記憶

(2010.9.17 06:00 ごろ、からの記憶を、記録していく。(主に紙にメモしたものを参照)03)

11.16 15:40 ごろ記す。


本因は、”今、ここ”。

”今、ここ”、の、”因”(妙法蓮華経)。



釈尊、天台、日蓮、は、それぞれの、”その時点”、で、”今、ここ”、の、その因(妙法蓮華経)を見つけ、それぞれに、その在世と未来のために、それを釈した。

記憶の所在。



記憶は、脳の局所にある。

その脳も、その局所も、その選択も、記憶。

記憶は、記憶にある。

生死、”一つ”、の、空(悟りの中)において、


その、”一つ”、のものに、すべての記憶が納まっている。

その、”一つ”、のものとは、摂理、法則、の、”妙法蓮華経”。

つまり、摂理、法則、の、”妙法蓮華経”、の、”因”、として納まっている。

その、”果”、の、すべての記憶を生み出す媒体としての、”縁”、は、”私”、の、一念。

その一念の実体(果)は、そのあらわれである、”今、ここ”、の、記憶の世界。

つまり、”今、ここ”、の、記憶の世界こそ、その記憶の所在地。



”今、ここ”、の、生死、”一つ”(妙法蓮華経)、の、空(悟りの中)の、”私”、の、一念が、その実体(果)の実体としての、記憶の所在地。


”一つ”(妙法蓮華経)は、法身。
”私”、は、応身。
一念、は、報身。

その三身即一身の私の、その、


一念(の記憶)に、すべて(の記憶)が納まっている。

11.19 12:10 ごろ記す。



法則の世界に、法則は、もともとあるように、

記憶の世界に、記憶は、もともとある。


そのように、もともとあるものを、本有(ほんぬ)という。

すべての記憶の所在地。


三身即一身の私の一念の、

本有常住(ほんぬじょうじゅ)、本有無作(ほんぬむさ)の、



”南無妙法蓮華経”。

11.21 05:50 ごろ記す。



その、”縁”、で、本有(ほんぬ)の記憶を思い出す。

その、”縁”、とは、”南無妙法蓮華経”。

その、”縁”、とは、最高善の私が、その悟りの記憶を、そのそれぞれの普遍の私に適した形で現した、そのそれぞれの、”対境”。

その、”対境”、の選択が、その目的、”真の自由”、への、最短のパスポート。

11.21 15:30 ごろ記す。



どんなに、素粒子の微細な世界の緻密な仕組みを、そのものとして語ろうとも、

どんなに、大宇宙の極大な世界の遠大な仕組みを、そのものとして語ろうとも、


無限には、かなわない。

無限に小さく仕切れ、無限に大きく広がる、その記憶の世界には、かなわない。

小さくもなく、大きくもない、

近くでもなく、遠くでもない、

速くもなく、遅くもない、


”今、ここ”、の、空(くう)の、”私”、の、一念の、



記憶の世界には、及ばない。

11.22 08:30 ごろ記す。



意思する絶対の神も、資本主義も、唯物論も、実在するものそのものの確からしさの上に成り立っている。

その確からしさの、不確からしさ(妄想)。

さらにそのうえで、それを利用する官僚主義。


過去も未来も、その官僚主義が、大破壊の要因。

11.22 22:15 ごろ記す。



”今、ここ”、の、私の他者の記憶は、すべて、過去の私の記憶。その記憶(妄想)の私が、その他者の同じ記憶(妄想)の私に対して、偉く思われたい、天才と思われたい、英雄と思われたい、選ばれし人と思われたい、その他者の同じ記憶(妄想)の私の歴史にその名を残したい、と、必死になっているその姿、その、こっけいさ、あわれさ。まるで、鏡の前で、そこに映る自分の他者に対して、金ぴかの服を着、たくさんの勲章をぶらさげ、金ぴかの王冠をかぶり、どうだ、偉いだろう、天才だろう、英雄だろう、選ばれし人だろう、これでお前の歴史にその名を残せる、と、悦に入っておどけている何も知らない愚かなもの。

それが記憶(妄想)であることも、それが鏡であることも、そこに映る他者が自分であることも、鏡の前で悦に入っているその愚人も、そこに映っているその愚人の他者も、その歴史も、同じ記憶(妄想)の同じ愚人の、同じ記憶(妄想)の同じ歴史、であることも、何も知らない。


それは、私そのものの一念の強さ、巧みさ、したたかさ。

そこに映っているのは、その盲目の愚人の盲目の妄想。

その盲人が、盲人を導く。

盲人が、その盲人の妄想の黄金の見姿を、褒(ほ)め称える。

その盲人の官僚主義が、多くの盲人を、その妄想で操(あやつ)る。

記憶の歴史の、最高善の、記憶の、”私”、の、誰が、その妄想の、金ぴかの服を着、たくさんの勲章を身につけ、金ぴかの王冠をかぶり、鏡の前でおどけている、というのか。その師も、その弟子も、迫害こそあれ、みすぼらしいその姿に、勲章、光ものなど、一つもない。


