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国家

”私”とその身体との関係を高度の境涯で理解できれば、 ”私”の内と外との身体の全体が”私”にとってかけがいのない世界であり、 当にその世界はその世界のすべての文化を保有する国家としての”私”の国土に他ならない。 その”私”の境涯が”仏”であるならばその世界は”仏国土”ということになり、 アメーバであるならばその世界は”餓鬼国土”ということになる。 その国土の時空間の広がりやその他の性質は解釈する”私”の境涯によって異なるとともに、 ”私”とその”私”の境涯とは不可分の関係で”私”は”私”の境涯の世界(国土)にしか住むことが出来ない ことから、どんなに社会の体制が変わろうとも、お金持ちになろうとも、貧乏人になろうとも、 他者の生命の破壊を少しも意に介さないような我欲に支配される”私”がその共有の”私”の国土に 多く存在すればするほどその国土は”餓鬼国土”であり、他者に対する破壊の自他ともの苦痛のうめき声か 絶えない国土となる。つまり真に平和な国土とは”私”たちひとりひとりの生命の境涯がどれだけ高く、 どれだけ多くの”私”たちがその境涯に住むことができるかによって決まるもので、 その実現はそれを実現できる思想なり、 哲学なり、考え方なりを”私”たちひとりひとりがどれだけ多く持つことが出来るかにかかっている。


一民族の優位を唱え他民族を排斥し、 民族浄化などという忌まわしいことばを使い実行してしまう貧しい精神性は、 低い卑しい小さな境涯の”私”を、我欲のために 少しでも高く尊い大きな”私”に見せかけようとする狂った理性の現われで、 狂っているから何が卑しく何が高貴かもわからず、他者を見下し、黄金に輝いて見える糞尿で身を飾り 他者の生命を平気で破壊し少しも意に介さないその姿は、人間の顔をしながら 畜生以下の振る舞い(畜生の振る舞いではなく、畜生以下の振る舞いである。 何故なら彼らは人間として生まれ人間としての試練を受けなければならない人間という存在なのだから) をして恥じない、当の畜生よりも遥かに卑しい姿であることがわからない。 彼らはその卑小な自分たちの替わりに尊大な黄金に輝く神や民族や国家を持ち出し民衆を欺き青年を騙し、 欲望の道具としながら我欲のための他者の生命の破壊を神の名(神の責任)、 民族の名(民族の責任)、国の名(国の責任)においてなし、 自他ともの破滅の道を転がり落ちる。


自分を美しい薫り高いラベンダーの花に見立て、 広大な大地をそのラベンダーだけで埋め尽くそうとするのが彼らの理想ということになるが、 そのようなお花畑に本当は 人間である”私”たちがどれほど長くいられるというのか。そしてそれはちょうど、触れたものすべてを 黄金にしてしまうあのギリシャ神話の悲劇のように生命全体を破壊してしまう。 地球という大地の上にたくさんの生命の営みがあるように、 大地が象徴する動かない法則のもとでそのたくさんの生命の循環の繰り返しがあってこそ、 かくも美しく地球は輝くのであって、地表を埋め尽くした美しいラベンダーの地球などはその香りとともに、 お部屋のインテリアとしてふさわしい。


為政者たるものの選択は生命の救済が最優先であり、 生命を破壊に導く選択は為政者としては最低下劣で その責任が問われる。今、10人助けようとしている人間と、今、10人殺そうとしている 人間とが同じ価値であるはずがなく、今、10人助けようとしている人間を殺す罪と、今、10人殺そうとしている 人間を殺す罪とが同じはずがない。小さい国家の主(あるじ)という以前に大きな国家(世界)の 主(あるじ)でありながら、 その小さな国家の国境線のために多くの生命の”私”が破壊されることに鈍感な為政者がすでに 為政者であることは”私”たちの国家(世界)にとって極めて不幸なことだ。


