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靖国問題

マスコミと世論は、行政改革、財政再建、構造改革を声高に叫ぶその声に大きな期待を寄せて高い支持で首相に選んだのだから、現政権はそれらを最優先すべきで、国民がそのために期待し支持したものでないこと(靖国神社公式参拝、第9条改正)、マスコミと世論の大多数が期待していないこと(靖国神社公式参拝、第9条改正)を優先して実行するなら、それは国民に対する裏切りであり、”先の戦争は日本国の侵略戦争”として認め謝罪した国是を是認した首相として相手国の国々に対しての”ウソ”であり裏切りであり、それを”方便”として、あえて裏切るのなら、その”方便”は”ウソ”の”方便”であり、破壊の”方便”だから後が大変なことになる。何が”方便”で、何が”ウソ”で、何が裏切りで、何が破壊で、何が大変か、というと、
靖国神社は、本来自然神の信仰から生まれた自然神道を、国が国民の精神的統合の目的で国の組織として組み入れ、時の国策で軍隊が運営していたいわゆる”国家神道”の建造物であるとともにその象徴であり、その、時の国策とは、戦時中、敵と戦って死ねば靖国の神となって靖国神社に祀られるとして国民の戦意を煽り、人殺しをさせて戦果を上げた大東亜共栄圏の拡大政策でありその実態は近隣諸国への侵略戦争政策であって、その国策のために、天皇をその”国家神道”の大本の現人神(あらひとがみ)にまで祀り上げ、徹底した中央集権国家全体主義体制をとって、他国、他民族、そして自国民をも破壊し尽くしたというものであり、”神”と”ウソ”とを破壊の”方便”(道具)に使った典型だ。今の靖国神社が一般民間信仰の自然神道であるかのように装い”国家神道”などなかったような顔をしていても、やはりその本性は上述の経緯からも”国家神道”であり、”国家神道”の復権を求める勢力も依然として存在し活動しており、さらに国の英雄としてA級戦犯が祀られてもいる。また、一緒に祀られている大多数の戦争犠牲者は、そのA級戦犯とその取り巻きとが引き起こした戦争の犠牲者であり、その犠牲者が当のA級戦犯と一緒に祀られては可哀相に思えるけれど、本当は、可哀相なのはそのA級戦犯の方で、何百万の戦争犠牲者の亡霊に絶えず後ろからその頭を叩かれている。その戦争犠牲者に対して、どうしても、純粋に、”一国の首相の信条として”、終戦の日に国を代表してお参りしたいというのであれば、なにもその”国家神道”の靖国神社にこだわる必要はなく、”国家神道”とも靖国神社ともまったく関係のない、より宗教色のない、戦争犠牲者慰霊堂なり慰霊碑なりを国で建てそちらにお参りをすればいい位の話で(より宗教色をなくすのは”国家神道”の苦い経験から国家権力と宗教との結びつきを現憲法が禁止しているため)、それを敢えてこだわってその”国家神道”の靖国神社に国を代表してお参りし、国の支出として(私の支出としても内閣総理大臣という国の代表という公人の身分で)玉串料を払えば、国が再び”国家神道”を認めた形となり、過去の”国家神道”による侵略戦争をも正当化する形となって、”先の戦争は日本国の侵略戦争”と国が認め詫びた国是が、相手国の国々に対しての破壊の”ウソ”の”方便”、”裏切り”となってしまい、先の大戦の日本国の何百万の人柱、否、世界中の戦争犠牲者からその頭を叩かれ、それだけではなく、それを許した日本国も叩かれ、そんな国の文化には触れたくもないし、その国の生産物は口にするのも使いたくもないということになり、その欺瞞性のために、その国の文化も、生産物も、それまでの善の行為も、それによるそれまでの信頼も償いもそのすべてが破壊されてしまう。幸いマスコミはまだ自由にものが言えるのだから、靖国神社に関わる過去の事実と現在の事実とを詳しく国民に知らせ、その詳細な事実の情報に基づく、靖国神社公式参拝に対する出来るだけ多くの国民の総意とそれによる行動がおこらなければ、また再び、”神”と”ウソ”とが、破壊の”方便”に使われ内も外もまた破壊されてしまう。偏狭の人の偏狭の日本の誇り(実際は恥じだけれども誇りと思っている)を通せば、世界の、普遍の人間の誇りが許さず、信用を失った商売人が商売できるはずもなく、現政権の公約で喫緊の問題でもある日本経済の再建など望むべくもなくこれもまた破壊の”ウソ”の”方便”ということになる。日本人はカリスマ性に弱く今のような経済的精神的状況では強権に屈し集団としてかたまりやすいから諸国がきちっとした対応を、例えば、過去の蛮行に対する反省のない野蛮国からは援助も支援も一切受けないというくらいの毅然とした態度を示さないと一時の国益のためにさらなる自国の犠牲者への辱めを受けることになる。ところで、”勘違い”は得てして不本意な演出をするもので、戦争で死んで”精霊”となってやっと人間の誇りを取り戻し自分の非を悟りブリキの勲章と部厚い重いコートを脱ぎ捨ててその罪を清算し、軽くなって今しも”天国”に昇ろうとしているその足元に取り付いて必死に破壊の”地獄”へと引き摺り降ろそうとしているのが、なんとも痛々しいことに、その”声”が聞こえないその”真実”の見えない、供養しているつもりでいる、”靖国”にこだわる彼らの子孫たちだということだ。創造から破壊への図式は、このような”勘違い”や偏狭な信条、理念、思い、欲などの精神の属性の種類の如何にかかわらず、意志する創造者、意志する破壊者のその意志とその行動とによって早まったり遅まったりするもので、太陽は天中にじっとしてはおらず、”成、住、壊、空”の繰り返しのその”壊、空”は、意志する創造者、意志する破壊者のその意志とその行動とによって今すぐにでもやって来るものだ。

(2001.05.14)
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