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”されば、仏の御使(おんつかい)たりし提婆菩薩は、外道に殺され、師子尊者は、檀弥羅(だんみら)王に頭(こうべ)をはねられ、竺(じく)の道生(どうしょう)は、蘇山(そざん)へ流され、法道は、面(かお)に、かなやきをあてられき。此等は、皆、仏法を重んじ、王法を恐れざりし故ぞかし。されば、賢王の時は、仏法をつよく立つれば、王、両方を聞(きき)、あきらめて、勝(すぐ)れ給う智者を師とせしかば、国も安穏なり。所謂(いわゆる)、陳・隋、の大王、桓武・嵯峨、等、は、天台智者大師を南北の学者に召し合せ、最澄和尚(さいちょうわじょう)を南都の十四人に対論せさせて、論じ、かち給いしかば、寺をたてて、正法を弘通(ぐづう)しき。大族王・優陀延(うだえん)王・武宗・欽宗・欽明・用明、(は)、或は、鬼神・外道、を崇重し、或は、道士を帰依し、或は、神を崇めし故に、釈迦仏の大怨敵となりて、身を亡ぼし、世も安穏ならず。其の時は、聖人たりし僧侶、大難にあへり。今、日本国、すでに、大謗法の国となりて、他国にやぶらるべし、と、見えたり。
此れを知りながら、申さずば、縦(たと)ひ、現在は安穏なりとも、後生には無間大城に堕つべし。後生を恐れて申すならば、流罪・死罪、は、一定なり、と、思い定めて、去(い)ぬる、文応の比(ころ)、故最明寺入道殿に申し上げぬ。されども、用い給う事なかりしかば、念仏者等、此の由(よし)を聞きて、上下の諸人をかたらひ、打ち殺さんとせし程に、かなはざりしかば、長時(ながとき)、武蔵の守殿は、極楽寺殿の御子(みこ)なりし故に、親の御心(みこころ)を知りて、理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ。されば、極楽寺殿と長時(ながとき)と彼の一門は、皆、ほろぶるを、各御覧あるべし。其の後、何程(いかほど)もなくして、召し返されて後、又、経文の如く、弥(いよい)よ、申しつよる。又、去(い)ぬる、文永八年九月十二日に、佐渡の国へ流さる。日蓮、御勘気の時、申せしが如く、どしうち(同士打)はじまりぬ。それを恐るるかの故に、又、召し返されて候。しかれども、用ゆる事なければ、万民も、弥弥(いよいよ)、悪心、盛んなり。
縦(たと)ひ、命を期(ご)として、申したりとも、国主、用いずば、国、やぶれん事、疑なし。つみしらせて後、用いずば、我が失(とが)にはあらず、と、思いて、去(い)ぬる、文永十一年五月十二日、相州、鎌倉を出でて、六月十七日より、此の深山に居住して、門(かど)一町を出でず。既に、五箇年をへたり。
本は房州の者にて候いしが、地頭、東条左衛門尉景信(かげのぶ )と申せしもの、極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者、に、かたらはれて、度度の問註ありて、結句は、合戦、起りて候上、極楽寺殿の御方人(おんかとうど)、理をまげられしかば、東条の郡(こおり)、ふせ(塞)がれて、入る事なし。父母の墓を見ずして、数年なり。又、国主より御勘気、二度なり。第二度は、外には、遠流(おんる)と聞こへしかども、内には、頚(くび)を切るべしとて、鎌倉、竜の口と申す処に、九月十二日の丑(うし)の時に、頚(くび)の座に、引きすへられて候いき。いかがして候いけん、月の如くに、をはせし物、江の島より飛び出でて、使の頭(こうべ)へかかり候いしかば、使、おそれてきらず。とかうせし程に、子細どもあまたありて、其の夜の頚(くび)は、のがれぬ。又、佐渡の国にて、きらんとせし程に、日蓮が申せしが如く、鎌倉に、どしうち始まりぬ。使、はしり下(くだ)りて、頚(くび)をきらず。結句は、ゆるされぬ。今は、此の山に、独り、すみ候。”

(2005.07.02)
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