appeal

”夫(そ)れ、一代聖教とは、総(す)べて、五十年の説教なり。是(これ)を一切経とは、言うなり。此(こ)れを分ちて、二と為す。一には、化他、二には、自行なり。一には、化他の経とは、法華経より前の、四十二年の間、説き給える諸の経教なり。此れをば、権教(ごんきょう)と云い、亦(また)は、方便と名く。此れは、四教の中には、三蔵教・通教・別教、の三教なり。五時の中には、華厳・阿含・方等・般若、なり。法華より前の四時の経教なり。又、十界の中には、前の九法界なり。又、夢と寤(うつつ)との中には、夢中の善悪なり。又、夢をば、権(ごん)と云い、寤(うつつ)をば、実と云うなり。是の故に、夢は、仮(かり)に有って、体性(たいしょう)無し。故に、名けて、権(ごん)と云うなり。寤(うつつ)は、常住にして、不変の心の体なるが故に、此れを名けて実と為す。故に、四十二年の諸の経教は、生死の夢の中の善悪の事を説く。故に、権教と言う。夢中の衆生を誘引し、驚覚して、法華経の寤(うつつ)と成さんと、思食(おぼしめ)しての、支度方便の経教なり。故に、権教と言う。斯(そ)れに由(よ)って、文字の読みを糾(ただ)して、心得(こころう)可きなり。故に、権(ごん)をば、権(かり)と読む。権(ごん)なる事の手本には、夢を以て本と為す。又、実をば、実(まこと)と読む。実事の手本は、寤(うつつ)なり。故に、生死の夢は、権(かり)にして、性体、無ければ、権なる事の手本なり。故に、妄想と云う。本覚の寤(うつつ)は、実にして、生滅を離れたる心なれば、真実の手本なり。故に、実相と云う。是を以て、権実の二字を糾(ただ)して、一代聖教の、化他の権と、自行の実と、の、差別を知る可きなり。故に、四教の中には、前の三教と、五時の中には、前の四時と、十法界の中には、前の九法界は、同じく、皆、夢中の善悪の事を説くなり。故に、権教と云う。此の教相をば、無量義経に、「四十余年・未顕真実」、と、説き給う、已上。「未顕真実」、の、諸経は、夢中の権教なり。故に、釈籤(しゃくせん)に云く、「性(じょう)、殊(こと)なること無しと雖(いえど)も、必ず、幻(げん)に藉(よ)りて、幻の機と、幻の感と、幻の応と、幻の赴(ふ)と、を発す。能応(のうおう)と所化(しょけ)と、並びに、権実に非ず」、已上。此れ、皆、夢幻の中の方便の教なり。性雖無殊(しょうすいむしゅ)等とは、夢見る心性(しんしょう)と、寤(うつつ)の時の心性とは、只、一(ひとつ)の心性にして、総(すべ)て、異ること無しと雖(いえど)も、夢の中の虚事と、寤(うつつ)の時の実事と、二事、一(ひとつ)の心法なるを以て、見ると思うも、我が心なり、と、云う釈なり。故に、止観に云く、「前の三教の四弘(ぐ)、能(のう)も、所(しょ)も、泯(みん)す」、已上。四弘(ぐ)とは、衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。此を四弘と云う。能とは、如来なり。所とは、衆生なり。此の四弘は、能の仏も、所の衆生も、前三教は、皆、夢中の是非なり、と、釈し給えるなり。然(しか)れば、法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は、「未顕真実(みけんしんじつ)」、の、権教なり、方便なり。法華に取寄る可き方便なるが故に、真実には非ず。此れは、仏、自ら、四十二年の間、説き集め給いて後に、今、法華経を説かんと欲して、先ず、序分の開経の無量義経の時、仏、自ら、勘文(かんもん)し給える教相なれば、人の語も入る可からず、不審をも生(な)す可からず。故に、玄義に云く、「九界を権と為し、仏界を実と為す」、已上。九法界の権は、四十二年の説教なり。仏法界の実は、八箇年の説、法華経、是なり。故に、法華経をば、仏乗と云う。九界の生死は、夢の理なれば、権教と云い、仏界の常住は、寤(うつつ)の理なれば、実教と云う。故に、五十年の説教、一代の聖教、一切の諸経は、化他の四十二年の権教と、自行の八箇年の実教と、合して、五十年なれば、権と実との二の文字を以て、鏡に懸けて、陰(くもり)無し。
故に、三蔵経を修行すること、三僧祇(そうぎ)・百大劫(こう)、を歴(へ)て、終りに、仏に成らんと思えば、我が身より火を出して、灰身入滅(けしんにゅうめつ)とて、灰と成って、失せるなり。通教(つうきょう)を修行すること、七阿僧祇(あそぎ)・百大劫(こう)、を満てて、仏に成らんと思えば、前の如く、同様に、灰身入滅(けしんにゅうめつ)して、跡形も無く、失せぬるなり。別教(べっきょう)を修行すること、二十二大阿僧祇(あそぎ)・百千万劫(こう)、を尽くして、終りに、仏に成りぬと思えば、生死(しょうじ)の夢の中の権教の成仏なれば、本覚(ほんがく)の寤(うつつ)の法華経の時には、別教には、実仏無し。夢中の果なり。故に、別教の教道には、実の仏、無し、と、云うなり。別教の証道には、初地(しょじ)に、始めて一分の無明を断じて、一分の中道の理を顕し、始めて之を見れば、別教は、隔歴不融(きゃくりゃくふゆう)の教と知って、円教に移り入って、円人(えんにん)と成り已(おわ)って、別教には留まらざるなり。上中下、三根の不同有るが故に、初地・二地・三地、乃至、等覚、までも、円人と成る故に、別教の面(おもて)に仏無きなり。故に、有教無人と云うなり。故に、守護国界章に云く、「有為(うい)の報仏は、夢中の権果(前三教の修行の仏)、無作の三身は、覚前の実仏なり(後の円教の観心の仏)」。又、云く、「権教の三身は、未だ、無常を免れず(前三教の修行の仏)、実教の三身は、倶体倶用(ぐたいぐゆう)なり(後の円教の観心の仏)」。此の釈を、能く能く、意得(こころう)可きなり。権教は、難行苦行して、適(たまたま)、仏に成りぬと思えば、夢中の権の仏なれば、本覚の寤(うつつ)の時には、実仏、無きなり。極果の仏無ければ、有教無人(うきょうむじん)なり。況(いわん)や、教法、実ならんや。之を取って修行せんは、聖教に迷えるなり。此の前三教には、仏に成らざる証拠を説き置き給いて、末代の衆生に、慧解(えげ)を開かしむるなり。九界の衆生は、一念の無明(むみょう)の眠の中に於て、生死(しょうじ)の夢に溺れて、本覚の寤(うつつ)を忘れ、夢の是非に執して、冥(くら)きより、冥(くら)きに入る。