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十界

”仏教”では、”生命の境涯”を 十の”範疇”にわける。
これらは、”縁”によって、”生命の階級”のそれぞれの”属性”から展開される。


(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、 縁覚、菩薩、仏)


地獄


本来は”行為しない生命”(物質)に本源的に存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、不自由の”苦”の”境涯”として展開する。


餓鬼


本来はウィルス、微生物、植物等のより低位の ”行為する生命”に本源的に存在する”境涯”で、他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、 ”生殖欲”、”食欲”、等の”欲”のみに支配される”飢餓”の”境涯”として展開する。


畜生


本来は低位から高位の主に動物等に本源的に存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、 現れれば、”善悪の分別”のない、”弱肉強食”、”尊上卑下”、等の”境涯”として展開する。


修羅


本来は”知性”を持った動物等に本源的に 存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”自己本位”で”闘争心”が強く、 常に”怒り”の感情に支配されている”境涯” として展開する。



本来はより高い”知性”を持った”人間”等に 本源的に存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”善悪の分別”を持ち、”慈悲”、”愛”、 等の高度の”属性”を所持する ”境涯”として展開する。



本来はより高位の”生命”である”人間”等の”欲”、”悩み” 等から開放された ”境涯”で、他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”快楽”、”歓喜”、 等の”境涯”として展開する。


声聞


本来はより高位の”生命”である”人間”等の高い”知性”に 本源的に存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”真理の探究”等、”知的福楽”とともに、 ”高慢”と”頑迷”とをあわせもつ”境涯”として展開する。


縁覚


本来はより高位の”生命”である”人間”等のより高い”知性”に 本源的に存在する”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”知的創造”や”真理の発見”、”悟り”等、 の”知的福楽”とともに、 ”高慢”と”頑迷”とをあわせもつ”境涯”として展開する。


菩薩


本来はより高位の”生命”である”人間”等のより高位の”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”慈悲”に住して”利他の創造”にいきる ”境涯”として展開する。



”生命”の最高位の”境涯”で、 他の”生命”には、冥伏しているか、”縁”によって、現れれば、”大慈悲”に住して”利他の創造”にいきる”境涯” として展開する。


(幸福)


今、重い”苦”の内にある人は、その”苦”の解決、 解放がない限り、 すべてが灰色に見える.。今、”喜び”の内にある人は、その”喜び”が消えない限り、すべてがバラ色に見える。 また、”地獄界の境涯”に住んでいる(傾向性のある)人の”苦”と、”天界の境涯”に住んでいる(傾向性の ある)人の”苦”とは、当然違うし、他の”境涯”、”菩薩界”、”仏界”にも”苦”はあるが、 その”苦”の性質はまったく違うものに なっている。 ”苦”、”楽”、等の”生命の属性”は”個”によっても違うし、相対的なものであって、”幸福”もまた相対的なもので ”大小”、”高低”、”長短”があり、それらは”境涯”の”高低”に比例(反比例)する。したがって、 ”最高の幸福”は、”生命の目的”、すなわち、”境涯”の向上そのものの先にある目的地、 ”仏界”にあるもので、唯一”仏界”だけが、どんな”芥”(生命の属性)を投げ込まれても、 こんこんと涌き出る”泉”のような”慈悲”とともに、”最高の自由”の”絶対的な幸福の境涯”に住んでいる。 ”創造する意志”は、本源的に、この”慈悲”を所持している ので、”創造”を”愛”し、”破壊”を”憎”むことができる。


(十界互具)


”十界の境涯”は、すべての”生命”(行為しない生命(物質)の 一塵から行為する生命のすべて)に備わっており、 ”十界の境涯”のそれぞれには、それぞれに”十界の境涯”が 含まれていて、一つの”境涯”が現れているときは他の”境涯”は冥伏している。 一瞬の”怒り”(修羅)の”縁”に会えば、一瞬の”怒り”(修羅)の”境涯” となり、一瞬の”喜び”(天界)の”縁”に会えば、一瞬の ”喜び”(天界)の”境涯”となる。また、”畜生界”である動物 として存在している”生命”もあれば、”人界”の”人間”として存在する”生命”もあり、 一生のほとんどを”地獄の境涯”に 苦しんでいる”人間”もいれば、 一生のほとんどを”声聞の境涯”に 学んでいる”人間”もいる。”修羅界”に住んでいる(傾向性のある)”人間”は、少しのことでもすぐ怒るし、 ”天界”に住んでいる(傾向性のある)”人間”は、少しのことでもすぐ喜べる。一瞬の”縁”によって、 一瞬の”境涯”が現れ、 その現れた一瞬の”境涯”と”私”が選ぶあらたな”縁”とによって、またあらたな一瞬の”境涯”が決まり、 その”繰り返し”で、 ”一生の境涯”、さらにはその”先の境涯”が決まっていく。


したがって、”生命の目的”である”絶対的な 幸福の境涯”(仏界)の道を開くには、 日々接している”縁”である”境”と、それを選択する”私”の”智”との”境智冥合”の”繰り返し”、 中でも、”最高の境”と”最高の智”との”境智冥合”の”繰り返し”が重要になる。


”智”は”境”に含まれ、 ”最高の智”は”最高の境”に含まれるから、その”最高の境”がわかれば、 その”最高の智”もわかることになる。


その”最高の境”を、”本尊”という。


その真の”本尊”が”法華経”に説かれている。


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