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法華経の哲学者さん、こんにちわ!

やあ、こんにちわ!星の王子さま!

観世音菩薩普門品第二十五で、この法華経が説かれる時、必ず、その助けとなるものが現れる、と、ありますが、その助けとは何か、を含めて、もう少し詳しく、お聞かせいただけますか?

この品は、切羽詰った救済のために説かれています。今にも死にそうだ、とか、わが子が危ない、とか、母が病気で今にも・・・、とか、息子のことで、もう死のうと・・・、とか、倒産で、自殺を・・・、とか、私はもうだめ・・・とか、俺は死ぬんだ・・・、とかの、切羽詰った、話も音楽も聞く余裕のない私の救済のために説かれています。その境涯の私のために、是非とも、多くの言葉で説明するのではなく、少ない言葉で、一瞬でも見れるもので、一瞬でも聞けるもので、それを対境として、一瞬でも感じられるもの、を用意しなければなりません。それが、宝塔品で本尊が説かれる大きな理由です。

どうすれば、助けとなるんでしょう?

ここで、重要なのは、単なる気休めではないということです。法(法則、真理)に則った、救済の方法だ、ということです。

と、いいますと?

祈りとは、受身ではなく、もっと積極的な生命(いのち)への働きかけです。祈る時とは、初発心時です。普遍の私の生命(いのち)に関わる一大事です。普遍の私の生命(いのち)に関わることですから、その祈りは、必ず十界の普遍の私のそれぞれに通じます。祈りには、対境があります。その対境は、その当事者の私よりも、もっと、より善の普遍の私によるものでなければなりません。より善の普遍の私による対境に祈ることで、そのより善の普遍の私の生命(いのち)ばかりでなく、十界の普遍の私のそれぞれに、その祈りが通じます。同品に出てくる南無観世音菩薩の、南無とは、”心より信じます”、”受持”、”帰依(きえ)、帰命(きみょう)”、を意味します。観世音とは、目で見て、音を発して、音を聞く、こと、五感、全身によるすべての働きかけ、つまり、対境を目で見て心で祈り、その祈りの声を発して祈り、その祈りの声を聞いて祈る、ことを意味します。菩薩とは、救済を意味します。つまり、対境を目で見て心で祈り、その祈りの声を発して祈り、その祈りの声を聞いて祈る、ことで、救済されることを、私は心から信じます、という意味になります。その祈りが強ければ強いほど、祈りとして、必ず、当事者の私と、そのまわりの関わるすべての人々の私や、生命の私の、その十界の普遍の私のそれぞれに通じます。通じるとは、その十界の普遍の私の生命(いのち)に働きかけることで、その創造する意志の普遍の私の生命(いのち)の創造に、同じ創造する意志の普遍の私として、最善に応えようとします。その応えさせようと働きかけている私が、十界のそれぞれの私の中に、或いは、めったにその姿を現さない、或いは、ときどき、その姿を現す、より善の、或いは、より最上の善の普遍の私で、その働きかけで、当事者と、そのまわりの関わるすべての人々や生命の十界の普遍の私のそれぞれが、その救済に最善を尽くすよう努力するようになります。同品の、彼所執刀杖(ひしょしゅうとうじょう)、尋段段壊(じんだんだんね)、而得解脱(にとくげだつ)、や、得度者、何々身、とは、このことを言っています。また、同品の、一心称名(いっしんしょうみょう)、称其名故(しょうごみょうこ)、一心称観世音菩薩名号、受持観世音菩薩名号、等、の、その名、名号の真の意味は、法の名、宝塔品の本尊の名です。つまり、受持観世音菩薩名号とは、宝塔品の本尊(対境)の名を、目で見て心で祈り、その祈りの声を発して祈り、その祈りの声を聞いて祈る、ことで、救済されることを、私は心から信じます、という意味です。観世音菩薩普門品の普門は、そのように、十界の衆生の私に、普(あまね)く開かれ通じている門という意味です。

通じないようでしたら?

通じないようでしたら、
そのより善の普遍の私は、相対する意志する私ですから、
君臨し、支配する、絶対者の私ではありませんから、
こう言ってやります。

”助かると言ったじゃないか!”、”あなたの言う通りやっています!”、”助かると言ったじゃないか!”