是の故に、如来は、我等が生死の夢の中の入って、顛倒(てんどう)の衆生に同じて、夢中の語(ことば)を以て、夢中の衆生を誘(いざな)い、夢中の善悪の差別の事を説いて、漸漸(ぜんぜん)に誘引し給うに、夢中の善悪の事、重畳(ちょうじょう)して、様様に、無量無辺なれば、先ず、善事に付いて、上中下を立つ。三乗の法、是なり。三九品(ぼん)なり、此くの如く、説き已(おわ)って、後に、又、上上品の根本善を立て、上中下・三三九品、の善と云う。皆、悉(ことごと)く、九界生死の夢の中の善悪の是非なり。今、是をば、総じて、邪見外道と為す(捜要記の意)。此の上に、又、上上品の善心は、本覚の寤(うつつ)の理なれば、此れを善の本と云うと、説き聞かせ給し時に、夢中の善悪の悟の力を以ての故に、寤(うつつ)の本心の実相の理を始めて聞知(もんち)せられし事なり。是の時に、仏、説いて言く、夢と寤(うつつ)との二は、虚事(こじ)と実事との二の事なれども、心法は、只、一なり。眠の縁に値(あ)いぬれば、夢なり、眠、去りぬれば、寤(うつつ)の心なり。心法は、只、一なりと開会せらるべき、下地を造り置かれし方便なり(此れは別教の中道の理)。是の故に、未だ、十界互具・円融相即、を顕(あらわ)さざれば、成仏の人、無し。故に、三蔵教より別教に至るまで、四十二年の間の八教は、皆、悉(ことごと)く、方便・夢中、の善悪なり。只、暫(しばら)く、之を用いて、衆生を誘引し給う、支度方便なり。此の権教の中にも、分分に、皆、悉(ことごと)く、方便と真実と有りて、権実の法、闕(か)けざるなり。四教一一に、各四門有って、差別有ること無し。語(ことば)も、只、同じ語なり。文字も異ること無し。斯(こ)れに由って、語に迷いて、権実の差別を分別せざる時を、仏法、滅すと云う。是の方便の教は、唯(ただ)、穢土(えど)に有って、総じて、浄土には無きなり。法華経に云く、「十方の仏土の中には、唯(ただ)、一乗の法のみ有って、二無く、亦、三も無し。仏の方便の説をば除く」、已上。故に、知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取って、往生(おうじょう)の行と為し、十方の浄土に有る、一乗の法をば、之を嫌いて取らずして、成仏す可き道理、有る可しや否や。一代の教主、釈迦如来、一切経を説き、勘文(かんもん)し給いて言く、三世の諸仏、同様に、一つ語、一つ心、に、勘文し給える説法の儀式なれば、我も是くの如く、一言も違わざる説教の次第なり、云云。方便品に云く、「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も、今、亦(また)、是くの如く、無分別の法を説く」、已上。無分別の法とは、一乗の妙法なり、善悪を簡(えら)ぶこと無く、草木・樹林・山河・大地、にも、一微塵の中にも、互に、各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周偏(しゅうへん)して、闕(か)くること無し。十方の浄土の、依報・正報、の功徳荘厳(しょうごん)は、我が心の中に有って、片時も離るること無き、三身即一の本覚の如来にて、是の外には、法、無し。此の一法計り、十方の浄土に有りて、余法有ること無し。故に無分別法と云う是なり。此の一乗妙法の行をば取らずして、全く、浄土には無き方便の教を取って、成仏の行と為さんは、迷いの中の迷いなり。我、仏に成りて後に、穢土に立ち還りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、次第に誘引して、方便の教を説くを、化他の教とは云うなり。故に、権教と言い、又、方便とも云う。化他の法門の有様、大体、略を存して、斯(か)くの如し。
 二に、自行の法とは、是れ、法華経、八箇年の説なり。是の経は、寤(うつつ)の本心を説き給う。唯、衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて、寤(うつつ)の本心を訓(おしう)る故に、語は夢中の言語なれども、意は寤(うつつ)の本心を訓(おし)ゆ。法華経の文と釈との意(こころ)、此くの如し。之を明め知らずんば、経の文と、釈の文とに、必ず、迷う可きなり。但(ただ)し、此の化他の夢中の法門も、寤(うつつ)の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取って、寤(うつつ)の心に摂(おさ)むるが故に、四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経、の、寤(うつつ)の心に摂(おさ)まりて、心の外には、法、無きなり。此れを、法華経の開会(かいえ)とは云うなり。譬えば、衆流を大海に納むるが如きなり。仏の心法妙、衆生の心法妙と、此の二妙を取って、己心に摂むるが故に、心の外に、法、無きなり。己心と、心性と、心体と、の三は、己身の本覚の三身如来なり。是を経に説いて云く、「如是相(応身如来)、如是性(報身如来)、如是体(法身如来)」。此れを三如是と云う。此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好(そうごう)と為す。是の故に、我が身は、本覚、三身如来の身体なり、法界に周偏して、一仏の徳用なれば、一切の法は、皆、是、仏法なり、と、説き給いし時、其の座席に列(つらな)りし、諸の、四衆・八部・畜生・外道、等、一人も漏れず、皆、悉く、妄想の、僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)、立所(たちどころ)に、散止して、本覚の寤(うつつ)に還って、皆、仏道を成ず。仏は、寤(うつつ)の人の如く、衆生は、夢見る人の如し。故に、生死の虚夢を醒(さま)して、本覚の寤(うつつ)に還るを、即身成仏とも、平等大慧とも、無分別法とも、皆成仏道とも、云う、只、一つの法門なり。十方の仏土は、区(まちまち)に、分れたりと雖(いえど)も、通じて、法は一乗なり。方便、無きが故に(一乗、方便、二にして、二ならず)、無分別法なり。十界の衆生は、品品に異りと雖も、実相の理は、一なるが故に、無分別なり。百界千如・三千世間、の法門、殊(こと)なりと雖も、十界互具するが故に、無分別なり。