appeal

”駿河の国、富士下方(しもがた)、滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野(しもずけ)房日秀、等、謹んで、弁言(べんごん)す。
当寺院主代、平左近入道行智、条条の自科を塞(ふさ)ぎ、遮(さえぎ)らんが為に、不実の濫訴(らんそ)を致す、謂(いわ)れ無き事。
訴状に云く、日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経、或は、真言の行人は、皆、以て、今世後世、叶(かな)う可からざるの由、之を申す、云云(うんぬん)[取意]。
此の条は、日弁等の本師、日蓮聖人、去(いぬ)る、正嘉以来の、大彗星・大地動、等、を、観見し、一切経を勘(かんが)えて云く、当時、日本国の体(てい)たらく、権小(ごんしょう)に執著し、実経を失没せるの故に、当(まさ)に、前代未有の二難を起すべし。所謂(いわゆる)、自界叛逆難(じかいほんぎゃくなん)・他国侵逼難(たこくしんぴつなん)なり。仍(よっ)て、治国の故を思い、兼日(かねて)、彼の大災難を対治せらる可きの由、去(いぬ)る、文応年中、一巻の書を上表す、立正安国論と号す。勘(かんが)え申す所、皆、以て、符合す。既に、金口の未来記に同じ。宛(あたか)も、声と響(ひびき)との如し。外書に云く、「未萠(みぼう)を知るは、聖人なり」。内典に云く、「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」、云云。之を以て、之を思うに、本師は、豈(あに)、聖人なるかな。巧匠(きょうしょう)、内に在り、国宝、外に求む可からず。外書に云く、「隣国に聖人有るは、敵国の憂なり」、云云。内経に云く、「国に聖人有れば、天、必ず、守護す」、云云。外書に云く、「世、必ず、聖智の君、有り。而(しか)して、復(また)、賢明の臣、有り」、云云。此の本文を見るに、聖人、国に在るは、日本国の大喜にして、蒙古国の大憂なり。諸竜を駆(か)り、催(もよお)して、敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて、蒙王を召し取るべし。君、既に、賢人に在さば、豈(あに)、聖人を用いずして、徒(いらずら)に、他国の逼(せめ)を憂えん。
抑(そもそも)、大覚世尊、遥(はるか)に、末法、闘諍堅固(とうじょうけんご)の時を鑒(かんが)み、此くの如きの大難を、対治す可きの秘術を、説き置かせらるるの経文、明明たり。然(しか)りと雖(いえど)も、如来の滅後、二千二百二十余年の間、身毒・尸那(しな)・扶桑(ふそう)、等、一閻浮提(いちえんぶだい)の内に、未だ、流布せず。随って、四依の大士、内に鑒(かんが)みて、説かず。天台・伝教、而(しか)も、演(の)べず。時、未だ、至らざるの故なり。法華経に云く、「後の五百歳の中に、閻浮提に、広宣流布す」、云云。天台大師、云く、「後五百歳」。妙楽、云く「五五百歳」。伝教大師、云く、「代を語れば、則ち、像の終り、末の初め、地を尋ぬれば、唐の東、羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば、則、五濁の生、闘諍の時」、云云。東勝西負の明文なり。
法主聖人、時を知り、国を知り、法を知り、機を知り、君の為、臣の為、神の為、仏の為、災難を対治せらる可きの由、勘(かんが)え申すと雖(いえど)も、御信用、無きの上、剰(あまつ)さえ、謗法(ほうぼう)人等の讒言(ざんごん)に依って、聖人、頭(こうべ)に疵(きず)を負い、左手を打ち折らるる上、両度まで、遠流(おんる)の責を蒙(こう)むり、門弟等、所所に、射殺(いころ)され、切り殺され、毒害・刃傷(にんじょう)・禁獄・流罪・打擲(ちょうちゃく)・擯出(ひんずい)・罵詈(めり)、等、の、大難、勝(あ)げて、計(かぞ)う可からず。茲(ここ)に因って、大日本国、皆、法華経の大怨敵と成り、万民、悉(ことごと)く、一闡提(いっせんだい)の人と為るの故に、天神、国を捨て、地神、所を辞し、天下、静ならざるの由、粗(ほぼ)、伝承するの間、其の仁に非ずと雖(いえど)も、愚案を顧みず、言上せしむる所なり。外経に云く、「奸人(かんじん)、朝に在れば、賢者、進まず」、云云。内経に云く、「法を壊る者を見て、責めざる者は、仏法の中の怨なり」、云云。
