appeal

” されば、昔独りの人有りて、雪山と申す山に住み給き、其の名を、雪山童子、と云う、蕨(わらび)をおり、菓(このみ)を拾いて命をつぎ、鹿の皮を著物(きもの)とこしらへ、肌をかくし閑(しずか)に道を行じ給いき、此の、雪山童子、おもはれけるは、倩(つらつら)世間を観ずるに、生死無常の理(ことわり)なれば、生ずる者は必ず死す、されば憂世(うきよ)の中のあだはかなき事、譬えば電光の如く、朝露の日に向ひて消るに似たり、風の前の灯(ともしび)の消へやすく・芭蕉の葉の破やすきに異ならず、人皆、此の無常を遁(まぬが)れず、終(つい)に、一度は黄泉(よみじ)の旅に趣(おもむ)くべし、然(しか)れば冥途の旅を思うに、闇闇として・くらければ日月星宿の光もなく、せめて灯燭(ともしび)とて・ともす火だにもなし、かかる闇(くら)き道に又ともなふ人もなし、娑婆にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属、集りて、父は慈(あわれ)みの志(こころざし)高く、母は悲しみの情深く、夫妻は海老同穴の契りとて、大海にあるえびは、同じ畜生ながら夫妻ちぎり細かに、一生一処にともなひて、離れ去る事なきが如く・鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)の下に枕を並べて、遊び戯る中なれども・彼の冥土の旅に伴なう事なし、冥冥として独り行く誰か来りて是非を訪はんや、或は、老少不定の境(さかい)なれば、老いたるは先立・若きは留まる、是れは順次の道理なり、欺きの中にも・せめて思いなぐさむ方も有りぬべし、老いたるは留まり、若きは先立つ、されば、恨の至って恨めしきは、幼くして親に先立つ子、欺きの至つて欺かしきは、老いて子を先立つる親なり、是くの如く、生死・無常・老少不定の境あだに・はかなき世の中に・但、昼夜に今生の貯(たくわえ)をのみ思ひ、朝夕に現世の業(わざ)をのみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず、無行無智にして、徒(いたず)らに明し暮して、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は、何を以つてか資糧(しりょう)として、三界の長途を行き、何を以て船筏(いかだ)として生死の曠海(こうかい)を渡りて、実報寂光の仏土に至らんやと思ひ、迷へば夢、覚(さと)れば寤(うつつ)しかじ、夢の憂世を捨てて、寤(うつつ)の覚りを求めんにはと思惟し、彼の山に籠(こも)りて観念の牀(ゆか)の上に妄想顛倒(てんどう)の塵を払ひ、偏(ひとえ)に仏法を求め給う所に。
 帝釈、遥(はるか)に天より見下(おろ)し給いて、思(おぼ)し食(め)さるる様は、魚の子は多けれども魚となるは少なく・菴羅樹(あんらじゅ)の花は多くさけども菓(み)になるは少なし、人も又此くの如し、菩提心を発(おこ)す人は多けれども、退せずして、”実の道”、に入る者は少し、都(すべ)て凡夫の菩提心は、多く悪縁にたぽらかされ、事にふれて移りやすき物なり、鎧(よろい)を著たる兵者(つわもの)は多けれども、戦に恐れをなさざるは少なきが如し、此の人の意(こころ)を行きて試みばやと思いて、帝釈・鬼神の形を現じ、童子の側(かたわら)に立ち給う、其の時、仏、世にましまさざれば、雪山童子、普(あまね)く大乗経を求むるに、聞くことあたはず、時に、”諸行無常・是生滅法”、と云う音、ほのかに聞ゆ、童子、驚き四方を見給うに、人もなし、但(ただ)、鬼神、近付きて立ちたり、其の形、けはしく・をそろしくて、頭のかみは炎の如く、ロの歯は剣の如く、目を瞋(いか)らして、雪山童子をまほり奉る、此れを見るにも恐れず、偏(ひとえ)に仏法を聞かん事を喜び、怪しむ事なし、譬えば、母を離れたるこうし(犢)、ほのかに母の声を聞きつるが如し、此等、誰か誦(ず)しつるぞ・いまだ残の語(ことば)あらん、とて、普ねく尋ね求るに、更に人もなければ、若しも比の語は鬼神の説きつるか、と疑へども、よも・さもあらじ、と思ひ、彼の身は罪報の鬼神の形なり、此の偈(げ)は仏の説き給へる語なり、かかる賤き鬼神の口より出づべからず、とは思へども、亦(また)殊(こと)に人もなければ、若し比の語、汝が説きつるか、と問へば、鬼神、答て云う、我れに物な云いそ、食せずして日数を経ぬれば、飢え疲れて正念を覚えず、既にあだごと云いつるならん、我、うつ(不実)ける意(こころ)にて云へば、知る事もあらじ、と答ふ、童子の云く、我れは此の半偈(げ)を聞きつる事、半(なかば)なる月を見るが如く、半(なかば)なる玉を得るに似たり、慥(たしか)に汝が語なり、願くは残れる偈(げ)を説き給へ、とのたまふ、鬼神の云く、汝は本より悟(さとり)あれば聞かずとも恨(うらみ)は有るべからず、吾は今、飢に責められたれば、物を云うぺき力なし、都(すべ)て我に向いて物な云いそ、と云う、童子、猶(なお)、物を食(くい)ては説かんや、と問う、鬼神、答へては、食(くい)