夢と寤(うつつ)と、虚と実と、各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に、無分別なり。過去と未来と現在とは、三なりと雖も、一念の心中の理なれば、無分別なり。一切経の語は、夢中の語とは、譬えば、扇と樹との如し。法華経の寤(うつつ)の心を顕す言(ことば)とは、譬えば、月と風との如し。故に、本覚の寤(うつつ)の心の月輪の光は、無明(むみょう)の闇を照し、実相、般若の智慧の風は、妄想の塵を払う故に、夢の語の扇と樹とを以て、寤(うつつ)の心の月と風とを知らしむ。是の故に、夢の余波を散じて、寤(うつつ)の本心に帰せしむるなり。故に、止観に云く、「月、重山(じゅうざん)に隠るれば、扇を挙げて、之に類し、風、虚に息(や)みぬれば、樹を動かして、之を訓(おし)ゆるが如し」、文。弘決(ぐけつ)に云く、「真常性の月、煩悩の山に隠る、煩悩、一に非ず。故に、名けて、重と為す。円音教(えんのんぎょう)の風は、化を息(や)めて、寂(じゃく)に帰す。寂理無礙(じゃくりむげ)なること、猶(なお)、大虚の如し。四依の弘教は、扇と樹との如し。乃至、月と風とを知らしむるなり、已上。夢中の煩悩の雲、重畳(ちょうじょう)せること山の如く、其の数、八万四千の塵労にて、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字言語の教を以て、月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に、文と語とは、扇と樹との如し」、文。上釈は、一往の釈とて、実義に非ざるなり。月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我が心の般若の慧解(えげ)とを訓え知らしむるを、妙法蓮華経、と、名く。故に、釈籤(しゃくせん)に云く、「声色(しょうしき)の近名(ごんみょう)を尋ねて、無相の極理に至る」、と、已上。声色の近名とは、扇と樹との如くなる、夢中の一切経論の言説なり。無相の極理とは、月と風との如くなる、寤(うつつ)の我が身の心性の寂光の極楽なり。此の極楽とは、十方法界の正報の有情と、十方法界の依報の国土と、和合して、一体、三身即一なり。四土不二にして、法身の一仏なり。十界を身と為すは、法身なり。十界を心と為すは、報身なり。十界を形と為すは、応身なり。十界の外に仏無し、仏の外に十界無くして、依正不二なり。身土不二なり。一仏の身体なるを以て、寂光土と云う。是の故に、無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に、無相と云うなり。法性の淵底(えんでい)、玄宗(げんしゅう)の極地なり。故に、極理と云う。此の無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って、清浄無漏(むろ)なり。之を名けて、妙法の心蓮台とは云うなり。是の故に、心外(しんげ)無別法と云う。此れを、一切法は、皆、是、仏法なり、と、通達解了す、とは云うなり。生と死と二つの理は、生死の夢の理なり。妄想なり。顛倒(てんどう)なり。本覚の寤(うつつ)を以て、我が心性を糾せば、生ず可き始めも無きが故に、死す可き終りも無し。既に、生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず。水災にも朽ちず。剣刀にも切られず。弓箭(きゅうせん)にも射られず。芥子(けし)の中に入るれども、芥子も広からず。心法も縮まらず。虚空の中に満つれども、虚空も広からず。心法も狭からず。善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に、心の外に善無く、悪無し。此の善と悪とを離るるを、無記と云うなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。故に、善悪も浄穢(じょうえ)も、凡夫・聖人、も、天地も大小も東西も南北も四維も上下も、言語道断し、心行所滅す。心に分別して、思い言い顕す言語なれば、心の外には、分別も無分別も無し。言(ことば)と云うは、心の思いを響かして、声を顕すを云うなり。凡夫は、我が心に迷うて知らず、覚らざるなり。仏は、之を悟り、顕わして、神通と名くるなり。神通とは、神(たましい)の一切の法に通じて、礙(さわり)無きなり。此の自在の神通は、一切の有情の心にて有るなり。故に、狐狸(こり)も分分に通を現ずること、皆、心の神(たましい)の分分の悟なり。此の心の一法より、国土世間も出来する事なり。一代聖教(しょうぎょう)とは、此の事を説きたるなり。此れを、八万四千の法蔵とは云うなり。是れ、皆、悉(ことごと)く、一人の身中の法門にて有るなり。然(しか)れば、八万四千の法蔵は、我身一人の日記文書なり。此の八万法蔵を、我が心中に、孕(はら)み持ち、懐き持ちたり。我が身中の心を以て、仏と法と浄土とを、我が身より外に思い願い求むるを、迷い、とは云うなり。此の心が、善悪の縁に値うて、善悪の法をば造り出せるなり。華厳経に云く、「心は、工(たくみ)なる画師の、種種の五陰(おん)を造るが如く、一切世間の中に、法として造らざること無し。心の如く、仏も、亦、爾(しか)なり。仏の如く、衆生も、然(しか)なり。三界、唯(ただ)、一心なり。心の外に別の法無し。心、仏、及び、衆生、是の三、差別無し」、已上。無量義経に云く、「無相・不相、の一法より、無量義を出生す」、已上。無相・不相、の一法とは、一切衆生の一念の心、是なり。文句に釈して云く、「生滅無常の相無きが故に、無相と云うなり。二乗の、有余無余の、二つの涅槃の相を離るが故に、不相と云うなり」、云云。心の不思議を以て、経論の詮要(せんよう)と為すなり。此の心を悟り知るを、名けて、如来と云う。之を悟り知って後は、十界は、我が身なり。我が心なり。我が形なり。本覚の如来は、我が身心なるが故なり。之を知らざる時を、名けて、無明と為す。無明は、明かなること無しと読むなり。我が心の有様を、明かに、覚らざるなり。之を悟り知る時を、名けて、法性と云う。故に、無明と法性とは、一心の異名なり。名と言とは、二なりと雖も、心は、只、一つ、心なり。