と、強く責めて祈ります。

その当事者と、そのまわりの関わるすべての人々や生命の十界のより善の普遍の私は、意志しますから、きちっと、その意志を聞いて、必ず、それに応えようとします。その万事が、最善に、創造に働いても、もし、破壊が訪れた場合、つまり、死のときは、万事、最善を尽くしての死であると信じて、過失や、故意の過失があったとしても、万事の最善ではないにしても、それは別に追求し、真相を明らかにして責任の所在を正すのもよし、それを含めた万事の最善であると信じるもよし、として、その後の冥福(めいふく)、つまり次の旅立ちのために、その旅が最善であることを祈ります。死、以外の結果でも、万事を尽くしての結果であると、それを含めた万事の最善であると信じるもよし、その未来のために、祈ります。

死ぬ運命だった、とか、そういう宿命だった、とか?

運命、宿命、は、確率の問題です。確かに、そういう運命なり宿命を背負って生まれてきますが、それは、その生命に染みついてしまったものが傾向として確率的に強いというだけです。ですから、死後や未来の、運命、宿命、と同様、最善の選択と努力とでよい結果に変えられます。

哲学に、祈りとか、信を、持ち出すと、違和感を感じるのですが?

信は、知よりも、重要であり、祈りは、その信に、基づいています。また、善は、利、美、真、の、より上位の、最優先の価値です。そして、善は、実践ですから、語り口が違います。

なぜ、通じるのでしょう?

ともに感動する十界のそれぞれの普遍の私の意志だからです。

その対境は、他宗教(より正統の)の本尊でも、かまわないのですね?

ええ、その本尊が、より善の普遍の私の意志によるもので、それを絶対者の意志としなければ(その教義がより方便なものは、その本尊もより方便)、必ず通じます。よりたくさんの、より善の普遍の私の意志によるものが、より最上の善の普遍の私の意志でないはずはないのですから、必ず、より通じます。

宗教には、宗派というものがありますが、・・・?

どれがより正統かは、その決定権がより上位か、つまり、より生命の創造に関わるものであるか、その教義は確かなのか、より方便の教えではないのか、よりさらに方便の低俗な欲の入った神なり仏なりではないのか、等、の判断基準があります。

仏像なんかは?

より方便の本尊です。現在、日本の仏教は、ほとんどが葬式仏教、観光仏教です。、

神社の本尊は?

さらに、より方便の本尊です。年末年始に宣伝するようなところは、賽銭(さいせん)神社です。

それらの教義を、最善に解釈しては?

より方便であればあるほど、より難しくなります。とくに新興宗教は金儲けが目的で、その目的に沿って、いろいろなところから教義、思想を集め、その教義を飾り、騙(だま)し、お金をとり、そのことを、そのより善の普遍の私が知っていますから、それでの救済は、さらにより難しくなります。

”さわらぬ神に、祟(たた)りなし”、とか、頼るのは嫌いだ、と、いわゆる無宗教を信念としている場合は?

助けようという思いだけでも、その思いは、ある程度通じます。

当事者の私やまわりの関係者の私にも、いろいろの境涯、つまり悪いものもいると思いますが?

ええ、より善の私によるものは、十界のすべての境涯の私に通じますが、仏教の教義に出てくる、羅刹(らせつ)とかは、別名、奪命(だつみょう)といわれるくらい、極端に人間性を失った私で、しかも知恵があり、信頼を武器として、医者のような、直接、命を扱う、社会的信頼度の高い階級の私や、特に、破壊や殺戮や戦争の指導者階級の私のように、殺傷しても、その罪を問われにくいところに潜(もぐ)り込んで、善の顔や、当然といった顔で、悪さをしますから、生半可なものでは通じません。

その意味でも、より善の普遍の私による対境の本尊が必要なわけですね。

ええ、より最上の善の普遍の私の対境の本尊が、是非とも必要です。

その本尊とは、・・・?

宝塔品の本尊、つまり、法華経の法の名は、そのための本尊であり、パスワード(パスは普門から無上の境涯の普遍の私(仏界の私)(相対の神)へ通じる解脱への道の意味、ワードはその道を通るための言葉)です。

その法の名、パスワードを見て祈るわけですか、・・・?

そのパスワードを、見て祈るのもいいし、心に念じて祈るのもいいし、声に出して祈るのもいいし、見て、心に念じて、声に出して、祈るもいいし。

そのパスワードは、漢字でなければいけませんか?

ええ、本門の法華経のパスワードですから。

そのパスワードは、どこに?