ては説きてん、と云う、童子悦びて、さて何物をか食とするぞ、と問へば、鬼神の云く、汝、更(さら)に問うべからず、此れを聞きては必ず恐を成さん、亦(また)、汝が求むべき物にもあらず、と云へば、童子、猶(なお)、責めて問い給はく、其の物、をとだにも云はば、心みにも求めん、との給えば、鬼神の云く、我れ、但、人の和らかなる肉を食し、人のあたたかなる血を飲む、空を飛び普(あまね)く求(もとむ)れども、人をば各守り給う仏神ましませば、心に任せて殺しがたし、仏神の捨て給う衆生を殺して食するなり、と云う、其時、雪山童子の思い給はく、我れ、”法”、の為に身を捨て、此の偈(げ)を聞き畢(おわ)らんと思いて、汝が食物ここに有り、外に求むべきにあらず、我が身いまだ死せず、其の肉あたたかなり、我が身いまだ寒(ひえ)ず、其の血あたたかならん、願くは残の偈(げ)を説き給へ、此の身を汝に与えんと云う、時に鬼神、大(おおい)に瞋(いかり)て云く、誰か汝が語を実とは憑(たの)むべき、聞いて後には、誰をか証人として糾(ただ)さん、と云う、雪山童子の云く、此の身は終(つい)に死すべし、徒(いたずら)に死せん命を、”法”、の為に投げば、きたなく・けがらはしき身を捨てて、後生は必ず覚りを開き、仏となり、清妙なる身を受くべし、土器を捨てて宝器に替(かゆ)るが如くなるべし、梵天・帝釈・四大天王・十方の諸仏・菩薩を皆証人とせん、我れ更に偽るべからず、との給へり、其の時、鬼神、少し和(やわらい)で、若し、汝が云う処、実ならば偈(げ)を説かん、と云う、其の時、雪山童子、大に悦んで、身に着たる鹿の皮を脱いで、法座に敷(しき)、頭を地に付け、掌(たなごころ)を合せ、跪(ひざまず)き、但願くは、我が為に残の偈(げ)を説き給へ、と云うて、至心に深く敬い給ふ、さて法座に登り、鬼神、偈(げ)を説いて云く、”生滅滅已・寂滅為楽”、と、此の時、雪山童子、是れを聞き、悦び貴み給う事限なく、後世までも忘れじと度度誦(ず)して、深く其の心にそめ、悦ばしき処は、これ仏の説き給へるにも異ならず、欺(なげ)かわ敷き処は、我れ一人のみ聞きて、人の為に伝へざらん事を、と深く思ひて、石の上・壁の面(おもて)・路の辺(ほとり)の諸木ごとに、此の偈(げ)を書き付け、願くは後に来らん人、必ず此の文を見、其の、”義理”、をさとり、”実の道”、に入れ、と云い畢(おわ)つて、即、高き木に登りて、鬼神の前に落ち給へり、いまだ地に至らざるに、鬼神、俄(にわか)に、帝釈の形と成りて、雪山童子の其身を受取りて、平かなる所にすえ奉りて、恭敬礼拝して云く、我れ、暫(しばら)く如来の聖教を惜しみて、試に、”菩薩”、の心を悩し奉るなり、願くは、此の罪を許して、後世には必ず救ひ給へ、と云ふ、一切の天人又来りて、善哉善哉(ぜんざいぜんざい)、実に是れ、”菩薩”、なり、と讃(ほ)め給ふ、半偈の為めに身を投げて、十二劫生死の罪を滅し給へり、此の事、涅槃経に見えたり、然れば、雪山童子の古を思へば、半偈の為に猶(なお)命を捨て給ふ、何(いか)に況(いわん)や此の経の一本一巻を聴聞せん恩徳をや、何を以てか此れを報ぜん、尤(もっと)も後世を願はんには、彼の雪山童子の如くこそ・あらまほしくは侯ヘ、誠に我が身、貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨て仏法を得べき便(たより)あらば、身命を捨てて仏法を学すべし。
 とても、此の身は徒(いたずら)に山野の土と成るべし・惜しみも何かせん、惜しむとも惜しみとぐべからず・人久しといえども百年には過ぎず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし、受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し、謗法の者を責めずして、徒(いたずら)らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を著(き)たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一つもなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、迹門には、「我身命も愛せず但だ無上道を惜しむ」、ととき・本門には、「自ら身命を惜まず」、ととき・涅槃経には、「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」、と見えたり、本迹両門・涅槃経共に、身命を捨てて、”法”、を弘むべし、と見えたり、此等の禁(いましめ)を背く重罪は、目には見えざれども積りて、地獄に堕つる事・譬ば、寒熱の姿形(すがたかたち)もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木・人畜をせめ、夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。”

