appeal

”此処(ここ)に、忽然(こつねん)として、一の聖人、坐(いま)す、其の行儀を拝すれば、法華読誦の声深く、心肝に染みて、閑?(かんそう)の戸ほそを伺(うかが)へば、玄義の牀(ゆか)に臂(ひじ)をくだす、爰(ここ)に聖人、予が求法(ぐほう)の志を酌知(くみしり)て、詞(ことば)を和げ、予に問うて云く、汝、なにに依って、此の深山の窟(いわや)に至れるや、予、答えて云く、生をかろくして、法をおもくする者なり、聖人、問て云く、其の行法、如何(いかん)、予、答えて云く、本より我は、俗塵(ぞくじん)に交りて、未だ出離を弁(わきま)えず、適(たまたま)、善知識に値(あい)て、始には律、次には念仏、真言、並に禅、此等を聞くといへども、未だ真偽を弁えず、聖人、云く、汝が詞(ことば)を聞くに、実に以(もっ)て然(しか)なり、身をかろくして、法をおもくするは、先聖の教へ、予が存ずるところなり、抑(そもそも)、上(かみ)は非想の雲の上、下(しも)は那落の底までも、生を受けて死をまぬかるる者やはある、然(しか)れば、外典のいやしきをしえにも、朝(あした)に紅顔有って、世路に誇るとも、夕には白骨と為つて、郊原(こうげん)に朽(く)ちぬと云へり、雲上に交つて、雲のびんづら、あざやかに、廻雪(かいせつ)たもとをひるがへすとも、其の楽みをおもへば、夢の中の夢なり、山のふもと、蓬(よもぎ)がもとは、つゐ(終)の栖(すみか)なり、玉の台(うてな)・錦の帳(とばり)も、後世の道にはなにかせん、小野の小町・衣通姫(そとおりひめ)が花の姿も、無常の風に散り、攀?(はんかい)・張良が武芸に達せしも、獄卒の杖をかなしむ、されば、心ありし古人の云く、あはれなり鳥べの山の夕煙を、くる人とてとまるべきかは、末のつゆ、本のしづくや、世の中の、をくれさきたつためしなるらん、先亡後滅(せんぼうこうめつ)の理(ことわり)り、始めて驚くべきにあらず、願ふても願ふべきは、仏道、求めても求むべきは経教なり、抑(そもそも)、汝が云うところの法門をきけば、或(あるい)は、小乗、或は、大乗、位の高下は且(しば)らく之を置く、還(かえ)って、悪道の業(ごう)たるべし。
爰(ここ)に、愚人、驚いて云く、如来一代の聖教は、いづれも衆生を利せんが為なり、始め七処・八会(はちえ)の筵(えん)より、終り跋提河(ばつだいが)の儀式まで、何(いず)れか釈尊の所説ならざる、設(たと)ひ、一分の勝劣をば判ずとも、何ぞ悪道の因と云べきや、聖人、云く、如来一代の聖教に、権有り、実有り、大有り、小有り、又、顕密二道、相分ち、其の品、一に非ず、須(すべから)く、其の大途を示して、汝が迷を悟らしめん、夫(そ)れ、三界の教主釈尊は、十九歳にして伽耶城(がやじょう)を出て、檀特山(だんとくせん)に篭(こも)りて、難行苦行し、三十成道の刻(きざみ)に、三惑、頓(とみ)に破し、無明の大夜、爰(ここ)に明(あけ)しかば、須(すべから)く、本願に任せて、一乗、妙法蓮華経、を宣(の)ぶべしといへども、機縁万差にして、其の機、仏乗に堪(た)えず、然(しか)れば、四十余年に、所被(しょひ)の機縁を調(ととの)へて、後、八箇年に至つて、出世の本懐たる、妙法蓮華経、を説き給へり、然(しか)れば、仏の御年、七十二歳にして、序分、無量義経に説き定めて云く、「我、先きに道場、菩提樹の下に端坐すること、六年にして、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得たり、仏眼を以て、一切の諸法を観ずるに、宣説す可からず、所以(ゆえん)は何(いか)ん、諸の衆生の、性慾不同なるを知れり、性慾不同なれば、種種に法を説く、種種に法を説くこと、方便の力を以てす、四十余年には、未だ真実を顕わさず」文、此の文の意(こころ)は