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記憶

(2010.9.17 06:00 ごろ、からの記憶を、記録していく。(主に紙にメモしたものを参照)02)

10.03 09:05 ごろ記す。


litaの本尊の前の(学んでいる時の、修行時の)本尊は、鎌倉時代の日蓮の私の思想と、その本尊。

10.04 04:30 ごろ記す。


普遍の私の選択は、無意識の一瞬の選択もあれば、じっくり考えた選択もある。いづれも、その確率に大きく依存する。それまでの傾向性、そのときの環境、心情、信念、理念、等々、からくる、その選択の確率。つまり、ある選択をすると、その選択によって、確率も環境も変わる。どの選択も、その果は、すべて用意されている(一念にすべての因が存在する)。最高善を選択すると、それ以後、より最高善の確率と環境に変わり、そのより最高善の選択をし続けると、 ますます、より最高善の確率と環境に変わり、いづれ、本覚の寤(うつつ)、真の自由、へ、と。これは、生命そのものの、こうありたいという一念の、摂理。

10.05 06:05 ごろ記す。


最高善の普遍の私は、他者の、”声”、としても、普遍の私を導く。他者とは、人であり、自然であり、物であり、音であり、・・・。なにげなく聞こえる、その、”声”、も、重大な選択を示唆している。

”つまらないことと思えるかもしれませんが、それは、より善(悪)です。そのより善(悪)を、優先して、選択しなさい(選択してはいけません)、と。”




”・・・(仏は)心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合して、自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること滞り有る可からず。・・・”

三世諸仏総勘文教相廃立、御書 P558 編年体御書 p1221)

10.05 10:20 ごろ記す。



実在するものそのもの。
実在するものそのものの、記憶。

目で見た、記憶。
耳で聞いた、記憶。
手で触れた、記憶。

実在するものそのもの、とは、解釈できないもの。
そのもの、とは、解釈できないもの。

今、ここ、の、時間は、一直線ではないし、空間は、広がりではない。

普遍の私は、”一つ”、の、空(くう)に、いる。
今の瞬間だけ、いるのではなく、ずっと、今、ここ、に、いる。

”一つ”、の空(くう)の、今、すべては、選択済み。
なぜなら、一念に、すべての因が存在する、から。
つまり、因も、縁も、果も、選択も、すべて、存在することになる、から。


実在するものそのもの、を、解釈できないもの、として、( )、に入れて、その、すべての記憶が、普遍の私の世界をつくる。

すると、実在するものそのもの、の、( )、も、実在するものそのもの、も、意味がない。
あっても、なくても、かまわない。
すべての記憶は、選択済み、だから。
選択済み、だから、記憶として、存在している。


つまり、実在するものそのもの、こそ、妄想!

つまり、普遍の私は、実在するものそのもの、解釈できないもの、の、何か、が、実在していると、妄想している!


妄想とは、記憶。



つまり、すべて、仏(如来)(如如として、来る)の、記憶。



実在するものそのもの、を、見るため、聞くため、触れるため、・・・、に、つまり、認識するため、に、感覚が、必要なんじゃないんだ!

記憶、それ自体(そのもの、ではない)を、見るため、聞くため、触れるため、・・・、に、つまり、選択するため、に、感覚が、必要なんだ!



九識は、そのためのものだった!

10.06 03:40 ごろ記す。


生命のマトリックス。

この世界は、妄想(記憶)。
普遍の私は、記憶の中に生きている。

切られても、切られない。

痛みがあり、血が出る。
その痛みも、その血も、記憶。
脳の局所で、その痛みを、感じているのではなく、
脳の局所で、その痛みの記憶を、選択している。

六識が、その縁を、選択している。
その縁も、六識も、記憶であり、脳の働き。

その脳も、その働きも、記憶。

九識、を、ともなう、記憶。


無意識の、記憶。
無意識の、選択。


極小レベルでも、極大レベルでも、縁の記憶を、選択している。

すでに、選択されている記憶だから、できること。

普遍の私だから、できること。



生命そのもの、に、近い、植物は、こうありたいという摂理の一念に、記憶を、ほとんど冥伏させ、選択もより少ない。
地球の裏の砂漠では、フンコロガシが、縁の記憶を選択しながら、せっせと糞を転がしている。

実際に、そこに行っても、絶えず、六識が、その縁の記憶を、選択する。
その私の、思い、考え、も、記憶。



素粒子以前から、宇宙の果(は)てまで、すべて、記憶。

すべて、すでに、選択されている、記憶。

実在するものそのもの、は、あっても、なくても、無意味。

その記憶の海に、普遍の私は、生きている。



生きているとは、その記憶を、一瞬一瞬、選択していること。

因も、縁も、果も、記憶。
私も、記憶。

すべて、”生死の妄想(記憶)の中”。



”九識心王真如の都”(本覚の寤(うつつ)”、とは、すべが、記憶とわかっている、”今、ここ”、の、記憶のこと。

より善の縁の記憶を選択すれば、より善の果の記憶の世界が、”今、ここ”、に、出現する。

最高善の縁の記憶を選択すれば、最高善の果の記憶の世界、”九識心王真如の都”(本覚の寤(うつつ)”、が、”今、ここ”、に、出現する。





その記憶と、その記憶の選択と、その私の記憶の世界を、そうたらしめているのが、その記憶の、法則。
宇宙の、生命の、こうありたいという一念の、その記憶の、摂理。

その記憶の、摂理、法則、の、記憶を、”妙法蓮華経”、と、名づけた。

10.07 08:30 ごろ記す。


litaの本尊は、”十界”(地獄から仏界)、に、住んでいた、普遍の私の、”記憶”、を、図像化したもの。

10.08 05:00 ごろ記す。



普遍の私は、時間を直線的に、空間を広がりと、考えているから、”今、ここ”、の、一念の生命に、すべての因(因、縁、果)が、存在していて、そのすべてが、選択済み、であることが、わかりにくい。





