appeal

うるせえ奴らだ!

”助けてください、救世主様”!

だと!

あの、汚ねえ、糞(クソ)やウジムシのゴミの山からも!

聞こえてくるよ、あちこちから!

”助けてください、私は、ここにいます”、と!

ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、使えるなら!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、ものになるなら!

あの、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシを、掻(か)き分けても!

助けてやるよ、金になるなら!



舎利弗の誤解。

”神”、は、何んで、あんな、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシをつくるんだ!

”神”、は、何んで、あんなゴミを、助けるんだ!

舎利弗の、その、”神”、は、神ではなく、そのゴミは、ゴミではない。

神は何もつくらないし、神はゴミを救わない。

在るものは在ったものであり、ゴミは金ではない。

在ったものは人間の私の記憶であり、金は人間でありたいという意志。

舎利弗の退転は、人間でありたいという意志の喪失。

人間でありたいという意志とは、慈悲であり、愛であり、善悪の分別とけじめ。

その人間性の喪失を、悪という。

神は、(悪のまま)悪を、助けはしない。

神は、自らを助くものを、助く。

舎利弗の目に唾をかけ捨てた盲目の乞食は、金ではない悪であり、それゆえに退転し、慈悲と、愛と、善悪の分別とけじめと、を喪失した舎利弗もまた、金ではない。

金ではないものは、それ相応の糞(クソ)やウジムシやダンゴムシの境涯でそれ相応の苦楽を受け、目覚め、金となり、救済される。

舎利弗の退転とその苦楽は、その盲目の乞食を救済しなかったからではなく、救済そのものを否定したから。

聞こえてくるよ、あちこちから!

”助けてください、私は、ここにいます”、と!

ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、使えるなら!
ああ、いくらでも助けてやるよ、まだ、ものになるなら!

あの、糞(クソ)やウジムシやダンゴムシを、掻(か)き分けても!

助けてやるよ、金になるなら!



(2012.05.14)
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