その為政者を生み出す土壌は その為政者を生み出す民衆の土壌でもあり、破壊の為政者を生み出す土壌はやはり破壊の思想なり 考え方がその国家、国土に蔓延しているからで、マスコミや偽文化人や狂信者や 他の多くの傍観者らによって 少数の覚醒者の声がもみ消され、民衆がその破壊の 為政者のための破壊の民衆と化すれば、そこに現れてくる物事のすべては破壊の方向へと、 破壊がその破壊の為政者らに吸い寄せられるように国家は破滅に向う。


破壊の為政者は必ず”うそ”や”デマ”は政治につきものだと して”うそ”や”デマ”で塗り固められたあの破壊の国家(スターリン国家或いは スターリン国家モドキ)をつくり出し、 ”うそ”や”デマ”で民衆を狂信化し、 その狂信化した民衆を使って行き着くところまで行き着くと自他ともに破壊つくすというのが、 これが今も繰り返されている大破壊(戦争、ホロコースト、ジェノサイド)の シナリオで、”うそ”や”デマ”を政治的手段に使う為政者や政党やマスコミの国家の行く末はウソ寒い限りだ。 事後(大破壊後)、その張本人の為政者らが裁かれたとしても殺された多くの人々の生命は 帰ってはこないし、関係するさらに多くの人々の嘆き悲しみは癒されるはずもない。 このようなすでに先がよめわかっているシナリオを何故またあえて繰り返そうとするのか。


劣等感は優越感の裏返しであることから、 小心で臆病なそれでいて自尊心の強い人間が得てして権力の座につき それが健全に昇華できればりっぱな創造の指導者になるけれども、 そうでない場合は破壊の独裁者或いは破壊の独裁者モドキになる。 どちらにしても 彼らの生い立ちからその 大将(最高責任者)が戦いの先頭に立って闘うというようなことはまずなく、大概は頑丈な要塞に 立てこもり多くの部下に守られ自分は誰よりも安全なところにいて 実際の戦場の痛みを感じないところで指揮をとる。戦闘好きの最高責任者は 必ず自分が安全に守られていることが前提としてあり、 自分が先頭に立って戦うなどとは夢にも考えていない(逆に、戦闘好きの最高責任者が率先して 先頭に立って戦ってくれればどれだけ多くの生命が助かることか)。


ある国の憲法が改正され、 その憲法には戦争を国家最高責任者の最優先責任事項として 戦争の際には必ずその国の最高責任者が最前線の先頭に立って戦わなければならないことが明記される ことになった。 そのために最高責任者の補充は十分に用意され、いつでも 弾丸に倒れた最高責任者にかわる何人もの副最高責任者が任命され、 そうなってはじめて有事の瀬戸際での 最高責任者の最高責任者らしい 最高の選択ができ、大概は事前の交渉の話し合いで片が付き(もちろん相手国も同じ憲法をもっている)、 武力行使を強行する”大胆”な選択は 皆無になったという。すると今までの最高責任者たちの選択は一体なんだったのかよくよく検討されたそうだ。


”私”とは”今、ここ”にその身体(世界)とともに 永遠に変化しながら存在し続ける生命であり、その一瞬一瞬の行為の繰り返しの延長線上に 死があり生があり生死の繰り返しがあり、死はその前の生の行為の清算とそのあとの生の行為の準備であり、 ”私”と”私”の身体(世界)とがどの境涯に住むかはその行為の質と量とによって決まってしまう。 一瞬一瞬、我欲のための生命の破壊の境涯に住み続ける”私”の身体(世界)は、 一瞬一瞬、”餓鬼国土”であり、 一生”餓鬼国土”であり、無限に”餓鬼国土”であって、 その無限の一瞬を縦割ってみればそれはまさしくアメーバである。