プログラムづくりを考えてみれば、わかりやすい。
プログラムは、因、縁、果、の、繰り返しの法則に従って、その世界をつくりだす。プログラムが完成した時点で、その世界は存在していなければならない。その世界を含めてのプログラムなのだから。つまり、果の世界が存在しているということは、法則の因を含めた、因(因、縁、果)の、すべてが、すでに存在していて、使い手は、ただ、”それ”(縁)、を、選択している、だけ、ということになる。



そのプログラムをつくったのは、そのプログラマーの、一念。

この私の世界をつくったのは、宇宙(そのもの)の、生命(そのもの)の、こうありたいという、一念。

つまり、私(そのもの)、の、一念。

その、法則、摂理を、そうたらしめているのは、その、法則、摂理、それ自体。

それを、”妙法蓮華経”、と、名づけた。

10.08 06:50 ごろ記す。



litaのプロジェクトを、今、はじめないと、間に合わない。

10.09 05:50 ごろ記す。

私(そのもの)、の、一念。

”私”、は、

ひとりぼっちで、

寂しいから、

極めて複雑で、多様性に満ちた、

たくさんの、ものと、生きものたちと、そのこころと、

その時間と空間と、その記憶のシステムの、

しかも、すべてが、”私”、という、

しかも、その真実、を、最高善の、”私”、に、しか、明かさない、という、

この、”私”、の、世界(宇宙)を、つくった。

10.11 06:10 ごろ記す。


litaのプロジェクトの要(かなめ)である、”宝塔、を建て、その声を発せよ”、といっても、特別に、大上段に構えてのことではありません。まず、その思いの、”声”、を、他者に発することです。
たとえば、appeaij/ikari.html
たとえば、appeaij3/tenjou29.html
たとえば、appeaij3/aworld1.html

10.11 09:15 ごろ記す。


十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)は、よくできた、普遍の私の日記、普遍の私を悟らしめる文書(もんじょ)。


普遍の私は、人界において、その、”餓鬼”、”畜生”、の世間で、貪(むさぼ)り、弱いものの肉を食らう、と、他者との怒りの衝突、闘争で、怒りの、”修羅”、となって、苦をともない、その苦から、畜生とは違う、人間性とは何かに目覚め、”人”、を取り戻し、その人間としての、”天”、の、歓喜を味わい、さらに、その人間性を、その人間の私の世界を、その人間の私の真の幸福とは何かを、探求し、自他の私の声を聞く、”声聞”、を経て、数々の疑問と悟りの中の、”縁覚”、に住み、やがて、よりよい生き方は、利他にあると悟り、”菩薩”、となって、利他に励み、ついには、自他ともに成仏するという、究極の利他によって、その私の世界の真実を知る、”仏”、へ、と至る。

10.11 20:20 ごろ記す。


それぞれの普遍の私が、それぞれの記憶の世界を持つ、ということは、”今、ここ”、の、私にとって、”その時点”、は、生(空の悟りの中の)であっても、他者の視点からは、”今、ここ”、の、私の、死であったり、まったく、別の、生であったり、と、

つまり、その、それぞれの普遍の私の記憶の選択によって、その、それぞれの普遍の私の記憶の世界は(その、それぞれの普遍の私から見た他者も含めて)、それぞれ、まったく違うものになる、ということ。

10.13 05:30 ごろ記す。


この世界は、記憶の世界だ、とすると、必ず、記憶なら、人殺しも、泥棒も、罪にならない、と、考える輩(やから)が、出てくる。

しかし、その、人殺しや、泥棒や、他の犯罪者には、まったく残念なことに、人殺しも、泥棒も、他の犯罪も、その選択は、”今、ここ”、の、普遍の私の記憶の世界では、自他に罪であり、自他に罰せられ、そのそれぞれの苦を味わう、と、すでに、選択済み。

10.13 17:10 ごろ記す。


普遍の私の世界が、すべて、記憶、というところで、一番の疑問は、”今、ここ”、の、瞬間、極小の素粒子以前から、極大の宇宙の果てまで、無限に近い、ものや、生きものたちが、変化している、その無限に近い選択が、すべて、普遍の私の記憶による、とされること。先の、プログラムの喩えで、そのプログラムが3Dの世界として、その無限に近い選択者は、アバター、ということになるけれど、それは、その記憶の世界を、その無限に近いアバターが共存している、という、通常の慣れ親しんでいる時空間における視点からの説明で、限界がある。つまり、その3Dで現された無限に近い、ものや、生きものたちが、すべて、アバターであり、私であり、記憶であり、その選択であり、そのそれぞれのアバター自身の体も、その極小に至るまで、その無限に近いそれぞれが、すべて、アバターであり、私であり、記憶であり、その選択である、ということで、極大もまたしかりで、その無限に近い、アバターである私と、その記憶と、その選択が、すべて、普遍の私の記憶による、とするのは、やはり、その視点からの見方の限界。