、仏の御年三十にして、寂滅道場、菩提樹の下に坐して、仏眼を以て、一切衆生の心根を御覧ずるに、衆生、成仏の直道たる、法華経をば説くべからず、是を以(もっ)て、空拳(くうけん)を挙げて、嬰児(みどりご)をすかすが如く、様様のたばかり(方便)を以(もっ)て、四十余年が間は、いまだ真実を顕わさずと、年紀をさして、青天に日輪の出で、暗夜に満月のかかるが如く、説き定めさせ給へり、此の文を見て、何ぞ同じ信心を以て、仏の虚事(そらごと)と説かるる、法華已前の権教に執著して、めずらしからぬ、三界の故宅に帰るべきや、されば、法華経の一の巻、方便品に云く、「正直に方便を捨て但無上道を説く」文、此の文の意は、前四十二年の経経、汝が語るところの念仏・真言・禅・律を、正直に捨てよとなり、此の文、明白なる上、重ねて、いましめて、第二の巻、譬喩品に云く、「但(ただ)、楽(ねが)って、大乗経典を受持し、乃至(ないし)、余経の一偈(いちげ)をも受けざれ」文、此の文の意は、年紀かれこれ煩(わずら)はし、所詮(しょせん)、法華経より、自余の経をば、一偈をも受くべからずとなり、然(しか)るに、八宗の異義蘭菊(らんぎく)に、道俗、形ちを異にすれども、一同に、法華経をば崇むる由を云う、されば、此等の文をば、いかが弁(わきま)へたる、正直に捨てよと云って、余経の一偈(いちげ)をも禁(いまし)むるに、或は念仏、或は真言、或は禅、或は律、是れ余経にあらずや、今、此の妙法蓮華経とは、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道なり、されば、釈尊は、付属を宣(の)べ、多宝は証明を遂げ、諸仏は舌相を梵天に付けて、皆是真実と宣べ給へり、此の経は、一字も諸仏の本懐、一点も多生の助なり、一言一語も虚妄あるべからず、此の経の禁(いましめ)を用いざる者は、諸仏の舌をきり、賢聖をあざむく人に非ずや、其の罪、実に怖るべし、されば、二の巻に云く、「若(も)し、人、信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば、則(すなわ)ち、一切世間の仏種を断ず」文、此の文の意は、若人此経(にゃくにんしきょう)の一偈一句をも背かん人は、過去・現在・未来・三世十方の仏を殺さん罪と定む、経教の鏡をもって、当世にあてみるに、法華経をそむかぬ人は、実に以(もっ)て、有りがたし、事の心を案ずるに、不信の人、尚(なお)、無間を免れず、況(いわん)や、念仏の祖師、法然上人は、法華経をもって、念仏に対して、抛(なげう)てよと云云(うんぬん)、五千七千の経教に、何(いず)れの処にか、法華経を抛(なげう)てよと云う文ありや、三昧発得(さんまいほっとく)の行者、生身の弥陀仏とあがむる、善導和尚、五種の雑行(ぞうきょう)を立てて、法華経をば、千中無一とて、千人持つとも、一人も仏になるべからずと立てたり、経文には、若有聞法者無一不成仏(にゃくうもんぽうしゃむいちふじょうぶつ)と談じて、此の経を聞けば、十界の依正(えしょう)、皆、仏道を成ずと見えたり、爰(ここ)を以て、五逆の調達(ちょうだつ)は、天王如来の記?(きべつ)に予(あずか)り、非器五障の竜女も、南方に頓覚(とんかく)成道を唱ふ、況(いわん)や、復(また)、??(きっこう)の六即を立てて、機を漏(も)らす事なし、善導の言と、法華経の文と、実に以て、天地雲泥せり、何(いず)れに付くべきや、就中(なかんずく)、其の道理を思うに、諸仏衆経の怨敵(おんてき)、聖僧衆人の讎敵(しゅうてき)なり、経文の如くならば、争(いかで)か、無間を免(まぬが)るべきや。”

(2005.4.24)
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