又、風聞の如くんば、高僧等を崛請(くっせい)して、蒙古国を調伏す、云云。其の状を見聞するに、去(いぬ)る、元暦・承久、の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺、等、検校(けんぎょう)長吏(ちょうり)等の、諸の真言師を請い向け、内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん)にして、咒咀(じゅそ)し奉る。故源右(げんう)将軍、並に、故平右(へいう)虎牙(こが)の日記なり。此の法を修するの仁は、敬って、之を行えば、必ず、身を滅し、強いて、之を持てば、定めて、主を失うなり。然(しか)れば、則ち、安徳天皇は、西海に沈没し、叡山の明雲は、流矢(ながれや)に当り、後鳥羽法皇は、夷島(えびすのしま)に放ち捨てられ、東寺・御室、は、自ら、高山に死し、北嶺の座主は、改易の恥辱に値う。現罰、眼(まなこ)に遮(さえぎ)り、後賢、之を畏(おそ)る。聖人、山中の御悲みは是なり。
次ぎに、阿弥陀経を以て、例時(れいじ)の勤(つとめ)と為す可きの由の事。夫(そ)れ、以(おもん)みれば、花と月と、水と火と、時に依って、之を用ゆ。必ずしも、先例を追う可からず。仏法、又、是くの如し。時に随って、用捨す。其の上、汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は、「四十余年・未顕真実」、の、小経なり。一閻浮提、第一の智者たる、舎利弗尊者は、多年の間、此の経を読誦するも、終(つい)に、成仏を遂げず。然(しか)る後、彼の経を抛(なげう)ち末に、法華経に至って、華光如来と為る。況(いわん)や、末代、悪世の愚人、南無阿弥陀仏の題目計りを唱えて、順次往生を遂ぐ可しや。故に、仏、之を誡(いまし)めて言く、法華経に云く、「正直に方便を捨て、但、無上道を説く」、と、云云。教主釈尊、正しく、阿弥陀経を抛(なげう)ちたまう、云云。又、涅槃経に云く、「如来は、虚妄の言、無しと雖(いえど)も、若(も)し、衆生の虚妄の説に因るを知れば」、と云云。正しく、弥陀念仏を以て、虚妄と称する文なり。法華経に云く、「但、楽(ねがっ)て、大乗経典を受持し、乃至(ないし)、余経の一偈をも受けざれ」、云云。妙楽大師、云く、「況(いわん)や、彼の華厳、但(ただ)、以て、称比(しょうひ)せん。此の経の法を以て、之を化するに同じからず。故に、乃至(ないし)、不受余経一偈と云う」、云云。彼の華厳経は、寂滅道場の説法界、唯心の法門なり。上本は、十三世界微塵(みじん)品、中品は、四十九万八千偈、下本は、十万偈、四十八品。今現に、一切経蔵を観るに、唯、八十・六十・四十、等、の、経なり。其の外の、方等・般若・大日経・金剛頂経、等、の、諸の顕密(けんみつ)大乗経等を、尚(なお)、法華経に対当し奉りて、仏、自ら、或は、「未顕真実」、と、云い、或は、「留難多きが故に」、或は、「門を閉じよ」、或は、「抛(なげう)て」、等、云云。何に況(いわん)や、阿弥陀経をや。唯、大山と蟻岳(ぎがく)との高下、師子王と狐兎(こと)との?力(すもう)なり。
今、日秀等、専(もっぱ)ら、彼等、小経を抛(なげう)ち、専ら、法華経を読誦し、法界に勧進して、南無妙法蓮華経、と、唱え奉る。豈(あに)、殊忠に非ずや。此等の子細、御不審を相(あい)貽(のこ)さば、高僧等を召され、是非を決せらる可きか。仏法の優劣を糺明致す事は、月氏・漢土・日本、の先例なり。今、明時に当って、何ぞ、三国の旧規に背(そむ)かんや。
訴状に云く、今月二十一日、数多の人勢を催し、弓箭(きゅうせん)を帯し、院主分の御坊内に打ち入り、下野坊は、乗馬相具(じょうめあいぐ)し、熱原の百姓、紀(き)次郎男、点札(たてふだ)を立て、作毛(さくもう)を苅(か)り取り、日秀の住房に、取り入れ畢(おわ)んぬ、云云[取意]。