それを、生死、”一つ”、の、空(くう)の視点から見ると、その無限の時空も、その無限の私も、その無限の記憶も、その無限の選択も、その、”一つ”、の、空(くう)に、すべて、納まり、その時空も、無限の直線でも、無限の広がりでもない、”一つ”、のもの、その私も、無限の私ではない、”一つ”、のもの、その記憶も、無限の記憶ではない、”一つ”、のもの、その選択も、無限の選択ではない、”一つ”、のもの、となり、その、”一つ”、のものの、空(くう)において、その一瞬(一念)のその、”一つ”、のものの私の、その一瞬のその、”一つ”、のものの記憶の、その一瞬のその”一つ”、のものの選択が、その一瞬のその、”一つ”、のものの記憶の世界を、つくりだす。その一瞬の、”一つ”、のものの記憶の世界の、その一瞬一瞬を、普遍の私が、通常の慣れ親しんでいる時空間における視点から見ると、その普遍の私の、通常の慣れ親しんでいる時空間における世界として、見える。

その一瞬の、十界の最高善(仏)において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その最高善の最も自由な記憶の世界を、仏界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その最高善の最も自由な私を、如来(如如として、来る)、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その最高善の最も自由な記憶を、如来の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

その一瞬一瞬が、十界(地獄(物質)、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)の、それぞれの界の、すべてにわたる。

つまり、その一瞬の、十界の地獄界(物質)において、・・・、その一瞬の、十界の餓鬼界において、・・・、その一瞬の、十界の畜生界において、・・・、・・・。

たとえば、その一瞬の、十界の地獄界(物質)において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私にとって最も不自由な記憶の世界を、地獄界(物質)、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その最も不自由な私を、地獄(物質)、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その最も不自由な記憶を、地獄(物質)の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の餓鬼界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の貪(むさぼ)り食らうだけのより不自由な記憶の世界を、餓鬼界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な私を、餓鬼、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な記憶を、餓鬼の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の畜生界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の弱いものの肉を食らうだけのより不自由な記憶の世界を、畜生界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な私を、畜生、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な記憶を、畜生の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の修羅界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の怒りと争いのみのより不自由な記憶の世界を、修羅界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な私を、修羅、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより不自由な記憶を、修羅の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の人界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の人(ひと)としてのより自由な記憶の世界を、人界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な私を、人、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な記憶を、人の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の天界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その人としての喜びに満ちたより自由な記憶の世界を、天界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な私を、天、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な記憶を、天の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の声聞界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の自他の声を聞くより自由な記憶の世界を、声聞界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な私を、声聞、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な記憶を、声聞の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の縁覚界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の縁による理解と悟りのより自由な記憶の世界を、縁覚界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な私を、縁覚、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な記憶を、縁覚の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

たとえば、その一瞬の、十界の菩薩界において、その時空の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、その私の利他(善)に生きるより自由な記憶の世界を、菩薩界、といい、その私の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な私を、菩薩、といい、その記憶の、”一つ”、のもの、その一瞬の、その一瞬一瞬の、その、”一つ”、のものの、そのより自由な記憶を、菩薩の私の記憶、といい、つまり、すべては、私であり、記憶であり、”一つ”、のもの。

では、その一瞬一瞬、その十界のそれぞれの普遍の私が、選択している、その記憶の、”一つ”、のものとは、何か。

その、”一つ”、のものは、極小(素粒子以前)から極大(宇宙の果て)の、すべての記憶を、生み出すもの。

それは、その記憶のすべてを生み出す、”因”、の記憶である、摂理、法則、の、”妙法蓮華経”。

それを、その一瞬一瞬、その十界のそれぞれの普遍の私が、選択していて、

極小(素粒子以前)から極大(宇宙の果て)の、すべての記憶が、そこから生み出される。

十界の最高善(仏)において、それを(に)、一瞬一瞬、選択している(則っている)、最高善の私、如来(一身即三身如来)を、

”南無妙法蓮華経”、と、名づけた。

10.15 17:25 ごろ記す。


つまり、十界のそれぞれの衆生の普遍の私は、一瞬、一瞬、”南無妙法蓮華経”、”南無妙法蓮華経”、・・・、と、”妙法蓮華経”、を(に)、”南無”、し(選択し、則っり、帰命し)、たくさんの記憶の、”縁”、を、生み出し、その、”縁”、を、一つ、一つ、選択しながら、そのそれぞれの世界をつくりあげている。

その、生み出されている、たくさんの記憶の、”縁”、とは、普遍の私が、今、見ている、聞いている、触れている、、、(選択している)、すべての、もの、や、生きもの、たち。つまり、この世界(宇宙)の、素粒子以前から、宇宙の果てまでの、すべての、もの、や、生きものたち、のこと。

