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舎利弗

阿弥陀経を聞いても真理を 求めるこころが強いゆえに、その矛盾した方便を信受することができず、 それら方便教から徹底的に嫌われ敗腫とまでいわれた”私”舎利弗。 その智恵の優れていることから慢心になり 己ひとり尊しとして大衆を見下し山林にこもる”私”舎利弗。 盲目の乞食(こつじき)に自分の目をやり臭いと唾をかけられ 退転してしまった”私”舎利弗。そしてついに法華経にたどりつき、”仏”の慈悲により方便品の冒頭で 舎利弗、舎利弗と六度まで呼ばれ、ついに”諸法実相”の妙理を悟り菩薩となって”仏”の記別を受けることが出来た ”私”舎利弗。


”神”は、何に故に悪人を創りたもうた!

”神”は、何に故にホロコーストの悲惨を創りたもうた!



”私”舎利弗は、この不信のために”神”から唾をかけられ、 ”神”を殺し、この世を”不条理”の世界、物質の固まりであるとし、ただひたすら”神”を呪い人を憎み山野に 閉じこもり、動植物に親しみ、人間は地球のガンであると決め付け、大衆はアリの群であり、 すでにあるこの世界は物質の法則に従って、どうあがこうが人間も 虫けらと同様いずれは無となりそれでもこの世界は変らず、 人間などほんの偶然の一過性の宇宙のほんの小さなゴミみたいなもので、 あきらめと虚無と憎悪と不信とで、欲望の赴くままが”自由”だとし、 ”神”に代わった物質に与えられた”今”を生きていた。


無から生まれ無に死んでいくとする”私”は、 ”私”の存在する以前にすでに存在する世界に対してほんのちっぽけな束の間の断片でしかなく、”私”は 永遠の”神”の子であり、永遠に”神”の子として、ソクラテスもデカルトもカントもサルトルもまた永遠に”神”の子として 永遠に大人になれずにいた。


その”神”が、””私”はあなたである”、とのたもうた。 永遠に隔たった”神”と、子である”私”とが、 その”神”の一言で、本来の”神”の子としての、いずれ大人(神)になる(永遠であることを知る) 子としての”私”の立場を 明かされたのだ。 これ以上の真実、これ以上の”神”の慈悲があるだろうか。”神”はついに真実を語られた。 遠くて偉大な”神”が最も近くて卑小な”私”のその最高の生命であろうとは。


本来、無明である”私”の引き起こした善悪の振る舞いを ”神”の所為(せい)にし、或いは自然の、運命の、或いは摂理の、法則の所為にし、 或いは”私”以外の何か大きなものの所為にし、 ”神”を恨み呪い殺し、或いは大悪となって反発し、或いはあきらめとなって束の間の虚無に生き、 或いは欲望の赴くままが”自由”だとし、 ”神”に代わった物質に与えられた”今”を生きてきた。


その”私”舎利弗が、 やっと法華経にたどりつき真実を知り得たときの喜びは、ただただ感謝せずにはいられない。 方便教から徹底的に嫌われ敗腫とまでいわれた”私”舎利弗を 最後の最後まで見捨てずに六度まで”私”の名を呼び自力で這い上がれるまで引き上げてくれた ”仏”の慈悲に感謝せずにはいられない。これが方便品での”私”舎利弗の気持ちです。


そこで”私”舎利弗は”仏”に誓いました。まず、 無辺の衆生を度することを(衆生無辺誓願度)。 そのためには無数の煩悩を明らかにみて使いきり(煩悩無数誓願断)、 無尽の法門(真理)を知り尽くし(法門無尽誓願知)、無上の仏道を成就いたしますと(仏道無上誓願成)。

[四弘誓願]


その様子を”仏”は静かにご覧にり、深く頷いて”私”の 頭(こうべ)をなでられ、そして”私”舎利弗に”仏”の記別を授けてくださいました。涙が滝のように流れ、他の声聞も 衆生も共に涙を流し、 その感涙の声は世界に響き生命の奥深くに刻まれました。


十界の衆生の涙、海となり、

霊山の久遠の誓い、山となり、

地球は涙の一滴

提婆、泣き泣き、 天王如来

舎利弗、泣き泣き、華光如来



舎利弗とは梵語の当字で、”身子”と訳し、 ”身”は色(肉体、物質)、”子”は心(精神)をあらわし、”色心不二”の道理を示し、 舎利弗(羅什の翻訳)の”舎”は空諦、 ”利”は仮諦、”弗”は中諦をあらわし、”円融の三諦”、”一身即三身”の道理を示す。つまり”私”舎利弗とは 本来、一身即三身如来の”私”でありながら、慢心のゆえにその道理に気づけず、 自身の一身即三身如来の”私”を開けずにいる増上慢の理性のことだ。


この増上慢の理性は、弱肉強食の動物界をみて、 自分も動物に違いないのだからこの頭をせいぜい利用して片っ端から弱いものの肉を食らおうと、 三毒(貪瞋癡)の思うがまま自分の内外の身体を破壊し続け、 とうとう今、自他ともの破滅の危機に瀕している。


この三毒(貪瞋癡)に侵された狂った理性の 殺戮や子供じみた破壊を やめさせようと、”仏”は”私”舎利弗に 一大事因縁の妙法蓮華経を教えられた。”一妙空なる”私”は、大法風なる”言葉”のもとに、 蓮華因縁たる水火の”活力”によって、 事の一念三千たる経の地の”世界”を創造する”、を教えられた。”私”とその”世界”とは、 ”妙法蓮華経”とその”空風水火地”との繰り返しであり、”妙”を解釈する”法”を根本として世界を創り、 最高最善の解釈から最高最善の世界が創られることを教えられた。


つまり、法が最高ならば最高の、 最低ならば最低の世界となり、その法の内容として、絶対の真理(法則)から、 絶対的なものと勝手に解釈された思想や思い込みや幻想、錯覚、迷信、信念といったようなものまで、 これらの法を信じ、これらの解釈に基づいて、単なる思い込みにはその思い込みの世界、 幻想には幻想の世界、弱肉強食には弱肉強食の世界、破壊には破壊の世界、そして 何かわからない”神”、何かわからない”真理”に対しては、その何かわからないところにわかりやすい三毒が 入り込みすり替わって、”神”の名、”真理”の名を利用しながら、”神”や”真理”に責任をなすりつけ、 その三毒の世界を創り出す。


その迷妄の衆生を、それぞれの時代に、 それぞれの地域で、その時代と場所と場合とによってそれぞれに方便を説いて引誘し、 ”仏”(生命)はついに無上道(無分別法)を説き、 最高最善に解釈された”法”が最高最善の”神”(生命)の”摂理”であることを明かす。 愛を説き意志する”神”は”生命”であり、絶対者の”神”はその”法”(真理)であると。


”蓮華”の花に託された”生命”(仏)の思いは、 ”妙法蓮華経”の”法”(真理)となり、その”法”(真理)を信受する”私”舎利弗が、”南無妙法蓮華経”の ”私”(一身即三身如来)となって花開く。


(1999.2.3)

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