appeal

”爰(ここ)に、愚人、又云(いわ)く、以(もっ)ての外、盛(さかん)にいみじき密宗の行人あり、是も予が歎きを訪(とむら)わんが為に来臨して、始には狂言綺語のことはりを示し、終には顕密二宗の法門を談じて、予に問うて云く、抑(そもそも)、汝は何なる仏法をか修行し、何なる経論をか読誦し奉るや、予、答えて云く、我、一日、或る居士の教に依って、浄土の三部経を読み奉り、西方極楽の教主に憑(たのみ)を深く懸(か)くるなり、行者の云く、仏教に二種有り、一には顕教、二には密教なり、顕教の極理は、密教の初門にも及ばず、と云云(うんぬん)、汝が執心の法を聞けば、釈迦の顕教なり、我が所持の法は、大日覚王の秘法なり、実に三界の火宅を恐れ、寂光の宝台を願はば、須(すべから)く、顕教を捨てて、密教につくべし。
愚人、驚いて云く、我いまだ顕密二道と云う事を聞かず、何(いか)なるを顕教と云ひ、何なるを密教と云へるや、行者の云く、予は是れ頑愚(がんぐ)にして、敢(あえ)て賢を存ぜず、然(しか)りと雖(いえど)も、今、一二の文を挙げて、汝が矇昧(もうまい)を挑(かか)げん、顕教とは、舎利弗等の請に依って、応身如来の説き給う諸教なり、密教とは、自受法楽の為に、法身大日如来の金剛薩?(さった)を所化(しょけ)として、説き給う処の大日経等の三部なり、愚人の云く、実に以(もっ)て然(しか)なり、先非をひるがへして、賢き教に付き奉らんと思うなり。
又、爰(ここ)に、萍(うきくさ)のごとく、諸州を回り、蓬(よもぎ)のごとく、県県(けんけん)に転ずる非人の、それとも知らず来り、門の柱に寄り立ちて、含笑(ほくそえみ)、語る事なし、あやしみをなして、是を問うに、始めには云う事なし、後に強(しい)て問を立つる時、彼が云く、月、蒼蒼(そうそう)として、風、忙忙(ぼうぼう)たりと、形質(なりかたち)、常に異に、言語、又通ぜず、其の至極を尋れば、当世の禅法、是なり、予、彼の人の有様を見、其の言語を聞きて、仏道の良因を問う時、非人の云く、修多羅(しゅたら)の教は月をさす指、教網は是れ言語にとどこほる妄事(もうじ)なり、我が心の本分におちつかんと、出立(いでたつ)法は、其の名を禅と云うなり、愚人、云く、願くは、我、聞んと思ふ、非人の云く、実に其の志深くば、壁に向い、坐禅して本心の月を澄ましめよ、爰(ここ)を以(もっ)て、西天には二十八祖、系乱れず、東土には、六祖の相伝、明白なり、汝、是を悟らずして、教網にかかる、不便不便、是心即仏・即心是仏なれば、此の身の外に、更に何にか仏あらんや。
愚人、此の語を聞いて、つくづくと諸法を観じ、閑(しず)かに義理を案じて云く、仏教、万差にして、理非、明らめ難し、宜(むべ)なるかな、常啼(じょうたい)は、東に請い、善財は、南に求め、薬王は、臂(ひじ)を焼き、楽法(ぎょうほう)は、皮を剥(は)ぐ、善知識、実に値い難し、或は教内と談じ、或は教外と云う、此のことはりを思うに、未(いま)だ、淵底(えんてい)を究めず、法水に臨む者は、深淵の思いを懐(いだ)き、人師を見る族(やから)は、薄冰(はくひょう)の心を成せり、爰(ここ)を以(もっ)て、金言には、依法不依人、と定め、又、爪上(そじょう)土の譬(たとえ)あり、若し、仏法の真偽をしる人あらば、尋ねて師とすべし、求めて崇(あがむ)べし、夫(そ)れ、人界に生を受くるを、天上の糸にたとへ、仏法の視聴は、浮木(うきぎ)の穴の類(たぐい)せり、身を軽くして、法を重んずべしと思うに、依って衆山に攀(よじ)、歎きに引れて、諸寺を回る、足に任せて、一つの巌窟(がんくつ)に至るに、後には青山峨峨として、松風、常楽我浄を奏し、前には碧水湯湯(へきすいしょうしょう)として、岸うつ波、四徳波羅蜜を響かす、深谷に開敷(かいふ)せる花も、中道実相の色を顕(あらわ)し、広野に綻(ほころ)ぶる梅も、界如(かいにょ)三千の薫を添(そ)ふ、言語道断・心行所滅せり、謂(いい)つ可し、商山の四皓(しこう)の所居とも又知らず、古仏、経行の迹(あと)なるか、景雲、朝(あした)に立ち、霊光、夕べに現ず、嗚呼(ああ)、心を以て計るべからず、詞(ことば)を以て、宣(の)ぶべからず、予、此の砌(みぎり)に、沈吟とさまよひ、彷徨(ほうこう)と、たちもとをり、徙倚(しい)とたたずむ。”

(2005.04.23)
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