その師を見よ。その人を見よ。

11.24 21:00 ごろ記す。


”その時点”、は、それぞれの普遍の私に、そのそれぞれの普遍の私の環境に合った種類と程度で、はじめ示され、徐々に螺旋状(らせんじょう)に繰り返しながら、その環境は、上昇する。

盗人(ぬすっと)には、盗人(ぬすっと)の言葉で、兵士には、兵士の言葉で、実業家には、実業家の言葉で、科学者には、科学者の言葉で、芸術家には、芸術家の言葉で、利他の人には、利他の人の言葉で、つまり、十界のそれぞれの普遍の私には、そのそれぞれの言葉で、その時々のその環境に合った種類と程度で、はじめ示され、徐々に螺旋状(らせんじょう)に繰り返しながら、その環境は、上昇する。

”その時点”、では、その人の縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が圧縮され、より重要な問い、疑問、その答え、その環境、のみが、抽出、拡大され、関連ずけられ、展開され、徐々に螺旋状(らせんじょう)に繰り返しながら、その環境は、上昇する。

たとえば、人殺しの私の、”その時点”、では、その私にとってもっとも重要な環境である、その人殺しの瞬間の記憶が、はじめ示され、その人殺しの私の苦や痛みとともに、その最も縁のあるその殺された側の同じ私の苦や痛みをも、同時に味わう。

さらに、その私とその私の他者と、その人殺しの瞬間と、その縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が、抽出、拡大、展開され、その縁で電車に飛び込む私や、その縁でビルから飛び降りる私や、その縁で死刑になる私や、その縁で戦場で撃たれる私や、その縁で戦場で爆死する私や、その縁で拷問を受ける私など、など、の、その縁ある縁のすべての記憶が、その苦痛の記憶とともに、抽出、拡大され再現される。

さらに、その人殺しが大規模、あるいはそれに匹敵する最悪(大破壊の要因)は、その縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が、拡大、展開されるから、そのすべての苦痛の記憶は、無限の繰り返しとなり、これを、”無間地獄”、という。その死の相は、物質。

その最悪も、遅かれ早かれ、その目的(真の自由)には達する。

しかも、”その時点”、の、終わりには、その苦痛の記憶は、すべて忘れる。

けれど、その苦痛は、無限(に近い)。

11.24 21:00 ごろ記す。


たとえば、利他の人の私の、”その時点”、では、その私にとってもっとも重要な環境である、その利他の人の瞬間(救済)の記憶が、はじめ示され、その利他の人の私の楽しみや喜びとともに、その最も縁のあるその利他の人の私に縁し恩恵を受けた側の同じ私の楽しみや喜びをも、同時に味わう。

さらに、その私とその私の他者と、その利他の人の瞬間(救済)と、その縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が、抽出、拡大、展開され、その縁で助かる私や、その縁で喜ぶ私や、その縁で楽しむ私などの、その縁ある縁のすべての記憶が、その喜楽の記憶とともに、抽出、拡大され再現される。

さらに、その利他の人の瞬間(救済)の大なる私は、その縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が、拡大、展開されるから、そのすべての救済による喜楽の記憶は、無限の繰り返しとなり、その死の相は、善そのもの。


謗法(ほうぼう)とは、私そのものの本有の記憶によってすでに選択されている真の目的とその過程の正義の記憶を、捻(ね)じ曲げ、隠し、目を逸(そら)らさせ、その正義の道を塞ぐこと。


それは、私そのものの最高善に対する最悪と、その私そのものの本有の記憶によってすでに選択されている。

その謗法(ほうぼう)の最大の擁護者は、それを利用する、”官僚主義”。

お金、地位、名声、名誉、を、保ち続けたい、歴史に残したい、という、その身内の保身のために、
あるいは、勲章の金箔を使い、あるいは、有名人の名を借(か)り、
あるいは、奇跡を装(よそお)い、あるいは、大きな建物を見せ、
その正義の記憶を、捻(ね)じ曲げ、隠し、目を逸(そら)らさせ、その正義の道を塞ぎ、
その謗法(ほうぼう)を擁護し、利用する、”官僚主義”。


それが、

大本営発表!
大本営からの、”打ち出し”!
”神の声”!
と、

過去も未来も、その大破壊のボタンを押す。



目を覚ませ、ファウスト達。

お金、地位、名声、名誉、も、私も、そのものも、それ自体も、その歴史も、過去も未来も、そのボタンも、記憶。

聖職者は、神(仏)により近い者ではなく、より遠い者。

聖職者は、選ばれし人ではなく、贖罪(しょくざい)の人。

聖職者の戒律は、修行のためではなく、過去の罪のその贖罪(しょくざい)のため。

”その時点”、で、本因を悟った私は、その高みでしか知り得ない悟りを衆生に知らしめるために、”その時点”、で体験した、”はじめは、衆生に合わせ、徐々に高みへ”、という方法を用いて衆生を導き、最後に本因の正義を説く。その衆生に合わせた方便の教えに執着し、その本因の正義の道を塞ぐことを、”謗法”(ほうぼう)、という。