斯れに由って、無明をば断ず可からざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば、寤(うつつ)の心を失う可きが故に、総じて、円教の意は、一毫(もう)の惑をも断ぜず。故に、一切の法は、皆、是れ、仏法なり、と、云うなり。法華経に云く、「如是相(一切衆生の相好本覚の応身如来)、如是性(一切衆生の心性本覚の報身如来)、如是体(一切衆生の身体本覚の法身如来)」。此の三如是より、後の七如是、出生して、合して、十如是と成れるなり。此の十如是は、十法界なり。此の十法界は、一人の心より出で、八万四千の法門と成るなり。一人を手本として、一切衆生、平等なること、是くの如し。三世の諸仏の総勘文にして、御判、慥(たし)かに、印(おし)たる正本の文書なり。仏の御判とは、実相の一印なり。印とは、判の異名なり。余の一切の経には、実相の印無ければ、正本の文書に非ず。全く、実の仏無し。実の仏無きが故に、夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。十法界は、十なれども、十如是は、一なり。譬えば、水中の月は、無量なりと雖も、虚空の月は、一なるが如し。九法界の十如是は、夢中の十如是なるが故に、水中の月の如し。仏法界の十如是は、本覚の寤(うつつ)の十如是なれば、虚空の月の如し。是の故に、仏界の一つの十如是、顕れぬれば、九法界の十如是の水中の月の如きも、一も闕減(けつげん)無く、同時に、皆、顕れて、体と用と一具にして、一体の仏と成る。十法界を互に具足し、平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も、一人の身中に具足して、闕(か)くること無し。故に、十如是は、本末究竟して等しく、差別無し。本とは、衆生の十如是なり。末とは、諸仏の十如是なり。諸仏は、衆生の一念の心より顕れ給えば、衆生は、是れ、本なり。諸仏は、是れ、末なり。然(しか)るを、経に云く、「今此の三界は、皆、是、我が有なり。其の中の衆生は、悉く、是、吾が子なり」、と、已上。仏、成道の後に、化他の為の故に、迹の成道を唱えて、生死の夢中にして、本覚の寤(うつつ)を説き給うなり。智慧を父に譬え、愚癡を子に譬えて、是くの如く説き給えるなり。衆生は、本覚の十如是なりと雖も、一念の無明、眠りの如く心を覆うて、生死の夢に入って、本覚の理を忘れ、髪筋を切る程に、過去・現在・未来、の三世の虚夢を見るなり。仏は、寤(うつつ)の人の如くなれば、生死の夢に入って、衆生を驚かし給える智慧は、夢の中にて、父母の如く、夢の中なる我等は、子息の如くなり。此の道理を以て、悉是(しつぜ)吾子、と、言い給うなり。此の理を思い解けば、諸仏と我等とは、本の故にも、父子なり。末の故にも、父子なり。父子の天性は、本末、是れ同じ。斯れに由って、己心と仏心とは異ならず、と、観ずるが故に、生死の夢を覚まして、本覚の寤(うつつ)に還えるを、即身成仏、と、云うなり。即身成仏は、今、我が身の上の、天性・地体(じたい)、なり。煩も無く、障りも無き、衆生の運命なり、果報なり、冥加(みょうが)なり。夫(そ)れ、以(おもんみ)れば、夢の時の心を迷いに譬え、寤(うつつ)の時の心を悟りに譬う。之を以て、一代聖教を覚悟するに、跡形も無き虚夢を見て、心を苦しめ、汗水と成って、驚きぬれば、我身も家も臥所(ふしど)も、一所にて異らず。夢の虚と、寤(うつつ)の実と、の二事を、目にも見、心にも思えども、所は、只、一所なり。身も、只、一身にて、二の虚と実との事有り。之を以て、知んぬ可し。九界の生死の夢見る我が心も、仏界常住の寤(うつつ)の心も、異ならず。九界生死の夢見る所が、仏界常住の寤(うつつ)の所にて変らず。心法も替らず、在所も差(たが)わざれども、夢は、皆、虚事なり。寤(うつつ)は、皆、実事なり。止観に云く、「昔、荘周と云うもの有り。夢に、胡蝶と成って、一百年を経たり。苦は多く、楽は少く、汗水と成って、驚きぬれば、胡蝶にも成らず、百年をも経ず。苦も無く、楽も無く、皆、虚事なり、皆、妄想なり」(已上取意)。弘決に云く、「無明は、夢の蝶の如く、三千は、百年の如し。一念、実、無きは、猶、蝶に非ざるが如く、三千も、亦、無きこと、年を積むに非るが如し」、已上。此の釈は、即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も、荘周は異ならず。寤(うつつ)に蝶と成らずと思う時も、別の荘周無し。我が身を生死の凡夫なりと思う時は、夢に蝶と成るが如く、僻目(ひがめ)、僻思(ひがおもい)なり。我が身は、本覚の如来なりと思う時は、本の荘周なるが如し。即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり。蝶と思うは、虚事なれば、成仏の言は無し。沙汰の外の事なり。無明は、夢の蝶の如しと判ずれば、我等が僻思(ひがおもい)は、猶、昨日の夢の如く、性体、無き、妄想なり。誰の人か、虚夢の生死を信受して、疑を常住涅槃(ねはん)の仏性に生ぜんや。止観に云く、「無明の癡惑(ちわく)、本より、是れ、法性なり。癡迷を以ての故に、法性、変じて、無明と作り、諸の顛倒(てんどう)の善不善等を起す。寒(かん)来りて、水を結べば、変じて、堅冰(げんぴょう)と作るが如く、又、眠来りて心を変ずれば、種種の夢有るが如し。今、当に、諸の顛倒は、即ち、是、法性なり。一ならず、異ならず、と、体すべし。顛倒起滅すること、旋火輪(せんかりん)の如しと雖も、顛倒の起滅を信ぜずして、唯、此の心、但(ただ)、是れ、法性なりと信ず。起は、是れ、法性の起、滅は、是れ、法性の滅なり。其れを体するに、実には、起滅せざるを、妄(みだ)りに起滅すと謂(い)えり。只、妄想を指すに、悉く、是れ、法性なり。法性を以て、法性に繋(か)け、法性を以て、法性を念ず。常に、是れ法性なり。法性ならざる時無し」、已上。是くの如く、法性ならざる時の、隙(ひま)も無き理の法性に、夢の蝶の如く、無明に於て、実有の思を生じて、之に迷うなり。止観の九に云く、「譬えば、眠の法、心を覆うて、一念の中に無量世の事を夢みるが如し。乃至、寂滅真如に、何の次位か有らん。乃至、一切衆生、即、大涅槃なり。復、滅す可からず。何の次位、高下、大小、有らんや。