appeal

その私という光は、生まれた時はどうなんですか?

私そのものに近い私という記憶の光になります。

すると生まれる以前の私は?

それも、それ以後の私の、”ぼく”、同様、確率でしかその確からしさを求めることはできません。

生まれる以前は、いつから私なんでしょうか。或いは、私そのものに近い私なんでしょうか?

それも、それ以後の私、同様、私、から、より私、より私そのものに近い私、より私そのものの私、私そのものの私、と逆方向に向かい、その身体もまた生命の進化の逆方向に向かい、そこに明確な区切りはありません。

そのすべての私が記憶でありその私の記憶の選択もまたすべて記憶であると。

”今、ここ”、の、すべては、”今、ここ”、の、私の記憶です。

つまり、すべては私であり、そのすべての私のそれぞれの記憶ということですね。

ええ、そのそれぞれの私の記憶が、”今、ここ”、の、私の記憶の選択の記憶によって逐次(ちくじ)開かれ、その私の記憶の自空間の世界が作られますが、その、”今、ここ”、で、自ら作っている記憶の時空間を、ほとんどの(人間の)私は、すでに他から与えられ以前からあるものと錯覚し思い込んで妄想し、いわゆる、その時空間に投げ込まれている私、として生活しています。

つまり、私は、”今、ここ”、の、時間も空間もない一点にいて、少しも動かず、ただすでにある記憶を選択しているだけで、その一連の選択ではじめてその一連の記憶を自空間と錯覚し思い込んで妄想している、ということですね。その記憶というのは、いつ、誰が、・・・。

”ぼく”、の、”こうありたい”、という目的が、”今、ここ”、で、完結している以上、その、”ぼく”、の、記憶もまた目的としてすでに完結していて、完結しているからこそそれは記憶とよばれ、すでに、”今、ここ”、にあるものであるからこそ、それは本有(ほんぬ)のもの、ということになります。

その、”ぼく”、や私やその目的、”その時”、”今、ここ”、は、動物や植物の場合はどうなりますか?

私そのものにより近い私、つまり、”ぼく”、により近い私であり、その目的であり、その、”その時”、であり、その、”今、ここ”、であり、空(くう)に生きていてそれがわからず、より善悪のない、より自由もより幸福もない、より苦楽の繰り返しで、残った仕事をし続け、螺旋状に繰り返しながら上昇し、瞬時により人間の私となってより善悪を知り、最高善の私となってその私という光の中で歓喜とともに清算されます。

つまり、より人間の私にとってその私はより無いに等しいと、つまり、より無私であると、・・・。

ええ、その私は、とてつもなく長い一瞬の、より人間の私の光の中に住んでいます。

ところで、その選択なんですが、より私そのものに近い私の選択、より私そのもの私の選択、とは、どういうものですか。

それは、それぞれ、より私そのものに近い私のより無意識の選択、より私そのものの私のより無意識の選択、つまり、私の内と外との身体のより無意識の記憶の選択であり、”今、ここ”、の、私の内と外との身体のより無意識の記憶の選択とまったく同じもので、すべての私の、そのそれぞれの私の、選択であり記憶であり、私の内と外との身体のより意識の選択は、すべてのその選択の記憶のほんの一部にすぎないと同時にそのすべてがその私のより意識の選択の内にあるものです。

”その時”、も、より私そのものに近い私も、より私そのものの私も、”今、ここ”、の私のより意識の選択の内にあるもの、ということですね。ところで、 そのすべて選択済みの記憶をまた選択する、その記憶の選択の記憶が自由の記憶ということになるんでしょうが、それにしても、自由はもっと新鮮で輝いているように見えるんですが。

よく考えてごらんなさい、その輝く自由の意味するところの究極の自由の何たるかを。なにもかも願いがかない、世界を自由にあやつれる、その輝かしいとする自由の世界を。その輝く世界は、純粋に突き詰めてみれば、自他の区別がなくなる世界、ただ純粋に一つの世界であり、純粋に寂しく、純粋に空(むな)しく、純粋につまらない、あの黄金だけでできている天国のように、まったく無味乾燥な無意味な世界なんですよ。不自由があるから自由があり、悪があるから善があり、苦があるから楽があり、他があるから自があり、・・・、不自由があるから自由を求め、悪があるから善を求め、苦があるから楽を求め、他があるから自を求め、・・・、と。よく考えてごらんなさい、その輝く自由の意味するところの究極の自由の何たるかを。

よく、”無の境地”、とかいって無(私)を美化しますが、それもあの黄金だけでできている天国のように、まったく無味乾燥な無意味な世界なんでね。

ええ、無の無たるを知らない無明(むみょう)が、自由の自由たるを知らないものがそれを輝いて見ているのと同じようにその黄金の天国を夢見ています。”今、ここ”、の、私でなく、方便の架空の他土の極楽や方便の架空の他者の黄金仏を求めたり、戒律の不自由の牢獄を求めることも、同じようにそれぞれの黄金の天国を夢見ています。私が無くなることが、”ぼく”、にとってどれ程の苦痛か、この世界に私しかいない、つまり私の自他がなくなってしまう究極の空(むな)しさ、寂しさ。この世界の自他の多様性の選択がどんなに輝いて見えることか。大きいものがあり、小さいものがあり、高いものがあり、低いものがあり、汚いものがあり、綺麗なものがあり、赤があり緑があり、四角があり丸があり、苦があり楽があり、悪があり善があり、・・・、と。その、”こうありたい”、という私の自他の多様性の選択の世界がどんなに輝いて見えることか。

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つまり、”今、ここ”、の、世界は、糞であり、悪であり、苦であろうとも、・・・、輝く自他があり、輝く多様性があり、輝く選択があり、・・・、と。

ええ、その、自他の、多様な、選択、こそが自由の本質です。

確かに、その自由の輝きとその喜びは眩(まぶ)しいくらいですね。

ええ、喜びは必ず苦に打ち勝ちます。だからこそ、”その時”、私は、その記憶の光の中で、”ぼく”、に至る苦痛の記憶をも、その歓喜をもって清算できるんです。

なるほど、・・・。


それは、まさに、”What a Wonderful World”、の世界ですね!







(2011.06.26)
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