生命であり人間である”私”は誰しも特殊な事情がない限り 痛い思いを して死にたくはないし、愛する人に対してもそう思いながら、 愛の届かない他者に対しては思いのほか残酷になれる。また、 一匹の野良犬が一人の人間に殺されるのを”私”が 目撃したとする。 大概の”私”はその一匹の野良犬を可哀相に思い、殺したその人間を憎む。しかし”私”はそれを目撃する以前に その犬を愛してもいず、その人間を憎んでもいなかった。”私”はその現場を目撃してはじめて その犬を可哀相に思い、その人間を憎んだ。つまり、”私”はその犬を可哀相に思う以前に、 その人間を憎む以前に、生命を破壊するものに対しては憎しみとなり、生命を破壊されるものに対しては 哀れみとなるある心を持っていたことになる。その心を大きな意味での”慈悲”(大慈悲、大愛)と名付け、 その”慈悲”があるからこそ生命を破壊するものに対しては憎しみを、怒りを、 生命を破壊されるものに対しては 哀れみを、悲しみを持つことが出来、生命を創造し助けるものに対しては愛を慈しみを持つことが出来る。


ところがこの”慈悲”も生命の他の属性と同じく 境涯に依って現れたり隠れたり 大きくなったり小さくなったりして、同じような状況にみえても”私”の境涯によって、 ”慈悲”の程度によって、”私”の捉え方も違ってくる。例えば、前の例で、その現場で目撃する以前に ”私”はその犬に吠えられたり噛まれたりしてその犬を憎んでいたとする。この状態(境涯)では 憎しみや怒りでその犬に対する”慈悲”は小さく隠れ、その憎しみや怒りの程度により、 事後その犬に対してもそれほど 可哀相とは思えなかったり、”ざまあみろ”、となったり、その人間に対しても憎しみをそんなに感じなかったり、 ”よくやった”、ということにもなったりする。また、”私”の生来の気質や、その時の”虫の居所”等の 他の条件によっても、 ある状況(境涯)では天使だったり、 ある状況(境涯)では悪魔だったりする。要はその時の”私”の境涯が高いか低いか、 大きなことでも”慈悲”が小さくなったり隠れたりしない、こんこんと湧き出る”泉”のような 大きな境涯であるか、逆に、 小さなことでも”慈悲”が 小さくなったり隠れてしまうような小さな境涯であるかによって天国(創造)にも地獄(破壊)にもなる。


このような複雑で精緻でそれでいて生命の営みの上で 極めて重要な生命の法則を無視し或いは蔑ろにしてその上にどのような法律による規制、政策、 体制、国家等を築き上げても歴史が示すように 一部の或いは大多数の狂った理性(低い小さな境涯)によっていとも簡単に大破壊(戦争、ホロコースト、 ジェノサイド)が引き起こされ、 地獄、餓鬼、畜生、修羅等の国土が出現される。それを防ぐには、この生命の法則を高度に理解し、 認識し、そこから生み出される高度な”智恵”によって ”私”たち一人一人がそれぞれに”私”たちの境涯をより高く、より大きくしていく以外に方法はない。


まさに、この一瞬一瞬、変化する境涯を持つ”私”たちの集合体が ”私”たちの身体であり世界であり国家であり国土であり、 その中のまさにカレントとしての”私”が間違いなく その身体、世界、国家、国土の主(あるじ)であり、その身体、世界、国家、国土は そのカレントとしての”私”のその境涯によって決まってしまう。


そのカレントの”私”の一人一人が”それぞれの”私”の 世界(国家)の 主(あるじ)としての自覚と責任とを持って、共有のこの世界(国家)の運営にあたるならば、 そしてまた生命の法則の最高最善の理解と智恵とによって、 そのそれぞれの”私”たちが最高最善の境涯に住むことが出来ているならば、 その世界(国家)こそがあの”神の国”にほかならない。 なぜならそれは最高最善に解釈された真理(神)のもとに、最高最善の愛(大愛)を持って 意志する生命(神)たちの運営する世界(国家)なのだから。


”神の国”とは、無限に存在し続ける ”今、ここ”の最高最善の”私”(たち)の身体(世界)にほかならない。


(1999.3.31)

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