不生不生にして、不可説なれども、因縁有るが故に、亦、説くことを得可し。十因縁の法、生の為に、因と作る虚空に画(えが)き、方便して、樹を種(うゆ)るが如し。一切の位を説くのみ」、已上。十法界の、依報・正報、は、法身の仏、一体三身の徳なりと知って、一切の法は、皆、是れ、仏法なり、と、通達し解了する。是を、名字即と為す。名字即の位より、即身成仏す。故に、円頓の教には、次位の次第無し。故に、玄義に云く、「末代の学者、多く、経論の方便の断伏(だんぷく)を執して、諍闘(じょうとう)す。水の性の冷かなるが如きも、飲まずんば、安(いずく)んぞ知らん」、已上。天台の判に云く、「次位の綱目は、仁王・瓔珞(ようらく)、に依り、断伏の高下は、大品・智論、に依る」、已上。仁王・瓔珞・大品・大智度論、是の経論は、皆、法華已前の八教の経論なり。権教の行は、無量劫を経て、昇進する次位なれば、位の次第を説けり。今、法華は、八教に超えたる円なれば、速疾頓成にして、心と仏と衆生と、此の三は、我が一念の心中に摂めて、心の外に無しと観ずれば、下根の行者すら、尚、一生の中に、妙覚の位に入る。一と多と相即すれば、一位に、一切の位、皆、是れ、具足せり。故に、一生に入るなり。下根すら是くの如し、況や、中根の者をや。何に況や、上根をや。実相の外に、更に、別の法無し。実相には、次第無きが故に、位無し。総じて、一代の聖教は、一人の法なれば、我が身の本体を、能く能く、知る可し。之を悟るを仏と云い、之に迷うは衆生なり。此れは、華厳経の文の意なり。弘決の六に云く、「此の身の中に、具(つぶ)さに、天地に倣(なら)うことを知る。頭(こうべ)の円(まど)かなるは、天に象(かたど)り、足の方なるは、地に象ると知り、身の内の空種(うつろ)なるは、即ち、是れ、虚空なり。腹の温かなるは、春夏に法(のっ)とり、背の剛きは、秋冬に法とり、四体は、四時に法とり、大節の十二は、十二月に法とり、小節の三百六十は、三百六十日に法とり、鼻の息の出入は、山沢渓谷の中の風に法とり、口の息の出入は、虚空の中の風に法とり、眼(まなこ)は、日月に法とり、開閉は、昼夜に法とり、髪は、星辰に法とり、眉は、北斗に法とり、脈は、江河に法とり、骨は、玉石に法とり、皮肉は、地土に法とり、毛は、叢林に法とり、五臓は、天に在っては、五星に法とり、地に在っては、五岳に法とり、陰・陽、に在っては、五行に法とり、世に在っては、五常に法とり、内に在っては、五神に法とり、行を修するには、五徳に法とり、罪を治むるには、五刑に法とる。謂く、墨・?(ぎ)・?(ひ)・宮・大辟(たいへき)(此の五刑は、人を様様に、之を傷ましむ。其の数、三千の罰有り。此を五刑と云う)。主領には、五官と為す。五官は、下の第八の巻に、博物誌を引くが如し。謂く、苟萠(こうぼう)等なり。天に昇っては、五雲と日い、化して、五竜と為る。心を朱雀と為し、腎を玄武と為し、肝を青竜と為し、肺を白虎と為し、脾を勾陳(こうちん)と為す」。又、云く、「五音(いん)・五明・六藝(りくげい)、皆、此れより起る。亦復(またまた)、当に、内治の法を識るべし。覚心、内に大王と為っては、百重の内に居り、出でては、則ち、五官に侍衛(じえい)せ為(ら)る。肺をば司馬と為し、肝をば司徒と為し、脾をば司空と為し、四支をば民子と為し、左をば司命と為し、右をば司録と為し、人命を主司す。乃至、臍(ほぞ)をば、太一君等と為す、と。禅門の中に、広く、其の相を明す」、已上。人身の本体、委(くわし)く検すれば、是くの如し。然るに、此の金剛不壊の身を以て、生滅無常の身なりと思う、僻思(ひがおもい)は、譬えば、荘周が、夢の蝶の如し、と、釈し給えるなり。五行とは、地水火風空なり。五大種とも、五薀(おん)とも、五戒とも、五常とも、五方とも、五智とも、五時とも、云う。只、一物、経経の異説なり。内典・外典、名目の異名なり。今経に、之を開して、一切衆生の心中の、五仏性・五智、の如来の種子と説けり。是、則ち、妙法蓮華経、の、五字なり。此の五字を以て、人身の体を造るなり。本有常住なり。本覚の如来なり。是を十如是と云う。此を、「唯仏与仏・乃能究尽(くじん)」、と、云う。不退の菩薩と極果の二乗と、少分も知らざる法門なり。然るを、円頓の凡夫は、初心より、之を知る故に、即身成仏するなり。金剛不壊の体なり。是を以て、明かに、知んぬ可し。天、崩れば、我が身も崩る可し。地、裂けば、我が身も裂く可し。地水火風、滅亡せば、我が身も、亦、滅亡すべし。然るに、此の五大種は、過去・現在・未来、の三世は替ると雖も、五大種は替ること無し。正法と像法と末法との三時、殊なりと雖も、五大種は、是れ、一にして、盛衰転変、無し。薬草喩品の疏(しょ)には、円教の理は、大地なり。円頓の教は、空の雨なり。亦、三蔵教・通教・別教、の三教は、三草と二木となり。其の故は、此の草木は、円理の大地より生じて、円教の空の雨に養われて、五乗の草木は、栄うれども、天地に依って、我、栄えたりと思(おもい)知らざるに由るが故に、三教の、人・天・二乗・菩薩、をば、草木に譬えて、不知恩と説かれたり。故に、草木の名を得。今、法華に、始めて、五乗の草木は、円理の母と、円教の父とを知るなり。一地の所生(しょしょう)なれば、母の恩を知るが如く、一雨の所潤(しょにん)なれば、父の恩を知るが如し。薬草喩品の意、是くの如くなり。
 釈迦如来、五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐(おわ)せし時、我が身は、地水火風空なり、と、知しめして、即座に、悟を開き給いき。後に、化他の為に、世世番番に出世成道し、在在処処に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して、始めて、仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に、方便教を儲け、衆生を誘引す。其の後、方便の諸の経教を捨てて、正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して、其の中に、四十二年の方便の諸経を丸(まろ)かし、納(い)れて、一仏乗と丸(がん)し、人(にん)一の法と名く。一人が上の法なり。多人の綺(いろ)えざる正しき文書を造って、慥(たし)かな御判の印あり。