appeal

”法華経第五の巻、安楽行品に云く、文殊師利、此法華経は、無量の国の中に於て、乃至(ないし)、名字をも聞くことを得べからず、云云。此の文の心は、我等衆生の、三界六道に輪回(りんね)せし事は、或は、天に生れ、或は、人に生れ、或は、地獄に生れ、或は、餓鬼に生れ、畜生に生れ、無量の国に生をうけて、無辺の苦しみをうけて、たのしみにあひしかども、一度も、法華経の国には、生ぜず。たまたま、生れたりといへども、南無妙法蓮華経、と唱へず。となふる事は、ゆめにもなし。人の申すをも聞かず。仏のたとへを説かせ給うに、一眼の亀の、浮木の穴に値いがたきに、たとへ給うなり。心は、大海の中に、八万由旬の底に、亀と申す大魚あり。手足もなく、ひれもなし。腹のあつき事は、くろがねのやけるがごとし。せなかのこうの、さむき事は、雪山ににたり。此の魚の、昼夜朝暮のねがひ、時時剋剋の口ずさみには、腹をひやし、こうをあたためんと思ふ。赤栴檀と申す木をば、聖木と名つく、人の中の聖人なり。余の一切の木をば、凡木と申す、愚人の如し。此の栴檀の木は、此の魚の腹をひやす木なり。あはれ、此の木にのぼりて、腹をば穴に入れて、ひやし、こうをば、天の日にあて、あたためばや、と、申すなり。自然(じねん)のことはりとして、千年に一度出る亀なり。しかれども、此の木に値(あう)事かたし。大海は広し。亀はちいさし。浮木はまれなり。たとひ、よ(余)のうききにはあへども、栴檀にはあはず。あへども、亀の腹を、え(彫)りはめたる様に、がい分に、相応したる浮木の穴に、あひがたし。我が身、をち入りなば、こうをも、あたためがたし。誰か、又、とりあぐべき。又、穴、せばくして、腹を穴に入れえずんば、波にあらひをとされて、大海にしづみなむ。たとひ、不思議として、栴檀の浮木の穴に、たまたま、行きあへども、我、一眼のひがめる故に、浮木、西にながるれば、東と見る。故に、いそいでのらんと思いておよげば、弥弥(いよいよ)、とをざかる。東に流るを西と見る。南北も、又、此くの如し、云云。浮木には、とをざかれども、近づく事はなし。是の如く、無量無辺劫にも、一眼の亀の、浮木の穴にあひがたき事を、仏、説き給へり。此の喩をとりて、法華経に、あひがたきに譬ふ。設(たと)ひ、あへども、となへがたき題目の、妙法の穴にあひがたき事を、心うべきなり。大海をば、生死の苦海なり。亀をば、我等衆生にたとへたり。手足のなきをば、善根の我等が身にそなはらざるにたとへ、腹のあつきをば、我等が瞋恚(しんに)の八熱地獄にたとへ、背のこうのさむきをば、貧欲の八寒地獄にたとへ、千年大海の底にあるをば、我等が三悪道に堕ちて、浮びがたきにたとへ、千年に一度浮ぶをば、三悪道より無量劫に一度、人間に生れて、釈迦仏の出世にあひがたきにたとう。余の、松木、ひの木、の浮木にはあひやすく、栴檀にはあひがたし。一切経には、値(あい)いやすく、法華経にはあひがたきに譬へたり。たとひ、栴檀には、値うとも、相応したる穴にあひがたきに喩うるなり。設(たと)ひ、法華経には値うとも、肝心たる、南無妙法蓮華経、の五字をとなへがたきに、あひたてまつる事のかたきに、たとう。東を西と見、北を南と見る事をば、我れ等衆生、かしこがほに、智慧有る由をして、勝を劣と思ひ、劣を勝と思ふ。得益なき法をば、得益あると見る。機にかなはざる法をば、機にかなう法と云う。真言は勝れ、法華経は劣り。真言は機にかなひ、法華経は機に叶はず、と、見る、是なり。