10.17 07:20 ごろ記す。


この記憶の世界から、本覚の寤(うつつ)(すべてが記憶だと真にわかること)へ、抜け出すのは容易ではない。

それは、この記憶の世界では、普遍の私は、私そのものの一念から、”一つ”、であることを、認めたくない(知りたくない)からだ。

10.18 05:40 ごろ記す。


つまり、通常の慣れ親しんでいる時空間における視点から見ると、極小では、とてつもなく速い、”南無妙法蓮華経”、極大では、とてつもなく遅い、”南無妙法蓮華経”。つまり、その一瞬一瞬の選択の速さが違う。生死、”一つ”、の、空(悟りの中)では、その、”一つ”、の、縁(妙法蓮華経)を、”一つ”、だけ、選択(南無)し、速い、遅い、ではなく(時空、”一つ”、の)、ただ、”南無妙法蓮華経”。

10.18 16:40 ごろ記す。


空(くう)の、”南無妙法蓮華経”。
たえず、法則(因、縁、果)に、則って(南無して)いる。



因から縁、その縁の選択、その果の世界の出現、の、その一連の選択(南無)の、”きっかけ”、は、思い(一念)。
因の、”妙法蓮華経”、から、すべての記憶を生み出す、”きっかけ”、は、”私”、の、一念。
その一念を、発心とも、動機とも、思いとも、意志とも、いう。

その、”きっかけ”、である、”私”、の、一念(発心、動機、思い、意志)の、実体は、”こうありたい”、という、一念。

つまり、その、”私”、が、今、見ている、聞いている、触れている、、、(選択(南無)している)、すべての、もの、や、生きものたち、の、この世界(宇宙)が、”こうありたい”、という、その一念の、実体。



つまり、この世界(宇宙)のすべては、”私”、の、”こうありたい”、という、一念による、記憶。

まず、果の世界が、存在する。
その世界のすべてが、記憶。
その記憶を生み出す、因(妙法蓮華経)、が、存在する。
その、因(妙法蓮華経)、に、因、縁、果、の、すべての、因、が、存在する(すべての、因、である)。
果(妙法蓮華経をその因とする)の記憶の世界は、”私”、の一念(こうありたい)によって、すでに選択(南無)されているもの。
その記憶の世界の記憶の縁(妙法蓮華経をその因とする)を、一瞬一瞬、選択(南無)して、記憶(妙法蓮華経をその因とする)の時空の世界をつくる。

因(妙法蓮華経)から縁(妙法蓮華経をその因とする)が生み出される、その、”きっかけ”、は、私そのものと普遍の私(”私”)、の、”こうありたい”、という一念。



その普遍の私が、応身、その一念が、報身、その法則、摂理が、法身。



その法則、摂理(法身)があっても、それを知るもの(応身)と、それを知る知恵(報身)がなければ、無意味。

その意味からも、法身、自体に、因、縁、果、のすべての因が存在することからも、応身、報身、法身、は、一体。
これを、一身即三身、三身即一身、という。

知るもの(応身)の最高善を、”応身如来”、
知る知恵(報身)の最高善を、”報身如来”、
知られる法則、摂理(法身)の最高善を、”法身如来”、
その応身、報身、法身、一体、の最高善を、”一身即三身如来”、という。

応、報、法、の三身のもとは、”妙法蓮華経”。



”縁”、は、”因”、と、”果”、を、媒介するもの。
つまり、何を、”因”、とするか(見るか)で、変わる。
法身を中心とする(法則を因とする)と、対象物(対境)、が、その、”縁”、となり(見る)、
応身を中心とする(対象物(対境)を因とする)と、見る、聞く、触れる、・・・、の選択、と、その思い(一念)、が、その、”縁”、となる(見る)。

10.19 13:00 ごろ記す


この世界が、すべて、”記憶”、であることの、証明。

頭の中にある、”記憶”、は、切っても、切れないし、掴(つか)んでも、掴めないし、その感覚がない、ことから、”記憶”、を、接触不可能で、感覚がないもの、と、仮に、定義すると、目の前にある、リンゴは、切れるし、掴めるし、その感覚があるから、目の前のリンゴは、”記憶”、ではない。現実の普遍の私の周りにある、ほとんどのものは、接触可能で、その感覚もあると想像され、ほとんどのものが、”記憶”、ではないと、想像される。ところが、その目の前にある、”記憶”、ではないとされた、リンゴの、その細部の空間を、素粒子以前に無限に仕切ることを想像すると、その空間は、無限に仕切れるし、切っても、切れないし、掴(つか)んでも、掴めないし、その感覚がない、と、想像される。これは、不思議なことで、リンゴのより極微細なところは、無限に、”記憶”、で、それより大きなところは、有限に、”記憶”、でない、と、いうことになる。リンゴの微細に無限の、”記憶”、の空間と、リンゴのより大きな有限の、”記憶”、ではない、空間と、どちらが、よりリンゴと言えるだろうか。有限は、無限に比べれば、無いに等しい。無限の空間の方が、無限にリンゴと言える。つまり、その目の前のリンゴは、”記憶”。