三世諸仏の手継ぎの文書を、釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗(なゆた)の国土の上の、虚空の中に満ち塞(ふさ)がれる、若干の菩薩達の頂を摩(な)で尽して、時を指して、末法、近来の我等衆生の為に、慥かに、此の由を説き聞かせて、仏の譲状(ゆずりじょう)を以て、末代の衆生に、慥かに、授与す可し、と、慇懃(おんごん)に、三度まで、同じ御語に説き給いしかば、若干(そこばく)の菩薩達、各数を尽して、身を曲げ、頭を低(た)れ、三度まで、同じ言に、各(おのおの)、我も劣らじと、事請を申し給いしかば、仏、心安く思食(おぼしめ)して、本覚の都に還えり給う。三世の諸仏の説法の、儀式・作法、には、只、同じ御言に、時を指したる末代の譲状(ゆずりじょう)なれば、只、一向に、後五百歳を指して、此の妙法蓮華経を以て、成仏す可き時なりと、譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。
 安楽行品には、末法に入って、近来、初心の凡夫、法華経を修行して、成仏す可き様を説き置かれしなり。身も安楽行なり、口も安楽行なり、意も安楽行なり。自行の三業も、誓願安楽の化他の行も、同じく、後の末世に於て、法の滅せんと欲する時、と、云云。此は、近来の時なり。已上、四所に有り。薬王品には、二所に説かれ、勧発品には、三所に説かれたり。皆、近来を指して、譲り置かれたる正しき文書を用いずして、凡夫の言に付き、愚癡(ぐち)の心に任せて、三世諸仏の譲り状に背き奉り、永く仏法に背かば、三世の諸仏、何(いか)に、本意無く、口惜しく、心憂く、歎き、悲しみ、思食(おぼしめ)すらん。涅槃経に云く、「法に依って、人に依らざれ」、と、云云。痛ましいかな、悲しいかな、末代の学者、仏法を習学して、還って、仏法を滅す。弘決に之を悲しんで曰く、「此の円頓を聞いて、崇重(そうじゅう)せざることは、良(まこと)に、近代、大乗を習う者の、雑濫(ぞうらん)に由るが故なり。況や、像末、情澆(こころうす)く、信心、寡薄(すくなく)、円頓の教法、蔵に溢(あふ)れ、函(はこ)に、盈(み)つれども、暫(しばら)くも思惟せず。便(すなわち)ち、目を瞑(ふさ)ぐに至る。徒(いたづ)らに生し、徒らに死す。一に、何ぞ、痛ましき哉」、已上。同四に云く、「然も、円頓の教は、本と凡夫に被(こう)むらしむ。若し、凡を益するに、擬せずんば、仏、何ぞ自ら法性の土に、住して、法性の身を以て、諸の菩薩の為に、此の円頓を説かずして、何ぞ、諸の法身の菩薩の与(ため)に、凡身を示し、此の三界に、現じ給うことを須(もち)いんや。乃至、一心、凡(ぼん)に在れば、即ち、修習す可し」、已上。所詮、己心と仏身と一なり、と、観ずれば、速かに、仏に成るなり。故に、弘決に又云く、「一切の諸仏、己心は、仏心と異ならず、と、観し給うに由るが故に、仏に成ることを得る」、と、已上。此れを観心と云う。実に、己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を礙(さ)わる可き悪業も有らず。生死に留まる可き妄念も有らず。一切の法は、皆、是れ、仏法なり、と、知りぬれば、教訓す可き善知識も入る可らず。思うと思い、言うと言い、為すと為し、儀(ふるま)いと儀う、行住坐臥(ざが)の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して、一体なれば、過も無く障りも無き、自在の身と成る。此れを自行と云う。此くの如く、自在なる自行の行を捨て、跡形も有らざる、無明妄想なる僻思(ひがおもい)の心に住して、三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥きより冥きに入り、永く仏法に背くこと、悲しむ可く、悲しむ可し。只今、打ち返えし、思い直し、悟り返さば、即身成仏は、我が身の外には無しと知りぬ。我が心の鏡と、仏の心の鏡とは、只、一鏡なりと雖も、我等は、裏に向って、我が性の理を見ず故に、無明と云う。如来は、面(おもて)に向って、我が性の理を見たまえり。故に、明と無明とは、其の体、只、一なり。鏡は、一の鏡なりと雖も、向い様に依って、明昧(みょうまい)の差別有り。鏡に裏有りと雖も、面の障りと成らず。只、向い様に依って、得失の二つ有り。相即融通して、一法の二義なり。化他の法門は、鏡の裏に向うが如く、自行の観心は、鏡の面に向うが如し。化他の時の鏡も、自行の時の鏡も、我が心性の鏡は、只、一にして、替ること無し。鏡を即身に譬え、面に向うをば、成仏に譬え、裏に向うをば、衆生に譬う。鏡に裏有るをば、性悪を断ぜざるに譬え、裏に向う時、面の徳無きをば、化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり。自行と化他とは、得失の力用なり。玄義の一に云く、「薩婆悉達(さるばしった)、祖王の弓を彎(ひい)て、満るを名けて力と為す。七つの鉄鼓(てっく)を中(やぶ)り、一つの鉄囲山(てっちせん)を貫ぬき、地を洞(とお)し、水輪に徹(とお)る如きを名けて用と為す(自行の力用なり)。諸の方便教は、力用の微弱なること、凡夫の弓箭の如し。何となれば、昔の縁は、化他の二智を禀(う)けて、理を照すこと遍(あまね)からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽さず(已上化他)。今の縁は、自行の二智を禀(う)けて、仏の境界を極め、法界の信を起し、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易(へんにゃく)の生を損す。但だ、生身、及び、生身得忍の両種の菩薩、倶に、益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も、亦、以て、倶に、益す。化の功、広大に、利潤弘深(りにんぐじん)なる。蓋(けだ)し、茲(こ)の経の力用なり(已上自行)」。自行と化他との力用、勝劣、分明なること勿論なり。能く能く、之を見よ。一代聖教を鏡に懸たる教相なり。極仏境界とは、十如是の法門なり。十界に互に具足して、十界十如の因果、権実の、二智・二境、は、我が身の中に有って、一人も漏るること無し、と、通達し解了し、仏語を悟り極むるなり。