この本尊-honzon-を使ってください。

”画像イメージですが、このページでは、イメージマップを使用しています。audioや他ページとリンクしています。そのため、ページ上(うえ)の情報バーに、コンテンツに対してのセキュリティー警告が表示されるかもしれませんが、安全ですので、クリックして、許可し実行してください。許可しないと動作しません。画像イメージには、
PGPサインがあります。将来は、白地を抜いた立体ホログラフィーで公開する予定です。イメージマップの入り口は、どこからでもいいのですが、一応、左上から森に入れます。表示は、ページ上(うえ)の情報バーの、表示(V)を、全画面表示(F)、に、ページ下のタスクバーのプロパティ(R)で、タスクバーを自動的に隠す、にチェックを入れると、見やすくなります。(winxp internet explorer 8 の場合)”

na mu mjø hou ren ge kjø light-http://www.dicts.info/ud.php?w=light&l1=Arabic syoten-lauretta heaven-Arie auf G Trois Marches militaires Valurile Dunarii galaxcy-Symphony 9 -chorus- piano15 Geschichte aus dem Wiener Wald inferno-in Krapfen Wald Gold und Silber tango-tango Torkischer Marsch Clarinet Polka Marches of leaden troops Radetzky march Romance de Amor Romeo and Juliet cloud-Cuckoo waltz dog-Kindersinfonie Matthauspassion -66- Matthauspassion -47- Matthauspassion -51- 空kuu-Die schone Mullerin 12 Die schone Mullerin 20 ∞-Die schone Mullerin 1 Die schone Mullerin 19 ]-vltava syoten-Die schone Mullerin 10 Voice of Spring battle-Marches of toy troops jikkai-..gate\index.html peaceful world An der schonen, blauen Donau

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another

中心の題目は、日本では、新興宗教が、よく使っていますが。

ええ、すべて、低俗な欲の入った、つまり金儲けのための、本尊、曼荼羅(まんだら)です。また、伝統あるお寺の、またそのふりの、曼荼羅も、すべて、より方便の教義であったり、さらにより方便の金儲けのための道具として使われています。また、本門の法華経の法を破壊することは、その本門の法華経の本尊を破壊することで、その本門の法華経の本尊の曼荼羅(まんだら)を、自ら、破り捨てたことに気づかない、さらに、その大謗法(だいほうぼう)ゆえの今日の濁悪世(じょくあくせ)だということに気が付かない、盲目の善人たち、というのがいます。日本では、そういったものをたくさん見てきていますから、その曼荼羅(まんだら)の題目、つまり、法の名に対して、さらに、その祈りそのものに対しても、強い偏見があります。その曼荼羅(まんだら)の法の名は、その法の理解、受持、その法を心から信じます、その法に則(のっと)る、その法とともに、等、を意味します。その唱名と、合掌と、その繰り返しは、五感全身での祈りであり、その法の原理(繰り返しの選択)であり、それに従っての行為でもあります。祈りとは、受身ではなく、もっと積極的な生命(いのち)への働きかけですから、”宝塔を見る”、も、こういった形になります。

音の認識は?

nam myo hou ren ge kyou
na:m mjø hou ren ge kjøu

と読みますが、音に限らず、見えないとか、聞こえないとかの、認識できない場合でも、その助けが必ずあります。

”困ったときの、神、頼み”、で、いいんですか?

ええ、困ったときのためのものです。

インターネット宗教と言われるかもしれませんね。

ええ、宗教に対する偏見が根強いので、批判的に言われるかもしれません。お金や命まで奪うなど、悪い面をさんざん見せつけられて無理はないのですが、一瞬一瞬の選択も、高等な選択は、その解釈を信じての選択ですから、一瞬一瞬が宗教そのものといっていいし、真の自立を真に目的とする、宗教、思想、で、多くの人を、盲目にし、お金や命まで奪うことは、その真の目的(決定権のより優位は、より生命の創造に関わること)に反していることでもあり、難しいことだ思います。

その目的である、私の真の自立に抵触しませんか?

私の、決定権のより上位の、その私に対しての祈りあり、解脱(より最上の善の普遍の私、無上の境涯の普遍の私(仏界の私)(相対の神)と、ともに感動する)への道でもありますから、抵触しません。

悪が祈れば、或いは、悪のために祈れば、悪を助けることになりませんか?

救済とは、悪(破壊)からの救済を意味します。悪(破壊)が悪(破壊)のままで助かるというのは、真の意味での救済ではありません。その救済は、創造する意志のより善の普遍の私による救済ですから、その祈りで、悪(破壊)が悪(破壊)のままで助かったとしたら、その祈りは、通じなかった、ということになります。

あとは、その、より善の十界の普遍の私の意志の、最善による万事の努力を信じる、ということですね。

ええ、理にかなっていれば、信じることができるはずです。

(2008.11.07)
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