聖職者は、第一義的に、贖罪(しょくざい)の人であり、

さらに、その方便の教えに執着し、

さらに、お金、地位、名声、名誉、のために、それを利用する。

それは、3重の重い罪であり、

さらに、本因の正義を利用する罪は、さらに重罪であり、

さらに、たくさんの無垢の衆生に、それを教え、盲目にし、大破壊のボタンを押させる、その罪たるや。

だから、”最悪”、と、すでに選択されている。

目を覚ませ、ファウスト達。

11.30 04:50 ごろ記す。



”その時点”、は、この記憶の世界のすべての記憶の集まりであり、

それは過去と未来の記憶のすべてであり、

”今、ここ”、で、その普遍の私が、見ている、聞いている、触れている、感じている、知っている、選択している、すべての記憶であり、

罪と、罰と、その苦とは、この記憶の世界で、すでに選択されている記憶であり、

”その時点”、では、そのすべての記憶の中で、その普遍の私にとってもっとも関係のある記憶のみが抽出、拡大され、

その破壊の苦は、”その時点”、では、それに縁するすべてのその苦の記憶を、繰り返し味わう。

修羅の身の丈(たけ)、五百由旬(ゆじゅん)。


その修羅も、帝釈に責められ、無熱池(むねっち)の蓮(はちす)の中で、小さくなる。

つまり、怒りは、善悪ともにあり、破壊や苦を超える、大きなものだが、


不正義な怒りは、正義の怒りに責められると、その平穏な正義の池の蓮(はちす)の中で、小さくなる。

不正義は、正義に勝てない、と、すでに選択されている。

12.01 06:30 ごろ記す。


組織は、普遍の私ひとりではできない複雑で大きなことができる一方、その一員としての私は、組織に埋没し、周りが見えなくなり、また、言うとおりにしていれば、それなりに楽だから、より不自由であり、より危険であることが、わからなくなるし、わかろうともしなくなる。それは、目が見えるのに目隠しされ、与えられる情報とその介助のみで行動する盲人の姿そのものであり、その情報とその介助次第でどうにでもなる組織は、官僚主義にはうってつけで、危険でもあり、それが、ましてや、宗教、ましてや、国家規模となると、近くの例だけでなく、過去も未来も、”大本営、発表”、となる。

その破壊を防ぐには、まず、より自由な普遍の私が、より不自由なその私の目隠しをはずしてやること。


より良い情報を、より良い形で、その私に与えてやること。

目隠しのはずれた私は、まず、”声”、を、出すこと。

自分の思い、考えを、”声”、に、出し、他者に伝えることで、その、”声”、に、責任を持つこと。

すると、周りがよく見えるようになり、今まで与えられていたものが、その責任上、”おかしい”、と、思えたら

その思いも、”声”、に、出し、他者に伝えること。


かくして、自立した私、という、”宝塔”、が、出現する。

組織に、その、”宝塔”、が、乱立するようになれば、その組織に、官僚主義の入る余地はなくなる。

国家に、その、”宝塔”、が、乱立するようになれば、その国家に、官僚主義の入る余地はなくなる。

世界に、その、”宝塔”、が、乱立するようになれば、国家は、無意味、国境はなくなる。

かくして、自立した世界市民による、世界自治がはじまる。

その世界に、多くの人々が殺される戦争など、ありはしない。

12.01 19:15 ごろ記す。



官僚主義の別名を、悪、という。

私の己身の官僚主義、と、私の組織の官僚主義。

悪とは、

より自由な人(ひと)としての私が、

他者の肉を貪(むさぼ)り食らい、怒り、争い、騙(だま)し、人(ひと)として以下の、より不自由な境涯にその身を置くこと。

私の組織の悪(官僚主義)は、人としての私の己身の悪(官僚主義)に、働きかけ、誘い、火をつけ、その私の組織の悪(官僚主義)に引きずり込む。

その私の組織の悪(官僚主義)の要因を、小さい方から、悪党とも、悪魔とも、第六天の魔王、ともいう。

国家が、その悪(官僚主義)の要因に支配される危険。

その国家だけでなく、それを利用する(縁する)、周りの、組織、国家も、必ず、その悪(官僚主義)の、その果としての餌食となる。


それが悪の悪たる要因だから。

つまり、それを利用するな! といこと。

12.03 05:30 ごろ記す。


”その時点”、で、苦痛よりも苦痛なのが、その、”恐れ”。苦痛の記憶の予感による、”恐れ”。関連する記憶の流れの中にその破壊の苦痛の記憶が予感され、その、”恐怖”、は、その破壊が大であればあるほど大であり、その破壊が多であればあるほど、その繰り返し。

悪は、死を恐れよ。

12.04 05:30 ごろ記す。



人として、の、人とは、”今、ここ”、の、私の境涯であり、”今、ここ”、の、私の十界の、中心、基準、基底、主(ぬし)、主(しゅ)、であり、善悪の分別(理性)と、愛と、知性と、感性と、に、たけている、私。