起法界信(きほうかいしん)とは、十法界を体と為し、十法界を心と為し、十法界を形と為したまえりと、本覚の如来は、我が身の中に有りけりと信ず。増円妙道とは、自行と化他との二は、相即円融の法なれば、珠と光と宝との三徳は、只、一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず、仏法に不足無し。一生の中に仏に成るべし、と、慶喜(きょうき)の念を増すなり。断根本惑(だんこんぼんわく)とは、一念無明の眠を覚まして、本覚の寤(うつつ)に還れば、生死も涅槃も、倶に、昨日の夢の如く、跡形も無きなり。損変易生(そんへんにゃくしょう)とは、同居土の極楽と、方便土の極楽と、実報土の極楽との、三土に往生せる人、彼の土にて、菩薩の道を修行して、仏に成らんと欲するの間、因は移り、果は易りて、次第に進み昇り、劫数を経て、成仏の遠きを待つを、変易(へんにゃく)の生死と云うなり。下位を捨つるを、死と云い、上位に進むをば、生と云う。是くの如く、変易する生死は、浄土の苦悩にて有るなり。爰(ここ)に、凡夫の我等が、此の穢土に於て、法華を修行すれば、十界互具・法界一如、なれば、浄土の菩薩の変易の生は損し、仏道の行は増して、変易の生死を一生の中に促(つづ)めて、仏道を成ず故に、生身、及び、生身得忍、の両種の菩薩、増道損生(ぞうどうそんしょう)するなり。法身の菩薩とは、生身を捨てて、実報土に居するなり。後心の菩薩とは、等覚の菩薩なり。但し、迹門には、生身、及び、生身得忍、の菩薩を利益するなり。本門には、法身と後身との菩薩を利益す。但し、今は、迹門を開して、本門に摂めて、一の妙法と成す故に、凡夫の我等、穢土の修行の行の力を以て、浄土の、十地・等覚、の菩薩を利益する行なるが故に、化の功、広大なり(化他の徳用)。利潤弘深(りにんぐじん)とは(自行の徳用)、円頓の行者は、自行と化他と一法をも漏さず、一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に、弘きなり。竪には、三世に亘って、法性の淵底(えんてい)を極むるが故に、深きなり。此の経の自行の力用、此くの如し。化他の諸経は、自行を具せざれば、鳥の片翼を以て、空を飛ばざるが如し。故に、成仏の人も無し。今、法華経は、自行化他の二行を開会して、不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに、障り無きが如く、成仏、滞り無し。薬王品には、十喩(ゆ)を以て、自行と化他との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は、諸水の如く、法華は、大海の如し、云云(取意)。実に、自行の法華経の大海には、化他の諸経の衆水を入るること、昼夜に絶えず入ると雖も、増ぜず、減ぜず、不可思議の徳用を顕す。諸経の衆水は、片時の程も、法華経の大海を納るること無し。自行と化他との勝劣、是くの如し。一を以て諸(しょ)を例せよ。上来の譬喩は、皆、仏の所説なり。人の語を入れず。此の旨を意得れば、一代聖教、鏡に懸けて、陰(くもり)り無し。此の文釈を見て、誰の人か、迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢て、人の会釈を引き入る可からず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生成仏の直道なり。四十二年の化他の経を以て、立る所の宗宗は、華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実、等、の、諸宗なり。此等は、皆、悉く、法華より已前の八教の中の教なり。皆、是、方便なり。兼・但・対・帯、の方便誘引なり。三世諸仏の説教の次第なり。此の次第を糾(ただ)して、法門を談ず。若し、次第に違わば、仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も、三世諸仏の説教の次第を糾(ただ)して、一字も違わず。我も、亦、是くの如しとて、経に云く、「三世諸仏の説法の儀式の如く、我も、今、亦、是くの如く、無分別の法を説く」、已上。若し、之に違えば、永く、三世の諸仏の本意に背く。他宗の祖師、各(おのおの)、我が宗を立て、法華宗と諍うこと、誤りの中の誤り、迷いの中の迷いなり。
 徴佗学の決に、之を破して云く(山王院)、「凡そ、八万法蔵、其の行相を統(の)ぶるに、四教を出でず。頭辺に示すが如し。蔵・通・別・円、は、即ち、声聞・縁覚・菩薩・仏乗、なり。真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶、の二論等の能所の教理、争(いか)でか、此の四を過ぎん。若し、過ぐると言わば、豈(あに)、外邪(げじゃ)に非ずや。若し、出でずと言わば、便ち、他の所期(しょご)を問い得よ(即ち、四乗の果なり)。然して後に、答に随って、極理を推(たず)ね、徴(せ)めよ。我が四教の行相を以て、並べ、検(かんが)えて、決定せよ。彼の所期の果に於て、若し、我と違わば、随って、即ち、之を詰めよ。且(しばら)く、華厳の如きは、五教に、各各に、修因・向果、有り。初・中・後、の行、一ならず。一教一果、是れ、所期なるべし。若し、蔵・通・別・円、の因と果とに非ざれば、是れ、仏教ならざるのみ。三種の法輪・三時の教等、中(なか)に就て、定む可し。汝、何者を以てか、所期の乗と為るや。若し、仏乗なりと言わば、未だ、成仏の観行を見ず。若し、菩薩と言わば、此れ、亦、即離(そくり)の中道の異なるなり。汝、正しく、何れを取るや。設(も)し、離の辺を取らば、果として成ず可き無し。如(も)し、即是(そくぜ)を要せば、仏に例して、之を難ぜよ。謬(あやま)って、真言を誦すとも、三観一心の妙趣を会せずんば、恐くは、別人に同じて、妙理を証せじ。所以(ゆえ)に、他の所期の極を逐うて、理に準じて(我が宗の理なり)、徴(せむ)べし。因明の道理は、外道と対す。多くは、小乗、及以(およ)び、別教に在り。若し、法華・華厳・涅槃、等、の、経に望むれば、接引(しょういん)門なり。権(か)りに、機に対して設(もう)けたり。