妙法蓮華経譬喩品第三

この品の題目の骨子は、 方便品で明かされた一念三千の理を理解し、身、口、意の三業で、”妙法蓮華経”、を、信受し、四弘誓願の 南無妙法蓮華経菩薩となった、”私”、舎利弗に、その舎利弗の一身即三身如来の、”私”、が、仏の記別を与え、 その舎利弗もまた、”今、ここ”、で、仏となり三世諸仏の儀式に則り方便小乗権大乗を説いたあと、最後に 実大乗の法華経を説き衆生を 得度させるを説く。 さらに法理だけでは信受できない下根の二乗の、”私”、の、ために譬喩を用いて得度させる。 すなわち、譬喩とは、解釈であり、定義であり、方便であり、現象であり、 世界であり、一であり、多であり、永遠であり、一瞬であり、生命であり、 生死であり、苦楽であり、”私”、で、あり、・・・、 三車火宅の譬えの、火とは、”私”、の、煩悩であり、魑魅魍魎(ちみもうりょう)とは、 その煩悩の火の縁にあぶりだされた、”私”、の、果報の姿であり、三界とは、”私”、の、欲望(生理)の世界、”私”、の、精神(理性)の世界、 ”私”、の、物質(物理)の世界であり、 宅とは、”私”、の、身体であり、門とは狭き門の、”今、ここ”、の、火宅の九界から出る門(生死即涅槃)(生死の 苦縛を解き放ち寂滅常住の涅槃を得る)であるとともに、”今、ここ”、の、 火宅の仏界に入る門(煩悩即菩提)(煩悩の薪を焼いて菩提の光を得る)でもあり、 遊ぶ子供たちとは、”今、ここ”、の、九界の迷いの衆生の、”私”、で あり、父とは、”今、ここ”、の、一身即三身如来の仏界の、”私”、であり、三車とは、”今、ここ”、の、九界の迷いの衆生の、”私”、の、ために方便として 用意された乗り物(教え)で、羊車とは声聞乗のことで、理性によって情欲をコントロールするを説き、 さらに真理の探究へ促し、小乗の解脱をその目的地とする。鹿車とは縁覚乗のことで、 理性によって情欲をコントロールすることの限界を説き、世の不条理、虚無、諦め、 すべてを利己的に解釈し慢心で 理屈っぽく他者に 対する思いやりに欠け利己の楽のみを求め 苦を味わう、”私”、或は、欲望の赴くままが自由だとして利己の欲望のままにその智恵を使い他者を破壊し、自身をも破壊する、”私”、 或は、理性的で真理を探究し美や利を追い求め真理や美や利を極めることが目的と思い込み自身の利のみに 明け暮れる 頑迷な、”私”、のために用意された声聞乗(声聞の乗り物)のこ とで、鹿車とは、つまらない考えや迷信や思想、情報を信じ込み虚無や諦観等を小吾し、 惰性に生き慢心のゆえに物事を斜に見て 他者に対する思いやりに欠ける、”私”、 或は、美や利を極め雲の上に居を構え、そこに安住し下界を見下ろしながら退屈な仕事、 退屈な生活しか創造できず退屈な日々を過ごす退屈な”私”、 或はひとり山野(象牙の塔)にこもり真理を探究し真理の一分を悟るがその小悟に執着しさらに上を 求めようとせず自らの世界にこもり 他者に無関心な、”私”、の、ために用意された 縁覚乗(縁覚の乗り物)のことで、 牛車とは、すでに生まれつき慈悲心が強く苦しんでいる人や生命に対して救けずにはいられない善根の、”私”、 或は、すでに理性によって利己的な二乗を越えた利他の行為が生命の目的であることを 理解し衆生救済に励む、”私”、 或は、すでに善なる対境(神、仏、天等)の教えに従うゆえに、二乗を越え衆生救済に励む、”私”、の、ために 用意された菩薩乗(菩薩の乗り物)のことで、 大車(大百牛車)とは、前三乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)の次第方便によって機根の熟した、”私”、の、ために 用意された(真の目的とその手段が説かれた) 実大乗(本化の菩薩(地涌の菩薩)の乗り物(一仏乗))のことである。

すなわち、”私”(一身即三身如来)は行為しない生命とその法則に則った世界を身体とする生命であり、 その生命の法則に則った創造する意志としての、”私”、は、常に大慈悲に住み、 生命の破壊には苦を、生命の創造には楽を説き、 物理にしか従えない生命のためには色界(物質の世界)とその法とを説き、 その世界の中で生理にしか従えない生命のためには欲界(欲望の世界)とその法とを説き、 その世界の中で理性にしか従えない生命のためには無色界(精神の世界)とその法とを説き、 その世界の中で方便(解釈の便法)にしか従えない生命のためには方便土(二乗の世界)とその法とを説き、 その世界の中で実報(菩薩の至福の善報)にしか従えない生命のためには実報土(菩薩の世界)と その法とを説き、 その世界の中で寂光(最高の生命の智恵)にしか従えない生命のためには寂光土(仏の世界)とその法とを説く。

さらに、欲望の赴くままに理性で都合よく解釈しながら利己のために他者を 破壊し続ける”私”にとって煩悩とは火のようなものであり、その報いの貪り瞋り癡かな姿は 煩悩の身体の火宅から あぶりだされた虫けらの境涯の姿(餓鬼界)であり、それに気づかずエゴのままに生き続けている”私”が すでに自他ともの破壊の危機に瀕しているのを父である一身即三身如来の”私”が見て何とか 助け出そうとする。

