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不安

”心配”とか”悩み”とか”不安”とかは、高い知性をもつ生命 (創造する意志)が、将来、自分や自分の愛する人、もの等に対する破壊の予測があるとき、 つまり、将来自分や自分の大切にしているものに対して、破壊の選択を強いられたり選択したりする 可能性が予想されるとき、その生命は”心配”し、”悩み”、”不安”になる。また、選択肢に迷ったり、 強制されたり、 自由が自由でなくなることから”苦”を感じる。


自分や子供が重い病気になった時、当然、そのことで頭が いっぱいになる。将来選びたくない 選択肢を強制される”不安”から、どうしたら逃れられるかの選択の”悩み”となり、その選択が見出せない 不自由の”苦”となって現れる。この時、自らより良い選択肢を選ぶことができれば、 ”悩み”や”苦”はその選択の最善の度合いにより軽減される。


反対に、この時安易に”苦悩”から逃避して、 薬やアルコール等を 選択して依存したり、さらにインチキな宗教、思想、マインドケアー(インチキ催眠等)などを選択する ことは非常に危険で すべての破壊につながる。


一時的な”苦痛”の解放は他の生命の属性(喜怒哀楽等)と同じように薬やアルコール、催眠、脳の物理的な 刺激、等でも現れるので、”苦痛”を長く感じていると、安易に薬やアルコール等に依存したり、 わらをもつかむおもいで誤ってインチキな精神療法等に引っかかって、お金だけでなく、 身も心も破壊されてしまったりする。


”悩み”がそれほどでもない人も刺激のない虚無的な生活から 抜け出したいとか好奇心から安易な道を選択し、薬やアルコール、催眠や変な精神修養、 精神治療などにのめり込んで心身ともに破壊されてしまうこともある。 特に安易に宗教(薬やアルコール、催眠等の依存も、りっぱに宗教している 姿だけれども)、いわいる一般に考えられている宗教然たる宗教、或いは思想を選択する場合は、 より注意が必要だ。


なぜなら、宗教、思想の選択ほど重要かつ 危険なものはなく、想像以上に 生命の根本的なところに深く関わり、ちょっとした思い込みや勘違い、気休めであっても 生命の根っこにある”考え”というのはその生命の 全活動を規定してしまうもので、安易に済ませる問題ではないからだ。 その選択こそ、実は、単に生命の一時的、一生の問題以上の、 生命(”私”)が生命の目的を 達成するかしないかの紙一重の根本の最大事の ”一大事”の問題となる。最善の選択とは、まったく根本的に本源的にこの選択に よるもので、 宗教に無知な人のとうてい 考え及ばない生命の”一大事”の選択、それがこの一瞬の選択で決まってしまう。そして、 これほど難しい選択もない。なぜならどれが最善か最悪かその選ぶ生命の境涯によって見えないものが 見え、見えるものが見えないからだ。たとえば、電気の回路図が解る人にとってはその回路図の意味する ところやその価値が理解できるが、解らない人にとってはただの紙屑だ。目の前にいろいろな目的地に 通じる門がある。 薬やアルコール、 催眠等の門、無思想、無宗教と称して一瞬一瞬、縁によってころころ変わる心に依存する門、 いわしの頭の門から尊大な思想、宗教まで、無数にある門でどれがより良い 最善の門なのか、 よくよく検討(勉強)する必要がある。とんでもない門を選択して、あのとんでもない破壊、一人だけの自殺から、 何十人、何百万人の殺人まで、生命の破壊の悪夢が現実となってしまうことさえある。 人類はすでにその選択の恐ろしさを十分に経験している。


にもかかわらず、こと宗教に関しては、あまりにも無知の ままでいる。たとえば、仏教で、 学問仏教のいわゆる原始仏教と称して小乗の苦行や 瞑想の修行をインドの仏陀がまだ生きていた当時の正当な教えとして いる学説があるが、学問仏教は、仏教の本義、そもそも仏陀とは何かという肝心の本義すら わからないまま学問上の見方を権威でもって教条的に見てしまいがちで、学者がいくら学問上の 歴史をひも解いても、 そこには 仏教の本義は現れてこない。 学者の偏ぱな理屈に惑わされて、権威に粉飾され、かえって、エリートが騙され、とんでもない仏教とは正反対 の破壊へと落ちてしまい、さらにその恐ろしさ愚かさに少しも気付かないでいるようなことにもなる。 原始仏教やそれ以前のインドの修行法、いわゆる方便の教えである小乗的修行法の 荒行や瞑想の行き着く先は、結局、煩悩と身体との消滅、破壊(破戒) (瞑想や荒行の修行者は修行の結果の空モドキの幻想を悟りと勘違いしエリートとなって ”下位”を見下し破戒者或は生命の破壊者となる)しかなく、仏教の本義からは程遠い。 また、宗教、思想はすぐに露見する大破壊よりも、じわじわと何十年何百年と生命を 破壊していくもののほうが遥かに恐ろしい。今崇められている宗教上の儀式や風習、さらに聖人、 上人とかいわれている偶像などにどれだけその名に値するものがあるか。かえってその正体を知ったら、 無惨としかいいようのない物だったりする。よくよくその外面の華やかさ、侘しさ、哀れさ、等の情緒的な 判断基準で判断しないようにしたい。まして、マスメディアを使って、情緒的美しさだけをとらえて、 宗教上、思想上の教義をうやむやにして、その 儀式、風習等を事実報道以上に脚色し、公に流してしまうことは、特に注意を要する。 視聴者はその情緒の背後にある 宗教上、思想上の教義思想がわからないまま、情緒の世界から思わぬ落とし穴へと落ちてしまう危険性が ある。今悩んで、わらをもつかもう としている人は、情緒の背景の思想の善悪を知らずして、安易にすがってしまいがちで、 そのすがった宗教、思想なりが生命の破壊に通じていくものであったならば、 取り返しのつかないことになる。


これまで世界が経験した悲惨のすべては、 人々のこの無知によって 引き起こされたものといっても言い過ぎにはならないだろう。善悪が転倒し、破壊が創造を押しのけ文化が 国家が人々が 破壊され衰退しゆく 原因は、破壊の思想とともに人々を無知のままにさせておこうとする思想なり宗教なりが人々の心の奥 深くまで浸透しているからだということに 早く気付こう。


それには、いままで信じられている価値観なり思想なりを 根本的に掘り起こし問い直し検証してみる必要がある。


(1998.4.29)

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