終(つい)に、以て、引進するなり。邪小の徒(と)をして、会(え)して、真理に至らしむるなり。所以に、論ずる時は、四依撃目(きゃくもく)の志を存して、之を執着すること莫れ。又、須(すべか)らく、他の義を将(も)って、自義に対検して、随って、是非を決すべし。執して、之を怨(うら)むこと莫れ(大底、他は、多く三教に在り、円旨、至って、少きのみ)」。先徳大師の所判、是の如し。諸宗の所立、鏡に懸けて、陰り無し。末代の学者、何ぞ、之を見ずして、妄(みだ)りに、教門を判ぜんや。大綱の三教を、能く能く、学す可し。頓と漸と円とは、三教なり。是れ、一代聖教の総の三諦なり。頓・漸、の二は、四十二年の説なり。円教の一は、八箇年の説なり。合して、五十年なり。此の外に法無し。何に由ってか、之に迷わん。衆生に有る時には、此れを三諦と云い、仏果を成ずる時には、此れを三身と云う。一物の異名なり。之を説き顕すを一代聖教と云い、之を開会(かいえ)して、只、一の総の三諦と成ずる時に、成仏す。此を開会と云い、此を自行と云う。又、他宗所立の宗宗は、此の総の三諦を分別して、八と為す。各各に、宗を立つるに依って、円満の理を闕(か)いて、成仏の理、無し。是の故に、余宗には、実の仏、無きなり。故に、之を嫌う意(こころ)は、不足なり、と、嫌うなり。円教を取って、一切諸法を観ずること、円融円満して、十五夜の月の如く、不足無く、満足し、究竟すれば、善悪をも嫌わず、折節(おりふし)をも撰ばず、静処をも求めず、人品(じんぴん)をも択ばず、一切諸法は、皆、是れ、仏法なり、と、知りぬれば、諸法を通達す。即ち、非道を行うとも、仏道を成ずるが故なり。天地水火風は、是れ、五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して、片時も離るること無きが故に、世間と出世と和合して、心中に有って、心外には全く別の法、無きなり。故に、之を聞く時、立所に、速かに、仏果を成ずること、滞り無き、道理、至極なり。総の三諦とは、譬えば、珠と光と宝との如し。此の三徳、有るに由って、如意宝珠と云う故に、総の三諦に譬う。若し、亦、珠の三徳を別別に取り放さば、何の用にも、叶う可からず。隔別の方便教の宗宗も、亦、是くの如し。珠をば、法身に譬え、光をば、報身に譬え、宝をば、応身に譬う。此の総の三徳を分別して、宗を立つるを不足と嫌うなり。之を丸じて、一と為すを、総の三諦と云う。此の総の三諦は、三身即一の本覚の如来なり。又、寂光をば、鏡に譬え、同居と方便と実報の三土をば、鏡に遷(うつ)る像(かたち)に譬う。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は、此の三身と四土と和合して、仏の一体の徳なるを、寂光の仏と云う。寂光の仏を以て、円教の仏と為し、円教の仏を以て、寤(うつつ)の実仏と為す。余の三土の仏は、夢中の権仏なり。此れは、三世の諸仏の、只、同じ語に、勘文し給える、総の教相なれば、人の語も入らず、会釈も有らず。若し、之に違わば、三世の諸仏に、背き奉る大罪の人なり。天魔外道なり。永く、仏法に背くが故に、之を秘蔵して、他人には見せざれ。若し、秘蔵せずして、妄(みだ)りに、之を披露せば、仏法に証理、無く、二世に冥加、無からん。謗ずる人出来せば、三世の諸仏に背くが故に、二人乍(なが)ら、倶に、悪道に堕んと識るが故に、之を誡むるなり。能く能く、秘蔵して、深く此の理を証し、三世の諸仏の御本意に相い叶い、二聖・二天・十羅刹(らせつ)、の擁護を蒙むり、滞り無く、上上品の寂光の往生を遂げ、須臾(しゅゆ)の間に、九界生死の夢の中に還り来って、身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは勧発し、外よりは引導し、内外相応し、因縁和合して、自在神通の慈悲の力を施し、広く衆生を利益すること、滞り有る可からず。
 三世の諸仏は、此れを、一大事の因縁、と、思食(おぼしめ)して、世間に出現し給えり。一とは(中道なり、法華なり)。大とは(空諦なり、華厳なり)。事とは(仮諦なり、阿含・方等・般若、なり)。已上、一代の総の三諦なり。之を悟り知る時、仏果を成ずるが故に、出世の本懐、成仏の直道なり。因とは、一切衆生の身中に、総の三諦、有って、常住不変なり。此れを総じて因と云うなり。縁とは、三因仏性は、有りと雖も、善知識の縁に値わざれば、悟らず、知らず、顕れず。善知識の縁に値えば、必ず、顕るるが故に、縁と云うなり。然るに、今、此の、一と大と事と因と縁と、の五事、和合して、値い難き善知識の縁に値いて、五仏性を顕さんこと、何の滞りか、有らんや。春の時来りて、風雨の縁に値いぬれば、無心の草木も、皆、悉く、萠え出生して、華敷(はなさ)き、栄えて、世に値う気色なり。秋の時に至りて、月光の縁に値いぬれば、草木、皆、悉く、実、成熟して、一切の有情を養育し、寿命を続き長養し、終に、成仏の徳用を顕す。之を疑い、之を信ぜざる人、有る可しや。無心の草木すら、猶、以て、是くの如し。何に況や、人倫に於てをや。我等は、迷の凡夫なりと雖も、一分の心も有り、解も有り、善悪も分別し、折節(おりふし)を思知る。然るに、宿縁に催されて、生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば、因果を分別して、成仏す可き身を以て、善知識に値うと雖も、猶、草木にも劣って、身中の三因仏性を顕さずして、黙止(もだ)せる謂(いわ)れ、有る可きや。此の度、必ず必ず、生死の夢を覚まし、本覚の寤(うつつ)に還って、生死の紲(きづな)を切る可し。今より已後は、夢中の法門を心に懸く可からざるなり。三世の諸仏と一心と和合して、妙法蓮華経、を修行し、障り無く、開悟す可し。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて、陰(くも)り無し。三世の諸仏の勘文、是くの如し。秘す可し、秘す可し。

 弘安二年、己卯(つちのとう)、十月  日                       日蓮花押

(三世諸仏総勘文教相廃立、編年体御書P1221、御書P558)

(2005.08.02)
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