その人間性の主(ぬし)は、善悪の分別(理性)。

愛は、善悪に盲目、知性と感性とは、善悪と愛との、下僕(しもべ)。

その主(ぬし)も、しばしば、盲目(情念(愛、憎しみ、怒り、欲望))によって、駆逐(くちく)される。


それが盲目であるがゆえに。

12.05 05:20 ごろ記す。


その理性の主(ぬし)は、実践理性。

つまり、”利他”。

それは、善悪の分別と、愛(情念)と、知性と、感性と、を、その目的とその過程とのために使い、導く、実践理性。

その最高の優位、決定権の最上位を、仏とも、(相対の)神とも、その、”声”、とも、言う。

12.06 06:10 ごろ記す。



その神は、その教えの基底に、愛を説き、利他(救済)、をすすめていませんか。

その神は、その教えの基底に、知を説き、利他(救済)、をすすめていませんか。




もし、その神が、破壊をすすめているとしたら、

その神は、盲目の情念(憎しみ、怒り、欲望)の悪(官僚主義)によって駆逐(くちく)された、真の神のかわりに、その盲目の情念(憎しみ、怒り、欲望)の悪(官僚主義)によって作られた、偽りの神です。


それは、真の神の教えに、あとから、その盲目の情念(憎しみ、怒り、欲望)の悪(官僚主義)によって付け加えられた、偽りの神の教えです。

その盲目の情念(憎しみ、怒り、欲望)の悪(官僚主義)によって付け加えられた、偽りの神の教えを、駆逐(くちく)しましょう。

主(しゅ)(実践理性)も、しばしば、その盲目(情念(憎しみ、怒り、欲望))によって、駆逐(くちく)される。


それが盲目であるがゆえに。

その主(しゅ)(実践理性)とは、意志する私の(相対の)神であることを、忘れずに。

12.07 05:35 ごろ記す。



その神は、お金を集めていませんか。


その神は、勲章や光りものを買いあさり、たくさんの有名人の隣に写って、りっぱな建物を見せながら、

たいそうりっぱな形振(なりふ)りで、そのお金を集めていませんか。


その神は、その形振(なりふ)りとその食い潰(つぶ)しのために、そのお金を集めていませんか。

もし、その神が、お金を集めているとしたら、


その神は、盲目の情念(欲望)の悪(官僚主義)によって作られた、偽りの神です。

その偽りの神と、その形振(なりふ)りとその食い潰(つぶ)しと、を、駆逐(くちく)しましょう。

12.08 06:50 ごろ記す。


選択とは、他を選べること。他とは、より自由な選択か、より不自由な選択か。より自由な選択とは、よりたくさんの記憶の縁を選択できる選択。つまりより創造の選択。より不自由な選択とは、よりたくさんの記憶の縁を選択できない選択。つまりより破壊の選択。創造はより自由な選択だから善、破壊はより不自由な選択だから悪、と、本有の記憶ですでに選択されている。より善の選択は、より他を選べるより創造の選択。より悪の選択は、より他を選べないより破壊の選択。

その神は、他を選べない破壊の選択を、強(し)いていませんか。

その神は、より悪の選択を、強(し)いていませんか。

12.09 06:30 ごろ記す。


私は彼を信じています。
(どうして?)
誠実だから。
(実際は誠実でなかったら?)
心根は誠実だと信じています。
(心根も誠実でなかったら?)
心根なんか誰もわからない。
(わからないのに信じているの?)
もしそうだとしても、彼は必ず立ち直る。



愛は盲目、信は合理を求める。

信じられるから、愛せる。

その愛ゆえに、その信は、盲目的に合理を求める。

自分への愛、家族への愛、友への愛、師への愛、神への愛。

不合理こそ、盲目の愛の敵。


すると、
不合理だから神を信じる、と。

すると、
その不合理から、その神を愛せない、と。



その神を殺したのは、その不合理。

12.09 15:45 ごろ記す。



愛は盲目ゆえに、善悪ともに愛し、善悪ともに愛され、

ゆえに善悪は、ともにその愛を利用し、特に、悪は、恩愛、友愛、愛社、同士愛、愛国心、民族愛、神愛、と、その愛を利用する。


善は、創造、利他、のために、

究極は、創造する生命の私にとってのその真の目的とその過程とのために、

悪は、破壊、利己、のために、

究極は、創造する生命の私にとってのその偽(いつわ)りの目的とその過程とのために、


善は、救済し、創造し、

悪は、その身のために、その身の家族のために、その身の組織のために、その身の国家のために、その身の民族のために、その身の神のために、
その他の者を、その他の家族を、その他の組織を、その他の国家を、その他の民族を、その他の神を、
破壊する。



