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思議し得ない存在を、空という。


個々の生命の、個々の認識機関では、認識できないが、 存在するもの、或いは、認識できないが、可能態として存在するものを、空という。 "一つ"のものや、縁起による"絶対"なるものの追求といったような空観も、有にあらず (認識できない)、無にあらず(存在する)、これら有無ではないが存在 するもの(空)、の空観につきる。


従って、空を認識することは、不可能であり、生命の 認識機関 が働かない状態(死)での体現によるしかない。


今のところ、生きながら死ぬことはできないから、 生きながら空は体現できない。座禅や瞑想による空の体現など、とんでもない話で、 そこで体現できるのは 、"空もどき"でしかない。それよりも、死の近くまでいって、かえってきた人のほうが、余程、 空に近い体現をしているはずだ。もっともそれが空に近いとは気がつかないけれども(空は認識できないから)。


しかし、たとえ、死で、 空を体現したとしても、その空は、その時のその生命の境涯の空であって、苦の内に体現した空は、 "苦そのもの"であるし、ある欲の内に体現した空は、その"欲そのもの"でしかない。つまり、 それぞれの境涯における空をそれぞれの空として体現するのであり、空そのものを体現するわけで はない。すると、最高の優位の境涯(仏界)の空が、最高の空ということになる。


すなわち、生命の属性の浄化なしに、 空の体現といっても、無意味だということだ。生命の属性の浄化は、利他によるしかない。 座って眠り込ん では、決っしてできないものだ。禅の最高峰である天台禅も、行き着くところは、利他である。


だから、仏陀の悟りも、空(死)の体現にはなく、 いかによく生きいるか、いかにして、生命の究極の目的である、最高の優位の境涯(仏界)に生命(人間)を 導くか、 にある。今やるべき利他を忘れての、空(死)への修行が、いかに仏陀の思想とかけ離れているか、 生命の目的からそれているか、白衣や袈裟(宗教上の権威)に惑わされて、罠にはまってはいけない。 "空(死)もどき"は、薬を使ってもできるものだから、変なものに引っかかると、洗脳されて、 自力で立ち直れなくなる。


また、座禅や瞑想は、仏陀の悟りを、仏陀の仕方 で得る方法だ、などという人もいるが、 座禅や瞑想では、仏陀の悟りは得られない。 理由は、すでに、その悟りそのものである"法華経"が存在し、説き尽くされているので、 "座禅や瞑想"で 仏陀になる機根 の生命(人間)は、出現する必要がないからだ(ちなみに、座禅や瞑想で、仏陀になれる機根の生命(人間) の出現は、 万年に一人、という数)。 つまり、”法華経”出現の後は、"法華経"でのみ、仏陀の悟りを 得られる人間だけが、出現するということだ("法華経"で仏陀の悟りを得られる数、無量)。 ただ、まだ法華経の存在しない、他の遠い星での話なら、或いは、座禅や瞑想で、 その万年の一人になれるかもしれない。


つまり、仏道修行といっても、現実社会から遊離した 逃避にはなく、 今の現実社会に積極的に関わり、"自立の道"を教えていく以外にないということだ。


その"自立の道"とは、"法華経"である。


(1997.9.12)

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