空間を小さく無限に仕切れる、と、いう、事実。これこそ、”記憶”、の性質。

10.20 05:50 ごろ記す。

”私”、が、


どうしても、”認めたくない”、”知りたくない”、こと。

”私”、の、”今、ここ”、の、

愛する人々、身近な人々、・・・、
家族、友人、知人、・・・、
生きものたち、・・・、
そして、美しい自然、・・・、

そのすべてが、”私”、の、”記憶”、で、あること。

いずれは、”法則”、に、したがって、

そのすべてが、”私”、を、含めて、

”清算”、されてしまうこと。

10.21 06:20 ごろ記す。


その生命の、”私”、の、記憶の清算。その清算で、”私”、の、記憶の他者、特に、愛する人々や、身近な人々、が、その他者それ自体として、その他者それ自体の記憶の世界に、存在し続けて欲しいと願う、一方、その他者そのものとして、”私”、の、記憶の世界だけの記憶として、清算されてしまうこと、これは、どうしても、”認めたくない”、”知りたくない”、こと。

10.21 18:40 ごろ記す。


すべては、その過程と、その目的のためだった。

私そのものの一念は、”私”、を、最高善の普遍の私に引き上げるのを、その目的とし、その過程と、その目的のために、”私”、の、”記憶”、の世界をつくった。すべて、そのためのもの。”私”、の、”記憶”、の他者が、それ自体であろうと、そのものであろうと、その過程と目的へのプロセスは、かわらない。いくら、貪り、楽しみ、怒り、その六道を輪廻しても、やがて、遅かれ早かれ、すべての普遍の私(”私”)は、その苦や、他の思いから、自他の、その、”声”、を聞き、悟り、利他に励み、さらに、その目的である、最高善の普遍の私の高みへと至る(すべての普遍の私の成仏は決定済み。しかし、”私”、の、他者それ自体の記憶の世界から見る、そこに至る過程での、”私”、の、死の相は、死でもないし、記憶の清算でもないし、成仏でもない。それは、その他者それ自体の記憶の選択による記憶としての、”私”、の、死の相。)。その過程とその目的は、すでに、すべて、選択されているプロセスであり、その目的に至って、はじめて、”記憶”、の清算が行われ、つぎのステップ(新たな十界)へ、と。すべての普遍の私(”私”)は、その十界(地獄(物質)、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)の、その極小の素粒子以前から、極大の宇宙の果てまで、の、幾重にも幾重にも重層された、繰り返しの、その、生死、”一つ”、の、”記憶”、の中に、生きている。

10.24 07:10 ごろ記す。



お金も記憶、名声も記憶、おいしい食べ物も、快楽も、苦痛も、悲哀も、記憶。その記憶に執着し、その記憶を嫌(いと)い、夢中になったり、拒んだり、楽しんだり、悲しんだり、怒ったり、恨んだり、いじめたり、傷つけたり、殺したり、と。その六感の刺激の記憶を求め、その六感の刺激の記憶を嫌(いと)い、より楽(らく)そうな、または、信念、思い、のために、その記憶を選択する(六道輪廻)。その選択で、たとえば、事故で、病気で、戦争で、その普遍の私の他者の記憶の世界では、その普遍の私の死の相であっても、その普遍の私の記憶の世界では、どのような宗教(たとえ破壊の宗教でも)、どのような信念(たとえ破壊の信念でも)、どのような思い(たとえ破壊の思いでも)、を、持っていようとも、必ず、それまでの行動による善悪のそれぞれの報い(より重い、より軽い)の苦楽(より重い、より軽い)や、他の思いとともに、その普遍の私は、遅かれ早かれ、自他の、その、”声”、を聞き、生死、”一つ”、の空(悟りの中)に、生きていることを悟り、その、”私”、の真の目的を知り、その道を修正し、利他に励み、その目的の最高善の普遍の私の高みへと至り、記憶の清算、つぎの繰り返しへ、と。


それは、”こうありたい”、という、”私”、の、奥低(おうてい)の一念の記憶の選択。

10.25 07:30 ごろ記す。


私そのもの、という記憶、も、普遍の私、という記憶、も、記憶の清算の対象。当然、litaも、その思想も、その対象。目の前のリンゴは、他者も、リンゴと認識している(リンゴの記憶を選択している)。そのもの、の見方は、”他者も、その他者の記憶の世界として、リンゴと認識している(リンゴの記憶を選択している)、と、その普遍の私の記憶の世界では、想像している(その記憶を選択している)。”。それ自体、の見方は、”その他者の、そのリンゴと認識している(リンゴの記憶を選択している)記憶の世界は、その他者の記憶の世界として、まったく違う見え方、記憶の選択であっても、その普遍の私の記憶の世界とは別に、存続している。”。”私”、は、後者であってほしいと願うのは、やはり、私そのものと普遍の私(”私”)の一念の強さ。後者は、結局、”その他者の、そのリンゴと認識している(リンゴの記憶を選択している)記憶の世界は、その他者の記憶の世界として、まったく違う見え方、記憶の選択であっても、その普遍の私の記憶の世界とは別に、存続している。”、と、その普遍の私は、想像し、願っている(その記憶を選択している)、と、なって、目的は、その過程と、その目的に、あるのだから、やはり、記憶は、すべて清算され、そのものへと帰る。