その善は、上昇し、

その悪は、下降し、



その善は、その真の究極の目的、仏界(心の最高位)へ、と、至る

その悪は、その偽(いつわ)りの究極の目的、地獄界(心の冥伏(みょうふく)の位)へ、と、至る。

その仏界(心の最高位)は、創造する生命の私にとって、平穏そのもの。


その地獄界(心の冥伏(みょうふく)の位)は、創造する生命の私にとって、苦そのもの。

そう、本有の記憶に、すでに選択されている。

12.11 06:30 ごろ記す。


すべて本有の記憶だから、条件が整えば、その選択の記憶で、いつでも、その本有の記憶が現れる。LSIも、テレビも、コンピュータも、核兵器も、新種のウイルスも、奇妙奇天烈な深海の生物も、その進化も、病気も、痛みも、苦しみも、喜びも、生(の相)も、死(の相)も、創造も、破壊も、善も、悪も、他者も、私も、”今、ここ”、の、本有の記憶の世界に現れるすべての記憶が、その本有の記憶のプログラム(因)の通りに、その本有の記憶を選択すれば(縁)、その通りに現れる(果)。

たとえば、テレビのスイッチを入れる。テレビの世界が現れる。そのテレビの世界を、”今、ここ”、の、記憶の世界に置き換える。その選択で、その記憶の世界が動き出す。

その悪(官僚主義)を選択すれば、その悪(破壊)の記憶の世界が動き出す。

12.13 05:50 ごろ記す。


偉い人に直談判することや、公の場でうまいこと喋ることなどは、みんながみんな出来ることではない。能力はあるけれども、それが冥伏されていて発揮できない。ちょうど、物質に意思する能力の因はあるけれども冥伏されているから、その機能が育たないのと同じ。みんながみんな出来ることは、”声”、を出すこと。自分の思い、意見を、身近な人にでも、小さな声でも、伝えること。あの人がいなくなれば話すとか、環境が変われば話すとか、は、いつまでたっても、あの人だし、その環境。あの人がいるからこそ、”今、ここ”、で話す、その環境だからこそ、”今、ここ”、で変える。それが出来なければ、同じあの人、同じその環境が、いつまでも付いて回る。それは、死も同じ。環境を変えようと思って死んでも、その環境で変えなかったために、”その時点”、で、また同じ環境に引き戻され、同じことを繰り返し、同じ思いをし、やがて、残った仕事をその環境でしなければならないことに気づく。つまり、往生際(おうじょうぎわ)がわるい。

”声”、を出して、”今、ここ”、で、その環境(世界)を変えよう!

12.17 04:02 ごろ記す。


要領よく、立ち振る舞う人。門の周りでうろうろして、地獄にも行けず、天国にも行けず、ただ、法にふれないように、見つからないように、周りを気にしながら、へつらいとお世辞にたけ、陰で悪いことをしても見つからなければ安心といったような、さらに、法を支えにしているから、悪法までつくって、よっぼどなら地獄にいけるけれど、よっぽどにならない程度に要領よく、だから天国にも行けず、ただひたすら門の周りでうろうろして、その繰り返しで、そんな人が、政治家や役人に多い。

夜明けだ。

朝もやに、

露、滴り落ちて、


緑きドナウ。

12.20 05:30 ごろ記す。


”その時点”、で、最終的には、究極まで行ってしまう。究極とは、私そのもののそのもの。私がどんどん削ぎ落とされ、その世界もどんどん削ぎ落とされ、削ぎ落とされるとは、すべての関連が、私も世界も、”一つ”、に、向かい、”なんだ、そうだったんだ”、で終わる。あとは、苦も楽も、忘れて、ただ、破壊の悪の、その破壊の苦とその破壊の恐怖とは、より長く、最悪のそれは、より無限に長く、創造の善の楽は、より短く、最善のそれは、一瞬の歓喜の光となって、やがて、それも忘れて、平穏の光につつまれる。

悪は、死を恐れよ。

12.24 05:00 ごろ記す。


名誉は、官僚主義的。個人、家族、地域、組織、国家、民族、宗教、と、競争で発展を促す反面、その官僚主義的性格から、官僚主義に悪しく利用され、その名誉の名で、多くの他者を傷つけ破壊してきた。名誉の相手は人間。名誉を理解できる同類の私のみ。つまり、どんぐりの背比べ。こっちが大きい、あっちが偉いと、どっちもどっちの目糞鼻糞(正邪、真偽のことではない)。これを持ち出す偉い人がいたら気をつけよう。目糞鼻糞の喧嘩で、うまい汁(名声、名誉、お金)を吸いたい官僚主義。名は体を表す。その名を冠したその人は、何も知らないのに智者と呼ばれ、何も知らない大勢の他人のそれぞれの英雄像を蛍日のように映し出し、その人生一生を指導する。何も知らないその人は、大きな大学の講演で、そのうしろめたさから、”何も知らない私が何を話せるんだ”、と、そのあわれな道化の光を放っていた。その盲目の道化を、盲目の善人が褒(ほ)め、盲目の悪人が利用する。

