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二乗

小乗教のヒーローである"二乗"の、"声聞、縁覚"は、 大乗教で容赦なく嫌われ、法華経以外では、"敗種"といって、"成仏"は出来ないとされている。


"二乗"の特質と その功績は、 真摯な真理の探究によって、"小悟"を得、真理の一部を解き明かすことにある。


しかし、ともすれば、その、部分の真理に執着し、 大きな視野で物事が見えなくなり、その慢心の故に、象牙の塔や、人里離れた山中に 閉じこもり、高い所から、下を見下ろすようなかたちでしか、世界を見ようとしなくなるため、 現実社会から遊離し、 大衆は、蟻のようにしか見えず、善悪の判断が変質し、他者をかえりみなくなる。 その小我に執着するインテリ臭は、利他を旨とする大乗にとっては、極悪よりも、遥かに、 はなもちならないものとなり、 法華経が説かれるまで、"永不成仏"とされ、徹底的に嫌われた。


法華経で"二乗"の"成仏"が 許されたのは、"二乗"を含めた、生命の真の姿とその目的とが示され、 それまで"二乗"の目的とされてきた、 "真理の探究"による"小悟"が、"大悟"である"最高の優位"(仏界)に至るための手段、すなわち、 利他のための手段に過ぎないことがわかって、利他の精神(菩薩)を湧現した"二乗"という、 "二乗"の本来の 立場を自覚できたからだ。


しかし、"二乗"の中には、 そのマイナス面のみが現れ、他者につくすどころか、 生命の破壊に手を貸す"二乗"もいて、この"二乗"を、"才智ある畜生"という。 僅かな取り巻きか、へたをすると、自分すら愛せない、小愛のもので、 生命とその秩序の破壊(悪)のために、 その才智を使う。その罪は、最善を裏切る聖職者よりもさらに重いくらいで、 大乗で"二乗"が嫌われるのも、 その頑迷さもさることながら、 生命に与えるその影響が大であるからだ。


また、"二乗"は、生命の属性の一つでもあり、すべての 生命の内にも存在するが、強く現れるのは、人間以上の生命であり、特に、"二乗"の悪い面を、 "二乗根性"という。それは、"小悟"に執着し、他をかえりみない生命のかたくな性質で、 例えば、その"小悟"として、 "信用できるのは、自分だけ"とか、"結局、金がすべて"とか、"みんな、自分がかわいい"とか、 "善はみな、偽善"とか、"人間はみんな、ずるい"とか、"精神は、物質の反映だ"とか、 "世界は、心の認識でつくられ、実体はない"とか、"科学が幸福にしてくれる"とか、 "制度の変革のみで、幸福になれる"とか、 "自分は優秀な人間で、馬鹿とは違う"とか、"理性で、情欲をコントロールできる"とか、 "ウソも、政治的手段として正当化される"とか、 "弱い者が、強い者の犠牲になるのは当然だ"とか、"金持ちは偉い"とか、 "人には、生れながらの身分の違いがある"とか、 "人はみな悪いことをしているのだから、自分がやっても構わない"とか、 "どうせ成るようにしか成らないんだから、放っておこう"とか、 "捕まらなければ、悪いことをしても大丈夫"とか、"死んだら、無になる"とか、 "あの世には、霊魂の世界がある"とか、"私は、偶然生まれてきた"とか、 "宗教は、特別なものだ"とか、 "動植物は、人間のためにある"とか、 "世界には、善人と悪人とがいて、善人だけ助かる"とか、"悪人を殺しても罪はない"とか、 "ある人種は、ある人種よりも、優越である"とか、等、それぞれ、一人一人が、 その"小悟"として、幼稚で不合理なものから、尊大なものまで、 いろいろな"小悟"を都合よく(合理的に)解釈し、信じきって(宗教)、世界を見ているので、 その歪んだ世界を指摘されても、なかなかわかろうとせず、反って反発し、嫉妬して、 他者の破壊にさえ及ぶ。


法華経は、この"二乗"、すなわち、 りっぱな理屈をもって、かたくなに自分の"小悟"の世界に執着する、 この"二乗"のために、特に、説かれた経である。この "二乗"の"成仏"こそが、すべての生命の"成仏"につながる、最大事でもあるからだ。


その"二乗"である知恵第一の"舎利弗"が、法華経で "成仏"の記別を受けたときの喜びようは大変なものだ。それまで、仏陀から小乗教大乗教とを通じて、 さんざん聞かされ、納得してきた、 "二乗"の宿業の深さ故の、"永不成仏"、その、自分の"成仏"を完全に諦めていた"二乗"の"舎利弗"が、 最後の最後になって、法華経にきて、 はじめて、 生命の真理を悟り、"二乗"である自分も"成仏"できることがわかったときの喜びは、歓喜の中の 大歓喜としかいいようのないものだった。この喜びは、"舎利弗"だけでなく、 "二乗"だけでもなく、 "二乗"の"成仏"が明かされたことによって、すべての生命の"成仏"が可能となった、 生命全体の、喜びでもあった。


"舎利弗、泣き泣き、華光如来"

("舎利弗"は、泣きながら、仏陀から、"華光如来"の記別を受けた)



(1997.10.24)

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