10.26 05:20 ごろ記す。


そのものという記憶からの繰り返しの記憶。

記憶とは、生命の、”私”、の属性。その生命の、”私”、の一念の記憶により、生命の私そのものの物質から、生命の普遍の私へ、その繰り返し、という、記憶。

その記憶を選択し、生命の私そのものの物質から、生命の普遍の私へ、その繰り返しへ、と。



記憶の清算の記憶。

記憶とは、生命の、”私”、の属性。その生命の、”私”、の一念の記憶により、記憶を清算する、その記憶。

その記憶を選択し、記憶を清算する。



その生命の、”私”、の一念の記憶により、その目的に達していなければ、記憶の清算はできない。

たとえば、普遍の私が、その記憶を清算しようと自殺をはかる。その普遍の私の他者の世界での見え方は、(あってもなくても)別として、その普遍の私は、その目的に達していなければ、記憶の清算はできない。その目的に達するまで、”声”、を、聞きながら、日常の生活(日常の生活で、空とわかっていない生活)と空(悟りの中)の生活(日常の生活で、空とわかっている生活)に生き続け、その目的へ、と。その目的に達していれば、その記憶の清算に関わるどんな記憶の縁の選択でも、直ちに、記憶の清算が行われ、そのものの記憶へと帰り、新たな繰り返しへ、と。

だだし、自殺は、記憶の清算に関わらない。自殺は、自らを殺す、という罪だから(と選択されている)。

10.27 06:00 ごろ記す。



たとえば、他者を殺し、その償いと思って、自殺する。或いは、その他の、自他の殺害。

これは、”他者を殺して、自分まで殺すのか”、となる、二重の重い罪(と選択されている)。

10.27 13:50 ごろ記す。



生命の、”私”、の寿命。

生命の、”私”、は、生死、”一つ”、の空(くう)に、生きているから、寿命はない。
普遍の私が見る、他者の死の相は、その他者が何歳だろうが、その記憶を選択しているだけ。

その他者それ自体の記憶の世界があるとして、その他者の記憶の世界でも、その他者が、物質であろうと、生きものであろうと、何歳であろうと、その目的に達していなければ、記憶の清算はない。

生死、”一つ”、の空(くう)において、一秒、百歳、を、問うのは、無意味。



素粒子が集まったり、散ったり、生きものが栄養を取って、成長したり、土に戻ったり、すべて、記憶。

その他者それ自体の記憶の世界があるとして、記憶は、生命の、”私”、の属性だから、物質は、私そのものの物質として、私そのものの、その記憶を選択している。



生死、”一つ”、の空(くう)において、十界(地獄(物質)、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)の、それぞれの普遍の私は、それぞれの普遍の私の縁の記憶を選択している。



その空(くう)において、”私”、の仕事は、ただ、ボタンを押すだけ。

”因、縁、果”、の、因を、縁を、果を、つまり、”因”(妙法蓮華経)、を、選択(南無)することの、繰り返し。



つまり、”南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、、、、、”、と。

10.28 07:40 ごろ記す。


他者それ自体として、litaを見ている人は、すでに、空(くう)に生きていることを、理では、知っている。記憶の世界に生きていることを、理では、知っている。その目的も、その過程も、理では、知っている。あとは、宝塔を建て、声を発して(たとえば、appeaij/ikari.html)、lita(利他)に生きれば、ある、”きっかけ”、で、真に理解し(体得し)、真にlitaに生き、真に解脱(げだつ)し、”真の自由”、へ、と。

10.29 06:40 ごろ記す。



”真の自由”。

”真の自由”、は、必ず、その、”私”、の一念の憂いをおびている。

”真の自由”、の最大の自由は、生死からの自由。

”真の自由”、の最小の自由は、記憶の世界に生きること。

”真の自由”、の最大の不自由は、それが法則に則っていること。

10.31 07:30 ごろ記す。


破壊の悪でも、いずれは、遅かれ早かれ、その目的に達するけれど、その過程は、長いし、苦しいし、その六道を、それも、長い長い、地獄(苦)、餓鬼(むさぼり)、畜生(弱いものの肉を食らう)、修羅(怒りの争い)、、、の、六道を、何回、輪廻(りんね)することか。長い地獄と煉獄(れんごく)、その束の間の天国、すぐに悪縁によって、地獄へ堕落、そして、悔い反省の煉獄(れんごく)と。破壊の悪は、より破壊の悪の縁を、より選択しやすい(その確率が高い)し、周りは悪縁ばかりの世界を選択しているから、なおさら、その輪廻は長い。救い(神は必ず救いを用意している)は、その地獄の苦の時に、より悩んでいる時に、より考えている時に、そのより少ない、より善の、”声”、を聞き、より少ない、より善の、”縁”、を選択すること。その少しのチャンスと、その少しの勇気で、世界は変わる。

10.31 12:50 ごろ記す


ある聖者がいた。信念堅く、常に神とともにあり、常に神の声を聞き、常に善を優先し、常に縁あるその衆生を救済し、悪の誘惑には毅然(きぜん)と対し、ある日、その、”破壊の悪”、の狂気に、その償いの、”苦”、とともに倒れた。その悪からの見え方は別として、聖者は奇跡的に助かり、ある体験をした。これが啓示、神託というものか、と、その感激に咽(むせ)び、その、”声”、に導かれ、それまで信じていた真理がことごとく崩れ、驚きの真理とともに、その目的とその過程とを知り、ついに、”神は、私だった”、と、悟り、その私に約束された、永遠の命(いのち)を与えられた。