12.27 06:00 ごろ記す。


ことほど左様に、したたかで巧妙な私そのものの、こうありたいという一念は、多種多様な私を生み、その目的は最高善の自由とし、その過程も彩り豊かで華やかに、その善には悪が必要と、その悪も同じ私に演じさせ、涙と笑いと苦と喜びと、より小さい素粒子以下からより大きな宇宙の果てまで、これでもかと演じ見せ、その全体全部が、大きくもなく小さくもない、丸でもなく四角でもない、赤でもなく緑でもない、過去でもなく未来でもない、あるでもなく、ないでもない、たった、”一つ”、の、生命の、私、で、あることを、ないことを、忘れさせようと。

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12.29 11:50 ごろ記す。


私そのものの謀(たばか)り、もうひとつ。楽しい夢を見て、目が覚めて夢だったかとがっかりする。苦しい夢を見て、目が覚めて夢だったかと安心する。しかし、これも、私そのもののしたたかさ。夢も現実と称するこの記憶の世界も同じようなもの。なのに、そのふたつの違いを強調し、夢と現実とは違うんだと思わしめ、この世界が夢と同じような記憶の世界であることから目をそらせようとする。がっかりすることも安心することもない、せいぜい、よかった悪かったと、善に対しては、その創造の楽と喜びとの励みとし、悪に対しては、その破壊の苦と恐怖との反省としながら、その審判のとき、”その時点”、の、ほんのささやかな模擬(ためし)とでも思って見たらいい。

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12.30 06:10 と、2011.01.02 11:50 ごろ記す。


名は体を表す。官。官主導。官が民を導く。官が裁き、民が従う。官はお上(かみ)、民は下々(しもじも)。その官は膨大な借金で膨大な官を養う。痩せた下々(しもじも)の血肉を削り、肥え太ったお上(かみ)の官を養う。膨大な記憶を貪り食らう私。膨大な記憶に執着しその膨大な記憶の海の記憶を消化しながら尽きることのないその膨大な記憶を食い続ける私。ご馳走の記憶をうまい記憶と消化する。叩かれる記憶を痛い記憶と消化する。景色の記憶を美しい記憶と消化する。眼、耳、鼻、舌、身、意、のそれぞれの記憶を、色、声、香、味、触、法、のそれぞれの記憶と消化する。もう少しスマートにきれいに記憶を食し消化する私がもっとより多くなれば、この私の記憶の世界ももっとよりスマートできれいに消化される。

01.03 17:20 ごろ記す。


植物は破壊されようとするとその香を放ち、破壊するものの心をやわらげようとする。木の根を掘り上げようとすると、その香の必死さが伝わる。その道理がわかるものに対して、破壊は悪と、本有の記憶によって選択されている。日本の礼は、不軽に由来する。法華経有縁の地。謗法厳戒。

01.04 10:55 ごろ記す。


鬼神の喩え。たとえ鬼神といえども、その道を教えるものには、師のごとくせよ、と。その道に通ずるものしか、その道はわからない。その道がその道であるかどうかはその道の真の求道者にしかわからない。その道の真の求道者の謗法厳戒。

01.06 06:05 ごろ記す。


その人が何も知らないということは、その道を知っているものしかわからない。その道がその道であるかどうかはその道の真の求道者にしかわからない。その道の真の求道者の謗法厳戒。

01.06 07:40 ごろ記す。


真の求道者でない者とは、偽(にせ)の求道者。偽善者。盲目の悪(官僚主義)の求道者。善をよそおい、求道者をよそおい、その道に通じている者をよそおい、その道でないものをその道と教え、そのお金で肥え太り、己(おのれ)の名声、名誉、お金、のために、その道を利用し、その道を破壊する(汚し、傷つけ、見えなくする)。その真に、下劣で、卑賤で、汚い、私も、”その時点”、で、削ぎ落とされる。謗法厳戒。

01.08 17:50 ごろ記す。


削ぎ落とされるとは、たとえば、善が削ぎ落とされる。その善は真に善なるか。その利はその善によるものなるか。その善はその利のための善なるか。そのどちらも削ぎ落とされる。その食はその善によるものなるか。その善はその食のための善なるか。そのどちらも削ぎ落とされる。その地位はその善によるものなるか。その善はその地位のための善なるか。そのどちらも削ぎ落とされる。その名誉はその善によるものなるか。その善はその名誉のための善なるか。そのどちらも削ぎ落とされる。

01.11 19:20 ごろ記す。


削ぎ落とされるとは、たとえば、私が削ぎ落とされる。そこでは、お金も、肩書きも、名誉も、政治も、権力も、まったく何の意味もなく何の役にも立たない。ただ真っ裸のひとりっきりの私がいる。何を思い何をしてきたか、その過程を、”その時点”、が、創造と破壊の苦楽をもって、容赦なく削ぎ落とす。