されば、思いよらせ給へ。仏、月氏国に出でさせ給いて、一代聖教を説かせ給いしに、四十三年と申せしに、始めて、法華経を説かせ給ふ。八箇年が程、一切の御弟子(みでし)、皆、如意宝珠のごとくなる、法華経を持ち候き。然(しか)れども、日本国と天竺とは、二十万里の山海をへだてて候しかば、法華経の名字をだに聞くことなかりき。釈尊、御入滅ならせ給いて、一千二百余年と申せしに、漢土へ渡し給ふ。いまだ、日本国へは渡らず。仏滅後、一千五百余年と申すに、日本国の第三十代、欽明天皇と申せし御門(みかど)の御時、百済国より始めて、仏法、渡る。又、上宮太子と申せし人、唐土より始めて、仏法、渡させ給いて、其れより以来、今に、七百余年の間、一切経、並に、法華経は、ひろまらせ給いて、上一人より、下万人に至るまで、心あらむ人は、法華経を、一部、或は、一巻、或は、一品、持ちて、或は、父母の孝養とす。されば、我等も法華経を持つと思う。しかれども、未(いま)だ、口に、南無妙法蓮華経、とは唱へず。信じたるに似て、信ぜざるが如し。譬えば、一眼の亀のあひがたき、栴檀の聖木には、あいたれども、いまだ、亀の腹を穴に入れざるが如し。入れざれば、よしなし、須臾(しゅゆ)に、大海にしづみなん。我が朝、七百余年の間、此の法華経、弘まらせ給いて、或は、読む人、或は、説く人、或は、供養せる人、或は、持つ人、稲麻竹葦(とうまちくい)よりも多し。然れども、いまだ、阿弥陀の名号を唱うるが如く、南無妙法蓮華経、とすすむる人もなく、唱うる人もなし。一切の経、一切の仏、の名号を唱うるは、凡木にあうがごとし。未だ、栴檀ならざれば、腹をひやさず、日天ならざれば、甲をもあたためず。但、目をこやし、心を悦ばしめて、実(み)なし。華(はな)さいて、菓(このみ)なく、言のみ有りて、しわざなし。
但(ただ)、日蓮、一人ばかり、日本国に始めて是を唱へまいらする事、去(い)ぬる、建長五年の夏のころより、今に、二十余年の間、昼夜朝暮に、南無妙法蓮華経、と是を唱うる事は、一人なり。念仏申す人は、千万なり。予は、無縁の者なり。念仏の方人(かたうど)は、有縁なり、高貴なり。然れども、師子の声には、一切の獣、声を失ふ。虎の影には、犬、恐る。日天、東に出でぬれば、万星の光は、跡形もなし。法華経のなき所にこそ、弥陀念仏は、いみじかりしかども、南無妙法蓮華経、の声、出来(しゅったい)しては、師子と犬と、日輪と星と、の光くらべのごとし。譬えば、鷹と雉との、ひとしからざるがごとし。故に、四衆、とりどりに、そねみ、上下同く、にくむ。讒人(ろじん)、国に充満して、奸人(かんじん)、土(ところ)に多し。故に、劣を取りて、勝をにくむ。譬えば、犬は、勝れたり、師子をば、劣れり。星をば、勝れ、日輪をば、劣る、と、そしるが如し。然る間、邪見の悪名、世上に流布(るふ)し、ややもすれば、讒訴(ざんそ)し、或は、罵詈(めり)せられ、或は、刀杖(とうじょう)の難をかふる。或は、度度(たびたび)、流罪にあたる。五の巻の経文に、すこしもたがはず。されば、なむだ、左右の眼にうかび、悦び、一身にあまれり。
ここに、衣は、身をかくしがたく、食は、命をささへがたし。例せば、蘇武が、胡国にありしに、雪を食として、命をたもつ。伯夷(はくい)は、首陽山にすみし蕨(わらび)ををりて、身をたすく。父母にあらざれば、誰か、問うべき。三宝の御助にあらずんば、いかでか、一日片時も持つべき。未(いま)だ、見参にも入らず候人の、かやうに度度、御をとづれのはんべるは、いかなる事にや、あやしくこそ候へ。法華経の第四の巻には、釈迦仏、凡夫の身にいりかはらせ給いて、法華経の行者をば、供養すべきよしを説かれて候。釈迦仏の、御身に入らせ給い候か。又、過去の善根の、もよをしか。竜女と申す女人は、法華経にて仏に成りて候へば、末代に此の経を持ちまいらせん女人を、まほらせ給うべきよし、誓わせ給いし。其の御ゆかりにて候か。貴し貴し。”

(松野殿後家尼御前御返事、編年体御書P1176、御書P1390)

(2005.07.22)
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