その聖者とは、その少しのチャンスと、その少しの勇気で、より善の、”縁”、を選択した、その、”破壊の悪”、の、すぐ未来の私。

11.01 07:40 ごろ記す。


その、”破壊の悪”、の、私。

推(お)して知るべし。

”私”、のすべての記憶の縁は、”私”、の、すでに選択されていた記憶であり、それは、”私”。

その悪は、”私”。
その善は、”私”。
その他者は、”私”。
その苦は、その悪の償い。
その楽は、その善の福徳。

11.02 05:40 ごろ記す。


目の前の、映像、音、味、匂い、触感、、、の、すべてが、”私”、の、すでに選択されていた記憶。

デジャビュ。

11.04 14:00 ごろ記す。


子供は夢中になって遊ぶ。夕飯どき、お母さんが、子供の名前を呼ぶ。子供は遊びに夢中でその声が聞こえない。何回かお母さんの叫ぶような声を聞いて、やっとわれに返り、しぶしぶ声のする方へ。

記憶の海の中にいる普遍の私も、同じように、その記憶に夢中になり母の声が聞こえない。聞こえても、もう少し遊びたい、しぶしぶその声の方へ、と。



いっそ知らないで、子供のようにその記憶の海の中で夢中になっていたい、・・・。

通常の日常の世界でさえ、そう思う。



それが、意識的に洗脳(情報洗滌)された組織なり国家なりの世界に生きていれば、どれだけ危険か。そこに生きる普遍の私が多ければ多いほど、その危険は増す。

その目の前の危険に、母の必死の叫びも聞こえない。

それが、ボタンを押すんだ!

11.06 06:05 ごろ記す。


たとえば、軍人は、人を殺すための役人。それでは具合が悪いと、あるいは、かわいそうと、軍服で美化し、勲章で美化し、その人格やその集大成の戦争まで、美化する。

意図的に(必要性を強く感じて)大そうな金箔(ブリキの勲章)で美化する、人は、組織は、思想は、危ない。

litaの本尊は、”今、ここ”の、すべての私(”私”)を、最高善の私にするためのもの。しかし、その本尊は、最高善の私にしか、真に現せない。そこで、その、”声”、の主である最高善の私は、普遍の私を一時的に引き上げようと、”その時点”、と最高善の行為とを用意し、その資格を与えた。”その時点”、とは、究極の悟りであり、究極の、真の、啓示、神託、とも呼ばれるもの。本尊とは、より普遍に通じなければならず、一目で、一音で、わかる、その最高善に導く思想を象徴するもの。最高善の行為とは、”今、ここ”、では、その本尊を、すべての私(”私”)に開示すること。


成仏とは、自他ともの成仏。自とは、”今、ここ”、の私。他とは、その記憶。

11.07 05:40 ごろ記す。


真の(偽りでない)、啓示、神託、は、それぞれの普遍の私に、その時々のそのそれぞれの普遍の私の環境に合った種類と程度で、はじめ示され、徐々に螺旋状(らせんじょう)に繰り返しながら上昇し、真の目的の高み(最高善)へ、と。

盗人(ぬすっと)には、盗人(ぬすっと)の言葉で、兵士には、兵士の言葉で、実業家には、実業家の言葉で、科学者には、科学者の言葉で、芸術家には、芸術家の言葉で、利他の人には、利他の人の言葉で、つまり、十界のそれぞれの普遍の私には、そのそれぞれの言葉で、その時々のその環境に合った種類と程度で、はじめ示され、徐々に螺旋状(らせんじょう)に繰り返しながら上昇し、真の目的の高み(最高善)へ、と。

”その時点”、での、驚きと歓喜は、その低い次元での真理(その時々で信じている真理)と、その高みでの真理(最高善の真理)との、あまりの違いのため。

利他の人(菩薩)の環境でさえ、その高み(仏)での真理とのギャップに、相当の驚きと歓喜とをともなう。

11.08 06:15 ごろ記す。


真の幸福とは。



真の幸福とは、まっとうに生きること。


人として、まっとうに生きること。
人として、お天道様(おてんとうさま)に恥じないよう、まっとうに生きること。(人界)


その上で、


人としての歓喜を味わい、(天界)
考え、学問し、(声聞界)
生業(なりわい)や研究、芸術に勤(いそ)しみ、悟り、(縁覚界)
他者を助け、利他の人となり、(菩薩界)
真にまっとうな、目的地、へ、と。(仏界)


ところが、善人の顔をして、
その基礎である、人としても、まっとうに生きられない、真の下衆(げす)がいる。(偽善)

お金や、地位、名声、名誉、怒り、復讐、しばしばそれらに由来する狂信、等、に目がくらみ、善を裏切り、他者の肉を食い、自らの欲望を肥やす、
他者の怒りをかい、自らも自らに怒り争って、(修羅界)
その基礎である、人としても、まっとうに生きられない、真の下衆(げす)がいる。(餓鬼界、畜生界)

お天道様(おてんとうさま)(最高善の私)が、その下衆(げす)の目を通して、すべて、お見通しであることが、信じられない、
真の大馬鹿者、
真の不幸者。(地獄界)


天網恢恢(てんもうかいかい)、疎(そ)にして、漏(も)らさず。

11.10 07:45 ごろ記す。


なにも、大破壊の選択をわざわざしなくてもいいのに。

この記憶の世界のバーチャルは、痛みの記憶をともなうし、苦しみ、悲しみの記憶をともなう。

わざわざ、その、痛い、苦しい、悲しい、思いを、大規模にしなくてもいいのに。

ほかの選択による結果の記憶は、すべて、用意されている。

.