それを恐れ、経文末尾に三代会長(四代、五代はどうなんだ)の安泰を祈念する文言をわざわざ付け加え、何百万という信者全員に祈念させ、安心を得ようとする、馬鹿がいる。

01.17 07:00 ごろ記す。


削ぎ落とされるとは、たとえば、空が削ぎ落とされる。まず、有無の世界が削ぎ落とされ空(くう)が開き、その空(くう)のすべての解釈が、生死、”ひとつ”、の空(悟りの中)に、削ぎ落とされる。つまり、”その時点”、で、その空(悟りの中)を体験した私のその空(くう)の解釈と、その解釈をさらに解釈する、その体験をしていない私(無明の私)の解釈と、その解釈をまたさらに解釈する無明の私の解釈の、そのすべての空(くう)の解釈が、生死、”ひとつ”、の空(悟りの中)の解釈に、摂(せっ)せられる。

つまり、それは、記憶。

有無も空も物質も心も私も世界も宇宙も歴史も、・・・、すべて記憶。色即是空も九識も十界も一念三千も三諦も三身も如来も、・・・、すべて記憶。すべて、本有(ほんぬ)であり、本有(ほんぬ)の記憶の一側面を解釈(選択)した記憶。本有(ほんぬ)の記憶の本有(ほんぬ)の因の記憶を、本因という。


その記憶を、本有(ほんぬ)の私は、”妙法蓮華経”、と、名づけた。

たとえば、
有とは、本有(ほんぬ)の記憶の出現相。無とは、本有(ほんぬ)の記憶の冥伏相。空(くう)とは、知によって本有(ほんぬ)の記憶の冥伏相の無と分別(解釈)された本有(ほんぬ)の記憶とその世界。物質とは、本有(ほんぬ)の記憶の出現相の本有(ほんぬ)の物質相(物理相)(これまで知られている物質相(物理相)からこれから知られるであろう物質相(物理相)、知られない物質相(物理相)、の相のすべて)の記憶。心とは、本有(ほんぬ)の記憶の出現相の本有(ほんぬ)の精神相(心理相)(これまで知られている精神相(心理相)からこれから知られるであろう精神相(心理相)、知られない精神相(心理相)、の相のすべて)の記憶。私とは、本有(ほんぬ)の記憶を選択し、本有(ほんぬ)の私の一念の記憶の世界を出現させるための体と知と意志を持つ本有(ほんぬ)の私という、記憶。

01.22 06:30 ごろ記す。


削ぎ落とされるとは、たとえば、”今、ここ”、が、削ぎ落とされる。”今、ここ”、の、私の一念の元初の選択は、”妙法蓮華経”。つまり、”南無妙法蓮華経”。その一念にすべての因縁が含まれ、その、”今、ここ”、の、元初の選択(縁)で、本有の記憶の果の世界が開かれる。 有るものが、有る。存在するものが、存在する。生命に無駄はない。記憶に無駄はない。たとえば、ランダムに図形を描く。どんなに斬新な図形も、それはすでに選択されている図形。こう引けばこういう線が引ける。目の前のリンゴを見る。どんなにかわったリンゴも、それはすでに選択されているリンゴ。そのリンゴをそう見れば、そのリンゴがそう見える。遠い宇宙の星の世界を思い描く。どんなに奇妙なその記憶の世界も、それはすでに選択されている記憶の世界。その記憶の世界をそう思えばその記憶の世界がそう描かれる。ある条件である現象が現れる。ある記憶の選択で、ある記憶が開かれる。その、”ある記憶の選択で、ある記憶が開かれる”、という因があり、その通りに、ある記憶の縁の選択で、ある記憶の果が開かれる。或いは、ある記憶の因の選択(縁)で、ある記憶の果が開かれる。有るものが、有り、存在するものが、存在し、記憶に無駄はないから、”今、ここ”、で、無駄のない生命の私の一念は、その、”一つ”、の、選択のみ。その選択で、その一念のすべての因縁が開かれ、”今、ここ”、の、その一念の記憶の世界が現れる。

コンピュータの記憶の世界は、0,1 の選択のみ。”ある記憶の選択で、ある記憶が開かれる”、という因があり、その通りに、ある記憶の縁の選択で、ある記憶の果が開かれる。或いは、ある記憶の因の選択(縁)で、ある記憶の果が開かれる。コンピュータのシステムは、直感により、この生命の記憶のシステムを応用したもの。

01.29 15:30 ごろ記す。


記憶の定義。記憶とは、まず、それを、認識する、解釈する、選択する、生命の私が存在しなければならないもの(本有)であり、その私によってすでに選択(認識、解釈)されているもの(本有の因(本有の縁、本有の果)の本有の法則)であり、あるきっかけで、ある条件で、ある選択で(縁)、その選択(認識、解釈)されたものが、現れる、存在する、開かれる、もの(果)であり、現れる、存在する、開かれる、ことのないとき(冥伏)でも、そのように条件が整えば(縁)いつでも、現れ、存在し、開かれるもの(因)。