まず、欲望の赴くままが自由だとし利己のためにその智恵を使って 他者を破壊し続ける”私”に対して、父である一身即三身如来の”私”は九界からの 出口であるとともに仏界への入口である狭き門を示す(華厳時、或は生死即涅槃、煩悩即菩提の 円教のさわり、或は一つとしてしか存在し得ない常住の生命を無限の多様な 変化の中の一瞬の生命の”私”として常に明らかにしている)。しかし 煩悩に惑わされている子供の”私”はその煩悩が 火となって”私”の身体を焼いて自分が焼け出された三毒の虫けらの果報の姿であることもわからずにいるので、 その父の声も聞こえずその門も見えずにいる。そこで父である一身即三身如来の”私”は方便を用いる。

はじめに、この大きな世界に偶然に生まれ偶然に死に行く ちっぽけな”私”の一生にせいぜいこの智恵を使って利己の楽を得ようと 真理を利己的に解釈し利害に傾き、 すべてを利己的に解釈し慢心で 理屈っぽく他者に対する思いやりに欠け利己の楽のみを 求め苦を味わう”私”、或は欲望の赴くままが自由だとして利己の欲望のままに智恵を使い他者を 破壊する”私”、或は理性的で真理を探究し美や利を追い求め真理や美や利を極めることが目的と 思い込み自身の利のみに明け暮れる頑迷な声聞の”私”のために、

道理をよく分別し理性によって破壊の苦から逃れることのできる”私”には、 天の道、自然の理、道徳律、真理、法則、等を説き、 析空観、生滅の四諦の真理とその修行法としての戒律、禅定とその目的の境涯としての無余涅槃を説く。

例えば析空観による生滅の四諦では、小乗の仏の声として、 エゴの対象である”私”とは本来空であり、 慢心、利己、理屈、意識、私、快感、幸福感といった 煩悩(精神作用)に執着するから苦となり、 その執着がある限りこの世は苦の世界であり、その苦の縁たる煩悩(精神作用)も本来空であり、無常、 無我であるから、その煩悩(精神作用)を滅すれば苦から開放され苦楽を 超越した世界(無余涅槃)に入ることができ、その無余涅槃が生命の目的であると説く。 しかしこれは小乗気根の衆生(声聞、縁覚)を小乗の真理と修行法とによって 自己の身、口、意を律し大乗に入る気根を整えるためのもので 小乗の目的とされる無余涅槃は身体の消滅(灰身滅知)(認識器官の消滅)による方便の寂滅にすぎず、 方便だから邪智(方便と承知で利己のために利用する悪知識)には かえって利己のための欲望の手段となる(方便土)。

次に、智恵はあるが小智であるために”私”が死ねば”私”を含めてこの世界のすべてが無になると考え、 或は”私”が死んでも 無になるのは”私”だけでこの世界は常に存在すると考え、つまらない考えや迷信や思想、 情報を信じ込み虚無や諦観等を小吾し、 惰性に生き慢心のゆえに物事を斜に見て 他者に対する思いやりに欠ける”私”、或は美や利を極め雲の上に居を構えそこに安住し下界を 見下ろしながら退屈な仕事、 退屈な生活しか創造できず退屈な日々を過ごす退屈な”私”、 或はひとり山野(象牙の塔)にこもり真理を探究し真理の一分を悟るがその小悟に執着しさらに上を 求めようとせず自らの世界にこもり 他者に無関心な縁覚の”私”のために、

一つと思いこんで苦を味わう(生命を破壊する)”私”には多を教え、 多と思いこんで苦を味わう(生命を破壊する)”私”には一つを教え、有限と思いこんで 苦を味わう(生命を破壊する)”私”には無限を教え、 無限と思いこんで苦を味わう(生命を破壊する)”私”には有限を教え、 絶対と思いこんで苦を味わう(生命を破壊する)”私”には相対を教え、 相対と思いこんで苦を味わう(生命を破壊する)”私”には絶対を教え、 声聞乗を会得したものには、体空観、無生の四諦、十二因縁の真理とその修行法としての戒律、 禅定とその目的の境涯としての無余涅槃を説く。

次に、すでに生まれつき慈悲心が強く苦しんでいる人や生命に対して救けずにはいられない善根の”私”、 或はすでに理性によって利己的な二乗を越えた利他の行為が生命の目的であることを理解し 衆生救済に励む”私”、或はすでに偉大なるもの(神、仏、天等)の教えに従うゆえに二乗を越え 衆生救済に励む菩薩の”私”のために、

利己のために苦を味わう(生命を破壊する)”私”には利他を教え、 生まれつき善根の”私”にはさらに楽を味わう実報の福楽を教え、 菩薩乗を説く。

そして、 それぞれにある時は天の声として、ある時は自然の声として、ある時は神の声として、 ある時は仏の声として、ある時は聖者の声として、ある時は賢者の 声として、ある時は父の声として、ある時は母の声として、ある時は友の声として、ある時は歌の心の声として、 ある時は名曲の旋律の声として、ある時は小説や映画の主人公の声として、 それぞれにそれぞれの身、口、意の三業で受持させ、 破壊の苦を除き方便土に安住させる(阿含時、或は、礼節、戒律、禅定、等によって衆生の気根を 整える)。

煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じ、



(1999.1.15)