この世界が記憶だということ。

たとえば、目の前のリンゴを見る、という行為。通常、日常の簡単なことだと思っている。しかし、この選択だけでも、そのリンゴの存在因を考えると、もし、リンゴそのものがあるとして、ほとんど無限のそのものと、ほとんど無限の選択の繰り返しがなければ、そのリンゴそのものの存在すらない。つまり、それを選択するたびに、ほとんど無限の時間と空間とが必要ということで、いつまでたっても、それを見ることすらできない。その選択が一瞬でできるということは、それが記憶だということ。ほとんど無限の選択の繰り返しの、”その時点”、での結果の記憶を選択している、ということ。それは、記憶にしかできないこと。

11.12 06:30 ごろ記す。


そのものだけ存在し、記憶がないとすると、”今、ここ”、に、そのそのものが存在するには、あるそのものと、その選択が必要。あるそのものも、別のそのものと、その選択が必要。そのそのものも、別のそのものと、その選択が必要。かくして無限のそのものと、無限の選択が必要で、それには無限の時間と空間とが必要。”今、ここ”、は、ゼロ点であり、時間も空間も存在しない。よって、”今、ここ”、で、そのものは存在しない。その一瞬一瞬の選択で、時空は現れるから、時空に、そのものは存在しない。つまり、時空そのものも存在しない。時空も、そのものも、その一瞬一瞬も、その選択も、すべて、記憶。

11.13 01:30 ごろ記す。


”今、ここ”、のゼロ点を、便宜上一瞬ととらえると、その、”今、ここ”、の一瞬は、歴史の時空間の一瞬を切り取っているだけ、と、通常の時空に慣れ親しんでいる目には、そう見えるけれども、たとえば、テレビの時空は、一画面の一瞬一瞬の繰り返しの連(つら)なりであり、その一瞬の一画面がその時空の基本であるように、通常、慣れ親しんでいる時空も、”今、ここ”、のゼロ点の一瞬が基本で、そこにそのものが存在しなければ、その一瞬一瞬の連(つら)なりの時空にも、それは存在し得ない。そもそも時空の存在し得ないゼロ点を一瞬ととらえることはできないことで、その一瞬一瞬も、その連(つら)なりも、通常、慣れ親しんでいる時空間での説明のための便宜的表現で、その時空の存在し得ないゼロ点で、唯一存在し得るのは、記憶のみ。つまり、その記憶を選択する記憶。

11.14 21:15 ごろ記す。


”今、ここ”、とは、生死、”一つ”、の空(悟りの中)のこと。

”一つ”、とは、”妙法蓮華経”。

”その時点”、とは、その空(悟りの中)で、数々の悟りが関連付けられ圧縮展開される、その記憶の、究極の悟りの場。

そのすべてに存在し得るのは、記憶のみ。



つまり、すべては、”こうありたい”、という、”私”、の、”一念”、が、つくりだす、記憶。



11.16 06:30 ごろ記す。


真とは何か、善とは何か、美とは何か。

何か、とは、その真理を問う。
何故か、とは、その因を問う。
どうなるか、とは、その果を問う。


日常の生活。実は、空(悟りの中)に、生きている。

たえず、何か、何故か、どうなるか、と問いかけている。

これ、いくら?
何故、そんなに高いの?
これは、何?
何故、悪い?
あれ、どうなの?
どうなるの?
何故、怒っている?
何故、悲しいの?
幸せって、何?
あの人、誰?
何故、生きるの?
何故、死ぬの?
死んで、どうなるの?
・・・

そのたくさんの問い、疑問の合い間に、そのそれぞれに関連した環境と喜怒哀楽とがあり、それらの問い、疑問に答える、自他の、”声”、がある。



ちなみに、
真とは、ほんとのところ。
善とは、利他。
美とは、利他に生きる心(一念)のあらわれ。

その日常の生活、実は、空(悟りの中)で、あの特別な、”その時点”、では、その人の縁ある縁のすべて(過去、未来の時間、空間の環境での、その縁ある縁の記憶のすべて)が圧縮され、より重要な問い、疑問、その答え、その環境、のみが抽出、拡大され、関連ずけられ、展開され、その展開される真理の関連に糸目なく、その驚きの数々の真理とその関連の驚きの展開に、わかった、わかった、わかった、の、あの歓喜の連続と、そして、なんだ、そうだったのか!すべてがわかった!の、あの大歓喜で終わる。

そして、
すべて忘れて、もとにもどって、残った仕事をする人もいれば、

そして、
すべて忘れて、光につつまれる人もいる。

(2010.10.04)
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