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”青鳧(せいふ)、七結(ななゆい)、下州(げしゅう)より甲州に送らる。其の御志、悲母の第三年に相当る、御孝養なり。問う、「止観、明静、前代未聞」(摩訶止観) 、の、心、如何(いかん)。答う、円頓(えんどん)止観なり。問う、円頓止観の意(こころ)何(いか)ん。答う、法華三昧(ほっけさんまい)の異名なり。問う、法華三昧の心、如何。答う、夫(そ)れ、末代の凡夫、法華経を修行する意に、二有り。一には、就類種(じゅるいしゅ)の開会(かいえ)、二には、相対種の開会なり。問う、此の名は、何より出るや。答う、法華経第三、薬草喩品に云く、「種・相・体・性」、の四字なり。其の四字の中に、第一の種の一字に、二あり。一には、就類種、二には、相対種なり。其の就類種とは、釈に云く、「凡(およ)そ、心、有る者は、是(こ)れ、正因(しょういん)の種なり。随って、一句を聞くは、是れ、了因(りょういん)の種なり。低頭挙手(ていずこしゅ)は、是れ、縁因の種なり」、等、云云。其の相対種とは、煩悩と業と苦との三道、其の当体を押えて、法身と般若と解脱(げだつ)と称する、是なり。其の中に、就類種の一法は、宗は、法華経に有りと雖(いえど)も、少分、又、爾前(にぜん)の経経にも通ず。妙楽、云く、「別経は、唯、就類の種、有って、而(しか)も、相対、無し」、と、云云。此の釈の別教と云うは、本(もと)の別教には非ず。爾前の円、或は、他師の円なり。又、法華経の迹門(しゃくもん)の中、「供養舎利」(法華経、方便品第二)、已下、二十余行の法門も、大体、就類種の開会なり。問う、其の相対種の心、如何。答う、止観に云く、「云何(いか)なるか、「聞円法(もんえんぽう)」、なる。生死即法身、煩悩即般若、結業即解脱、なり、と、聞くなり。三の名、有りと雖も、而も、三の体、無し。是れ、一体なりと雖も、而も、三の名を立つ。是の三、即ち、一相にして、其れ、実に異、有ること無し。法身、究竟(くきょう)すれば、般若も解脱も、亦(また)、究竟なり。般若、清浄なれば、余、亦、清浄なり。解脱、自在なれば、余、亦、自在なり。一切の法を聞くこと、亦、是(かく)の如し。皆、仏法を具して、減少する所無し。是を、聞円(もんえん)と名く」、等、云云。此の釈は、即ち、相対種の手法なり。其の意、如何。答う、生死とは、我等が苦果の依身なり。所謂(いわゆる)、五陰(ごおん)・十二入・十八界、なり。煩悩とは、見思(けんじ)・麈沙(じんじゃ)・無明(むみょう)、の三惑(さんなく)なり。結業とは、五逆・十悪・四重、等、なり。法身とは、法身如来。般若とは、報身如来。解脱とは、応身如来なり。我等、衆生、無始曠劫(むしこうごう)より已来(いらい)、此の三道を具足し、今、法華経に値(あ)って、三道、即、三徳、と、なるなり。
難じて云く、火より水、出でず。石より草、生ぜず。悪因、悪果を感じ、善因、善報を生ずるは、仏教の定れる習なり。而(しか)るに、我等、其の根本を尋ね究むれば、父母の、精血・赤白、二驕iにたい)、和合して、一身と為る。悪の根本、不浄の源なり。設(たと)い、大海を傾けて、之(これ)を洗うとも、清浄なる可らず。又、此れ、苦果の依身は、其の根本を探り見れば、貧(どん)・瞋(じん)・癡(ち)、の三毒より出ずるなり。此の、煩悩、苦果、の二道に依って、業を構う。此の業道、即ち、是れ、結縛(けっぱく)の法なり。譬えば、篭(かご)に入れる鳥の如し。如何(いかん)ぞ、此の三道を以て、三仏因と称するや。譬えば、糞を集めて栴檀(せんだん)を造れども、終(つい)に、香(かんば)しからざるが如し。答う、汝が難、大いに道理なり。我、此の事を弁(わきま)えず。但(ただ)し、付法蔵の第十三、天台大師の高祖、竜樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して、「譬えば、大薬師の、能(よ)く、毒を以て、薬と為すが如し」、等、云云。毒と云うは、何物ぞ。我等が、煩悩・業・苦、の三道なり。薬とは、何物ぞ。法身・般若・解脱、なり。能(よ)く、毒を以て、薬と為す、とは、何物ぞ。三道を変じて、三徳と為すのみ。天台、云く、「妙は、不可思議と名づく」、等、云云。又、云く、「一心、乃至(ないし)、不可思議境、意(こころ)、此(ここ)に在り」、等、云云。「即身成仏」、と申すは、此れ、是なり。近代の、華厳・真言、等、此の義を盗み取りて、我が物と為す。大偸盗(だいちゅうとう)、天下の盗人(ぬすびと)、是なり。
問うて云く、凡夫の位も、此の秘法の心を知るべきや。答う、私の答は、詮(せん)無し。竜樹菩薩の大論に云く[九十三なり]、「今、漏尽(ろじん)の阿羅漢、還って、作仏すと云うは、唯、仏のみ、能(よ)く、知ろしめす。論議とは、正しく、其の事を論ず可し。測り知ること能(あた)わず。是の故に、戯論(けろん)すべからず。若(も)し、仏を求め得る時、乃ち、能く、了知す。余人は、信ずべく、而も、未だ、知るべからず」、等、云云。此の釈は、爾前(にぜん)の別教の十一品の断無明、円教の四十一品の断無明の大菩薩、普賢・文殊、等、も、未だ、法華経の意を知らず。何に況(いわん)や、蔵通、二教の三乗をや。何に況や、末代の凡夫をや、と、云う論文なり。之を以て案ずるに、法華経の、「唯仏与仏、乃能究尽(ないのうくじん)」(法華経、方便品第二)、とは、爾前(にぜん)の灰身滅智(けしんめっち)の二乗の、煩悩・業・苦、の三道を押えて、法身・般若・解脱、と説くに、二乗、還って、作仏す。菩薩、凡夫も、亦、是くの如し、と、釈するなり。故に、天台の云く、「二乗、根敗す。之を名けて、毒と為す。今経に記を得る、即ち、是れ、毒を変じて、薬と為す。論に云く、「余経は、秘密に非ず。法華は、是れ、秘密なり」」、等、云云。妙楽、云く、「論に云くとは、大論なり」、と、云云。問う、是くの如し。之を聞いて、何の益、有るや。答えて云く、始めて法華経を聞く、なり。妙楽、云く、「若し、三道、即、是れ、三徳と信ぜば、尚(なお)、能(よ)く、二死の河を渡る、況や、三界をや」、と、云云。末代の凡夫、此の法門を聞かば、唯、我、一人のみ成仏するに非ず、父母も、又、即身成仏せん。此れ、第一の孝養なり。病身為るの故に、委細ならず。又又、申す可し。”

(始聞仏乗義、編年体御書P1084、御書P982)

(2005.07.16)
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