(松野殿御返事(十四誹謗抄)御書 p1383 編年体御書 p938)

善悪の、”けじめ”、”筋目”、をつけず、

悪(破壊)に対しての、”分別”、

徹した、”謝罪”、”償い”、”誓い”、”許し”、がなければ、

個人にも、組織にも、国家にも、民族にも、

内部から、腐って、自(界)が叛逆(ほんぎゃく)し、

外部から、破壊され、他(国)が侵逼(しんぴつ)する。

その、”けじめ”、のない愚人達による国家は、

その己の罰としての大破壊の、”責め、苦”、に、

その国のすべての人々を道連れにする!

(鬼神の云く、我れ但、人の和らかなる肉を食し、人のあたたかなる血を飲む、空を飛び普(あまね)く求(もとむ)れども、人をば各守り給う仏神ましませば、心に任せて殺しがたし、仏神の捨て給う衆生を殺して食するなり)

”本師”、”本門の釈尊”(日蓮)、は、”他国侵逼(しんぴつ)難”、を予言したとき、

”刀を取れ!”、”防衛しろ!”、と叫んだか!

”本師”、”本門の釈尊”(日蓮)、は、その、”危機”、を招いた、”根本の原因”、

当時の、”国家権力”、に迎合していた、宗教、思想の、その根本の、”一凶”、を、

”仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲がれば影ななめなり”

(諸経と法華経と難易の事 御書 P992 編年体御書 p1275)

と叫び、弾呵(だんか)し、破折(はしゃく)し、正そうとしたんじゃなかったのか!

今の、
その、”一凶”、とは、何だ!

靖国族(日本軍事全体主義族)政権という、”国家権力”、の、その思想、信条を、弾呵(だんか)し、破折(はしゃく)し、正さなければならない立場であるはずの、もの、が、こともあろうに、それと組み迎合し、今日の、日本の、世界の、”危機”、を招き、導いてしまっている、その、もの、とは、何だ!

その、”一凶”、こそ!

まさに、獅子身中の、”大イナムシ”、”大ナメクジ”、”大両火房”、

お前のことだ!

自ら、”けじめ”、のつけられない、

その、”大偽善者”、の、”大イナムシ”、の、”大ナメクジ”、の、”大両火房”、の、

”黄金の英雄”、は、

急ぎ、
その、”汚名”、を返上し、その、”けじめ”、の、”責め、苦”、を逃れる為に、

真の、”本化、本門の法華経の行者(指導者)”、らしく、

自ら、
その、明々白々な、”道理”、を打ち砕く、
新たな、”最善の真理”、の、”最善の解釈”、を示し、

それを、弾呵(だんか)し!
破折(はしゃく)しなさい!

(雪山童子の古を思へば、半偈の為に猶(なお)命を捨て給ふ、何(いか)に況(いわん)や此の経の一本一巻を聴聞せん恩徳をや、何を以てか此れを報ぜん、尤(もっと)も後世を願はんには、彼の雪山童子の如くこそ・あらまほしくは侯ヘ、誠に我が身、貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨て仏法を得べき便(たより)あらば、身命を捨てて仏法を学すべし。
 とても、此の身は徒(いたずら)に山野の土と成るべし・惜しみも何かせん、惜しむとも惜しみとぐべからず・人久しといえども百年には過ぎず・其の間の事は但一睡の夢ぞかし、受けがたき人身を得て適(たまた)ま出家せる者も・仏法を学し、”謗法の者を責めず”、して、徒(いたずら)らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は、法師の皮を著(き)たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一つもなし・法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、迹門には、「我身命も愛せず但だ無上道を惜しむ」、ととき・本門には、「自ら身命を惜まず」、ととき・涅槃経には、「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」、と見えたり、本迹両門・涅槃経共に、身命を捨てて、”法”、を弘むべし、と見えたり、此等の禁(いましめ)を背く重罪は、目には見えざれども積りて、地獄に堕つる事・譬ば、寒熱の姿形(すがたかたち)もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木・人畜をせめ、夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。)

(2002.12.22)
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