うるせえ奴らだ!
”助けてください、救世主様”!
だと!
あの、汚ねえ、糞(クソ)やウジムシのゴミの山からも!
聞こえてくるよ、あちこちから!
”助けてください、私は、ここにいます”、と!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、使えるなら!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、ものになるなら!
あの、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシを、掻(か)き分けても!
助けてやるよ、金になるなら!
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舎利弗の誤解。
”神”、は、何んで、あんな、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシをつくるんだ!
”神”、は、何んで、あんなゴミを、助けるんだ!
舎利弗の、その、”神”、は、神ではなく、そのゴミは、ゴミではない。
神は何もつくらないし、神はゴミを救わない。
在るものは在ったものであり、ゴミは金ではない。
在ったものは人間の私の記憶であり、金は人間でありたいという意志。
舎利弗の退転は、人間でありたいという意志の喪失。
人間でありたいという意志とは、慈悲であり、愛であり、善悪の分別とけじめ。
その人間性の喪失を、悪という。
神は、(悪のまま)悪を、助けはしない。
神は、自らを助くものを、助く。
舎利弗の目に唾をかけ捨てた盲目の乞食は、金ではない悪であり、それゆえに退転し、慈悲と、愛と、善悪の分別とけじめと、を喪失した舎利弗もまた、金ではない。
金ではないものは、それ相応の糞(クソ)やウジムシやダンゴムシの境涯でそれ相応の苦楽を受け、目覚め、金となり、救済される。
舎利弗の退転とその苦楽は、その盲目の乞食を救済しなかったからではなく、救済そのものを否定したから。
聞こえてくるよ、あちこちから!
”助けてください、私は、ここにいます”、と!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、使えるなら!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、ものになるなら!
あの、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシを、掻(か)き分けても!
助けてやるよ、金になるなら!
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