、等の真理、修行法が 方便教だということは、例えば、阿弥陀経(他力が説かれる)で法蔵比丘(阿弥陀仏)が立てた 第十八番目の誓願には 五逆罪の極悪人と”正法”を誹謗するものは成仏できないと説かれるが、 これは阿弥陀経を説く”現実の仏陀”が 阿弥陀経を”正法”としてではなく”方便”の経と認識して説いていたことを示しており、それは 経の内容からも証明される。また大日経(護摩、加持祈祷、呪術等が説かれる、密教)、 華厳経(円教の部分観、歴劫修行等が説かれる)は”正法”に導くための方便として説かれるから その”正法”の”理”と”智”とのすばらしさだけを 説けばよいことになり、その”理”(法身如来)(大日如来)と”智”(報身如来)(盧舎那仏)との実体(実態)は 明かされない(”正法”である法華経で説かれているから説く必要はない)。これら方便教は、 実体(実態)のない”真理”(法則)や実体(実態)のない ”智恵”を”本尊”とするから、実体(実態)のない空想や幻想を伴う呪術や魔教と結びつきやすく、 仏教を堕落させ、呪い、生け贄、性的放縦(ヨガやタントラの一部の思想等)等のおどろおどろしい、 仏教とは程遠い宗教になってしまったりする。ちなみに密教の真言”阿吽”(あうん)( a ha u ma)と ヨガの真言”オーム”( a u ma)とは同類であり、 真言密教がヨガ等の思想、呪術を取り入れた最も密教化された仏教だということがわかる。


また、維摩経で維摩居士が”黙”して空理を示したというところを 禅宗は”不立文字”の思想の正当化によく使うが、考えてみれば維摩居士の”黙”はそれまでの維摩居士を 含む維摩経のなかでの饒舌の上での”黙”であるから、”悟り”(真理)は”黙”に有りはしない。 するとすかさず、ある御人は、”悟り”(真理)は体現にしか現われないと言う。しかし体現にしか現われない ものは”悟り”(真理)そのものではなく、”悟り”(真理)を体得した”境涯”であり(境智冥合により)、”悟り”(真理) そのものはあくまで 言葉によらなければならない。するとさらに、例の御人が、”真の悟り”(目的)は境涯の体現だと私も承知していると 切り返すなら、まさにその通りで、それならば境涯の体現に必要(境智冥合により)な体得した”真理”を 明示してもらい、 さらに”上述”、”既述”のように、”真の悟り”(目的)が体現にあるならば 最高の境涯での体現でなければならないはずで 坐禅などしていられまいと言い返せばいい。 まさに実体(実態)のない”悟り”(真理)など 存在しない。上の御人のようにまともに喋るのはまだいいほうで、大概の偉い禅宗の坊さん 或は名のある宗の高僧や教祖様にそのお”悟り”(真理)とやらを聞いてみるといい、必ず”黙”り込むか 禅問答になるか訳のわからない単語羅列の迷論法になる(例えば、”悟りそのものが空なのじゃ”、とすると ”悟りそのものが空なのじゃ”という”悟り”も空なのじゃ、 とすると・・・?・・・やっぱり”黙”しかない・・・)。”悟り”(真理)にも小悟から大悟、 幼稚な思い込みから壮大な真理と称するものまでいろいろあるが、 その”悟り”(真理)が最高であるならば”最高の定義”(最善)から その”悟り”(真理)(境)には”最善”の真理(境)と”最善”の応用 (実行)(智)とが 含まれていなければならない。つまり、どういう訳で”真の悟り”(目的)が”最高の境涯”の体現に あるのか(真理)(境)、 そしてその”最高の境涯”を体現する方法はどういうものなのか(応用)(智)が示されなければならない。 したがって”悟った”と言って何も語らず何もしない者は何も ”悟っていない”か、何も悟れないことを”悟った”か、”悟り”の二つの意味 (真理としての”悟り”と目的としての”悟り”)を 一つのものだと錯覚しているかであり (”悟り”が”真理を会得すること”を意味する 場合は”悟り”とはその行為の状態、境涯、目的のことであり、 会得した”真理”を意味する場合は”悟り”とは”真理”(法則)のことである)、 訳のわからないことを”悟り”(真理)としてしゃべり、 訳のわからない行動をするものは、その”悟り”(真理)なるものが訳のわからぬ”インチキ”だということだ。 外見や権威や思わせぶりの単語羅列に騙されてはいけない。


これらは仏教に限らず全ての思想、宗教に通じている。 誤解や錯覚や”まやかし”等で思想の善悪、正邪、高低浅深が正しく認識評価されず、 悪が善の顔をしてのさばり、善が悪のレッテルを貼られ虐げられたまま、それと知らずに 精神の”毒”が流し続けられ、社会、文化、生活が根本的におかしくなってやしないか、根本的な治療は 根本的なものの見直し、問い直しからはじめよう。


(1998.7.31)

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