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”抑(そもそも)、今の法華経を説かるる時、益をうる輩(やから)、迹門(しゃくもん)界如三千の時、敗種(はいしゅ)の二乗、仏種を萠(きざ)す四十二年の間は、永不成仏と嫌はれて、在在処処の集会にして、罵詈誹謗(めりひぼう)の音をのみ聞き、人天大会(たいえ)に思いうとまれて、既に飢え死ぬべかりし人人も、今の経に来って、舎利弗は、華光(けこう)如来、目連は、多摩羅跋旃檀香(たまらばせんだんこう)如来、阿難は、山海慧自在通王仏、羅?羅(らごら)は、?(とう)七宝華如来、五百の羅漢は、普明(ふみょう)如来、二千の声聞(しょうもん)は、宝相如来の記べつに予(あずか)る、顕本遠寿(けんぽんおんじゅ)の日は、微塵(びじん)数の菩薩、増道損生して、位、大覚に鄰(とな)る、されば、天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云って、二乗の得道は、永く之れ無し、善人は、仏になると云って、悪人の成仏を明さず、男子は、仏になると説いて、女人は、地獄の使と定む、人天は仏になると云って、畜類は仏になるといはず、然(しか)るを、今の経は、是等が皆、仏になると説く、たのもしきかな、末代濁世(じょくせ)に生を受くといへども、提婆(だいば)が如くに五逆をも造らず、三逆をも犯さず、而(しか)るに、提婆、猶(なお)、天王如来の記べつを得たり、況(いわん)や、犯さざる我等が身をや、八歳の竜女、既に蛇身を改めずして、南方に妙果を証す、況(いわん)や、人界に生を受けたる女人をや、只(ただ)、得難(えがた)きは、人身、値(あい)い難きは、正法なり、汝、早く邪を翻(ひるが)えし、正に付き、凡を転じて、聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てて、此の一乗妙典を受持すべし、若(も)し、爾(しか)らば、妄染(もうぜん)の塵穢(じんえ)を払って、清浄の覚体を証せん事、疑なかるべし。
爰(ここ)に、愚人、云く、今、聖人の教誡(きょうかい)を聴聞するに、日来(ひごろ)の矇昧(もうまい)、忽(たちまち)に開けぬ、天真発明とも云つべし、理非顕然なれば、誰か信仰せざらんや、但(ただ)し、世上を見るに、上一人より下万民に至るまで、念仏・真言・禅・律を深く信受し、御座(おわ)すさる前には、国土に生を受けながら、争(いかで)か、王命を背(そむ)かんや、其の上、我が親と云い、祖と云い、旁(かたがた)、念仏等の法理を信じて、他界の雲に交り畢(おわ)んぬ、又、日本には、上下の人数、幾(いくばく)か有る、然(しか)りと雖(いえど)も、権教権宗の者は多く、此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず、仍(よっ)て、善処・悪処をいはず、邪法・正法を簡(えら)ばず、内典、五千七千の多きも、外典、三千余巻の広きも、只(ただ)、主君の命に随ひ、父母の義に叶(かな)うが肝心なり、されば、教主釈尊は、天竺(てんじく)にして、孝養・報恩の理を説き、孔子は、大唐にして、忠功孝高の道を示す、師の恩を報ずる人は、肉をさき身をなぐ、主の恩をしる人は、弘演(こうえん)は腹をさき、予譲(よじょう)は剣をのむ、親の恩を思いし人は、丁蘭(ていらん)は、木をきざみ、伯瑜(はくゆ)は杖になく、儒・外・内、道(みち)は異なりといへども、報恩謝徳の教は、替(かわ)る事なし、然(しか)れば、主師親のいまだ信ぜざる法理を、我、始めて信ぜん事、既に違背(いはい)の過(とが)に沈みなん、法門の道理は、経文、明白なれば、疑網(ぎもう)、都(すべ)て尽きぬ、後生を願はずば、来世、苦に沈むべし、進退、惟(これ)谷(きわま)れり、我(われ)、如何(いかん)がせんや、聖人、云く、汝、此の理を知りながら、猶(なお)、是の語をなす、理の通ぜざるか、意の及ばざるか、我、釈尊の遺法をまなび、仏法に肩を入れしより已来(このかた)、知恩をもて最とし、報恩をもて前とす、世に四恩あり、之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす、予、父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思うが故に、身命を捨つる事、敢(あえ)て、他事にあらず、唯(ただ)、知恩を旨とする計りなり、先ず、汝、目をふさぎ、心を静めて、道理を思へ、我は善道を知りながら、親と主との悪道にかからんを、諌(いさ)めざらんや、又、愚心の狂ひ、酔って毒を服せんを、我、知りながら、是をいましめざらんや、其の如く、法門の道理を存じて、火・血・刀の苦を知りながら、争(いかで)か、恩を蒙(こうむ)る人の、悪道におちん事を歎かざらんや、身をもなげ、命をも捨つべし、諌(いさ)めてもあきたらず、歎きても限りなし、今、世に眼を合する苦み、猶(なお)、是を悲む、況(いわん)や、悠悠(ゆうゆう)たる冥途の悲み、豈(あ)に、痛まざらんや、恐れても恐るべきは、後世、慎みても慎むべきは、来世なり、而(しか)るを、是非を論ぜず、親の命に随ひ、邪正を簡(えら)ばず、主の仰せに順はんと云う事、愚癡(ぐち)の前には、忠孝に似たれども、賢人の意には、不忠不孝、是に過ぐべからず。
されば、教主釈尊は、転輪聖王(てんりんじょうおう)の末、師子頬王(きょうおう)の孫、浄飯(じょうぼん)王の嫡子(ちゃくし)として、五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理(ことわり)をさとり、出離解脱の道を願って、世を厭(いと)ひ給しかば、浄飯大王、是を歎き、四方に四季の色を顕して、太子の御意を留め奉らんと、巧(たく)み給ふ、先づ、東には、霞たなびくたえまより、かりがね(雁音)、こしぢ(越路)に帰り、?(まど)の梅の香、玉簾(たまだれ)の中にかよひ、でうでう(嫋々)たる花の色、ももさへづりの鴬、春の気色を顕はせり、南には、泉の色、白たへにして、かの玉川の卯の華、信太の森のほととぎす、夏のすがたを顕はせり、西には、紅葉常葉(ときわ)に交れば、さながら錦をおり交え、荻(おぎ)ふく風、閑(のど)かにして、松の嵐、ものすごし、過ぎにし夏のなごりには、沢辺にみゆる螢の光、あまつ空なる星かと誤り、松虫、鈴虫の声声、涙を催せり、北には、枯野の色いつしか、ものうく池の汀(なぎさ)に、つらら(氷柱)ゐて、谷の小川も、をとさび(寂)ぬ、かかるありさまを造って、御意をなぐさめ給うのみならず、四門に五百人づつの兵を置いて、守護し給いしかども、終(つい)に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比(ころ)、車匿(しゃのく)を召して、金泥駒(こんじぐ)に鞍(くら)置かせ、伽耶(がや)城を出て、檀特(だんとく)山に入り、十二年、高山に薪(たきぎ)をとり、深谷(みさわ)に水を結んで、難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊、一代の教主と成って、父母を救ひ、群生を導き給いしをば、さて、不孝の人と申すべきか。”

(2005.04.30)
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