此の条、跡形も無き、虚誕(こたん)なり。日秀等は、損亡(そんもう)せられし行者なり。不安堵(ふあんど)の上は、誰の人か、日秀等の点札(たてふだ)を叙用せしむ可き。将(は)た又、?弱(おうにゃく)なる土民の族(やから)、日秀等に雇い越されんや。然(しか)らば、弓箭を帯し、悪行を企つるに於ては、行智、云く、「近隣の人人、争って、弓箭を奪い取り、其の身に召し取る」、と、云うが如き、子細を申さざるや。矯飾(きょうじき)の至り。宜(よろ)しく、賢察に足るべし。
日秀・日弁、等、は、当寺、代代の住侶として、行法の薫修(くんじゅう)を積み、天長地久の御祈祷を致すの処に、行智は、乍(たちまち)に、当寺、霊地の院主代に補し、寺家・三河房頼円、並に、少輔(しょうう)房・日禅・日秀・日弁、等、に、行智より仰せて、法華経に於ては、不信用の法なり、速(すみやか)に、法華経の読誦を停止し、一向に、阿弥陀経を読み、念仏を申す可きの由の起請文を書けば、安堵す可きの旨、下知せしむるの間、頼円は、下知に随って、起請を書いて、安堵せしむと雖(いえど)も、日禅等は、起請を書かざるに依って、所職の住坊を奪い取るの時、日禅は、即ち、離散せしめ畢(おわ)んぬ。日秀・日弁、は、無頼の身たるに依って、所縁を相憑(たの)み、猶(なお)、寺中に寄宿せしむるの間、此の四箇年の程、日秀等の所職の住坊を奪い取り、厳重の御祈祷を打ち止むるの余り、悪行、猶(なお)、以て、飽き足らず、為に、法華経行者の跡を削り、謀案を構えて、種種の不実を申し付くるの条、豈(あに)、在世の調達(ちょうだつ)(提婆達多)に非ずや。
凡そ、行智の所行は、法華三昧の供僧、和泉房蓮海を以て、法華経を柿紙(しぶがみ)に作り、紺形を彫り、堂舎の修治を為す。日弁に御書下を給い、構え置く所の上葺榑(うわぶきくれ)、一万二千寸の内、八千寸を之を私用せしむ。下方の政所代に勧(すす)め、去(いぬ)る、四月、御神事の最中に、法華経信心の行人、四郎男を刄傷(にんじょう)せしめ、去る、八月、弥四郎坊男の頚(くび)を切らしむ。日秀等に頚を刎(はね)ぬる事を擬(ぎ)して、此の中に書き入れ、無智無才の盗人、兵部房静印(ひょうぶぼうじょういん)より、過料を取り、器量の仁と称して、当寺の供僧に補せしめ、或は、寺内の百姓等を催し、鶉狩(うずらがり)・狸殺(たぬきころし)・狼落(ししおち)の鹿を取りて、別当の坊に於て、之を食らい、或は、毒物を、仏前の池に入れ、若干の魚類を殺し、村里に出して之を売る。見聞の人、耳目(じもく)を驚かさざるは莫(な)し。仏法破滅の基、悲んで余り有り。
此くの如き、不善の悪行、日日相積るの間、日秀等、愁歎の余り、依って、上聞を驚かさんと欲す。行智、条条の自科を塞(ふさ)がんが為に、種種の秘計を廻らし、近隣の輩(ともがら)を相語らい遮(さえぎ)って、跡形も無き不実を申し付け、日秀等を損亡せしめんと擬するの条、言語道断の次第なり。冥(みょう)に付け、顕(けん)に付け、戒めの御沙汰、無からんや。所詮(しょせん)、仏法の権実、沙汰の真偽、淵底(えんてい)を究めて、御尋ね有り。且(かつ)は、誠諦の金言に任せ、且は、式条の明文に准し、禁遏(きんあつ)を加えられば、守護の善神は、変を消し、擁護(おうご)の諸天は、咲を含まん。然れば、則ち、不善悪行の院主代、行智を改易せられ、将(は)た又、本主、此の重科を脱れ難からん。何ぞ、実相寺に例如せん。誤まらざるの道理に任せて、日秀・日弁、等、は、安堵の御成敗を蒙むり、堂舎を修理せしめ、天長地久、御祈祷の忠勤を抽(ぬき)んでんと欲す。仍(よっ)て、状を勒(ろく)し、披陳(ひちん)言上、件(くだん)の如し。

 弘安二年十月  日                             沙門 日秀日弁等上

(滝泉寺申状、編年体御書P1212、御書P849)

(2005.07.29)
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