すべては本有(ほんぬ)のもの。本有(ほんぬ)の記憶。本有(ほんぬ)の私。本有(ほんぬ)の選択。

普遍の私は、”今、ここ”(ゼロ点、便宜的に同時点)、の、その同時の本因の本有の私の一念の因縁により、その普遍の私の、眼、耳、鼻、舌、身、意、等、で、その条件で、その選択で、 本有の私の本有の選択による本有の記憶を開いて、”今、ここ”(ゼロ点、便宜的に同時点)、の、その普遍の私の記憶の世界を出現させている。その条件も、その選択も、その因縁も、記憶であり、本有のもの。

推理とは、真相、真実(真に本当のこと)を探ること、つまり、その果の因縁を探ること。真相とは、真に相として本当のことだから、私の解釈に納まる因縁、つまり、”見えるもの”。真実(真に本当のこと)とは、たとえ真に本当だといっても、それはどこまでもその私の解釈の域を出ない本当のことだから、真に本当のことは、その私の解釈を超えた因縁、つまり、”見えないもの”。その因縁は、蓋然性、確率でしか、その確からしさを求められないもの。

その果に対して確からしさの低い因縁を、あえて、その果の確かな因縁とすることを、”こじつけ”、という。その、”こじつけ”、の因縁話の類(たぐい)は、多くは、お金や名声や名誉のためのもの。騙(だま)されないためには、その因縁の緻密な検証が必要。

02.02 07:10 ごろ記す。



削ぎ落とされるとは、たとえば、私そのものが削ぎ落とされる。私そのものとは、すべてが私という私。その私は、私と他者の私との区別がなくなる私。真の無私とは、無でもない空でもないその私。その生命もすべてが生命という生命。生命と他との区別がなくなる生命。それは、私そのもののそのもの。その、私そのもののそのものを、本有(ほんぬ)の、”一念”、という。またそれは、生命の属性としての一念ということばを嫌い、一如とも真如ともいう。如如一如の一念。この本有(ほんぬ)の、”一念”、を、理の三諦では、中の私といい、知(空)の三諦では、仮(け)の私という。その本有(ほんぬ)の、”一念”、が、”今、ここ”(ゼロ点、便宜的に同時点)で、本因により、本有(ほんぬ)の果のすべての因縁の記憶と、その選択(知の働き)による本有(ほんぬ)の記憶と、その記憶の世界と、を開き、三身即一身となる。


その如如一如の一念を、”南無妙法蓮華経”、と、名づけた。

今、ここ、で、私が他者の私と区別がつかなくなるころ、私はただの一念。

その一念のこうありたいという意志は、法則通りに、こうありたいというたくさんの記憶で世界を包み、

同時に同じこうありたいという思いの、その記憶の選択で、その記憶の世界を開き、

その一念の眼は、その一念の思いの記憶を見、

その一念の耳は、その一念の思いの記憶を聞き、

その一念の鼻は、その一念の思いの記憶を嗅ぎ、

その一念の舌は、その一念の思いの記憶を味わい、

その一念の身は、その一念の思いの記憶を身(からだ)で選び、

その一念の意は、その一念の思いの記憶を意(こころ)で選び、

その一念の、内の身体(肉体)とその一念の外の身体(外界)の、私、という記憶の世界の衣を着る。

その一念は、今、ここ、で、たとえ宇宙の果てに行こうとも、一歩も歩(あゆ)まず、一時(いっとき)も経ていない。

その一念は、ただ、今、ここ、の、一点(如)にずっといて、その私の記憶のボタンを押すだけ。





その如如一如の一念を、”南無妙法蓮華経”、と、名づけた。



02.05 18:50 ごろ記す。



それでも地球は丸いし、自らも回り、太陽の周りを回っている。

しかし、当時の学者は、満面の笑みを浮かべながら丸い風船を持ち出し、少しでも動けばこのように落ちてしまうと、床に落ちたピーナッツを拾う。周りで見ていた学者や学生や一般市民も、まったくその通りだ、この大地が丸かったら、反対側のものはすべて落ちてしまう、と、笑う。

万有引力の法則の支配する世界で、その万有引力の法則とその世界を理解することは難しい。

同じように、記憶の法則が支配するこの記憶の世界で、その記憶の法則とその世界を理解することは難しい。

現在の学者は、生中継のテレビを見せて、今、あそこに映っている地球の裏側の現実のすべてが記憶だというのか。今、同時に変化しているこの世界の、この宇宙の、すべての現象が記憶だというのか。そして、今、話しているこの私も、今、生活しているこの世界のすべて私も、すべて記憶だというのか、と、・・・。

そうです。さらに、不思議なことに、記憶の法則とその記憶の世界に無駄はありませんから、私が認識しない(選択しない)記憶は開きません、とでもいうものなら、ますます、馬鹿馬鹿しい、と、鼻で笑う。

それでも、この私の世界は記憶の世界だし、その私は、ただ、”今、ここ”、の、一点(如)だけにいて、記憶を選択しているだけ。

そして、万有引力の法則が本有(ほんぬ)であるように、

その万有引力の法則の記憶も、私の記憶の法則の記憶とその記憶の世界の記憶も、本有(ほんぬ)のもの。

(2010.11.19)
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