appeal

世界に、”戦争”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”戦争”、の現われ、であり、

世界に、”虚無”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”虚無”、の現われ、であり、

世界に、”自由”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”自由”、の現われ、であり、

世界に、”目的”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”目的”、の現われ、であり、

世界に、”第六天の魔王”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”第六天の魔王”、の現われ、であり、

世界に、”山”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”山”、の現われ、であり、

世界に、”法則”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”法則”、の現われ、であり、

世界に、”神”、があれば、
それは、”私”、の、己身の、”神”、の現われ、であり、

その、”私”、は、
永遠に無限に一瞬の、”今、ここ”、を貫いている、”因果律”、に則って律して(運動して)いる、”私”、以外のなにものでもなく、

その、”世界”、は、
その、”法則”、に則って律して(運動して)いる、”私”、の、”世界”、以外のなにものでもない。

その、”私”、は、”体”、であり、その、”世界”、は、その、”影”、であり、

その、”体”、と、”影”、とは、二にして二ならず(依正不二)。

鉄砲の、その、”影法師”、を、お互いで打ち合う、

これを、”下薬”、という。

鉄砲の、その、”影法師”、を、お互いに捨てる、

これを、”中薬”、という。

鉄砲の、その、”影法師”、を、はじめからお互いに持たない、

これを、”上薬”、という。

宮本武蔵は、

”敵”、を切りながら、それが、自分の、”影法師”、であることに気づき、

日本は、

自分の、その、”影法師”、に振り回され、

パレスチナとイスラエルは、

自分達の、”影法師”、を、互いに破壊しあっていることに気づかないでいる。

この、”影法師”、を、虚栄とも、虚無とも、虚勢とも、方便とも、いう。

”故に知んぬ、十方の仏土に無き方便の教を取つて、往生(おうじょう)の行と為し、十方の浄土に有る一乗の法をば之を嫌いて取らずして、成仏す可き道理、有る可しや否や、一代の教主釈迦如来・一切経を説き勘文(かんもん)し給いて言く、三世の諸仏同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば、我も是くの如く、一言も違わざる説教の次第なり云云、方便品に云く、「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦(また)、是くの如く無分別の法を説く」已上、無分別の法とは、一乗の妙法なり、善悪を簡(えら)ぶこと無く、草木・樹林・山河・大地にも、一微塵の中にも、互に各十法界の法を具足す、我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周偏して闕(か)くること無し、十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳(しょうごん)は、我が心の中に有つて、片時も離るること無き三身即一の本覚の如来にて、是の外には法無し、此の一法計り十方の浄土に有りて、余法有ること無し、故に無分別法と云う是なり、此の一乗妙法の行をば取らずして、全く浄土には無き方便の教を取つて、成仏の行と為さんは、迷いの中の迷いなり、我仏に成りて後に、穢土に立ち還りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、次第に誘引して、方便の教を説くを、化他の教とは云うなり、故に権教と言い、又方便とも云う、化他の法門の有様、大体略を存して斯(か)くの如し。
 二に自行の法とは、是れ法華経八箇年の説なり、是の経は、寤(うつつ)の本心を説き給う、唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に、夢中の言語を借りて、寤(うつつ)の本心を訓(おしう)る故に、語は夢中の言語なれども、意は寤(うつつ)の本心を訓(おし)ゆ、法華経の文と釈との意(こころ)、此くの如し、之を明め知らずんば、経の文と、釈の文とに必ず迷う可きなり、但し、此の化他の夢中の法門も、寤(うつつ)の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取つて、寤(うつつ)の心に摂(おさ)むるが故に、四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤(うつつ)の心に摂(おさ)まりて、心の外には法無きなり、此れを法華経の開会とは云うなり、譬えば、衆流を大海に納むるが如きなり、仏の心法妙・衆生の心法妙と、此の二妙を取つて、己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり、己心と心性と心体との三は、己身の本覚の三身如来なり、是を経に説いて云く、「如是相(応身如来)、如是性(報身如来)、如是体(法身如来)」、此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は、十方法界を身体と為し、十方法界を心性と為し、十方法界を相好(そうごう)と為す、是の故に、我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周偏して、一仏の徳用なれば、一切の法は皆是仏法なり、と説き給いし時、其の座席に列(つらな)りし、諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず、皆悉く、妄想の僻目(ひがめ)・僻思(ひがおもい)・立所(たちどころ)に、散止して、本覚の寤(うつつ)に還つて、皆仏道を成ず、仏は寤(うつつ)の人の如く、衆生は夢見る人の如し、故に生死の虚夢を醒(さま)して、本覚の寤(うつつ)に還るを、即身成仏とも、平等大慧とも、無分別法とも、皆成仏道とも、云う、只一つの法門なり、十方の仏土は、区(まちまち)に分れたりと雖も、通じて法は一乗なり、方便無きが故に(一乗、方便、二にして、二ならず)、無分別法なり、十界の衆生は、品品に異りと雖も、実相の理は一なるが故に、無分別なり、百界千如・三千世間の法門殊(こと)なりと雖も、十界互具するが故に、無分別なり、夢と寤(うつつ)と虚と実と各別異なりと雖も、一心の中の法なるが故に、無分別なり、過去と未来と現在とは、三なりと雖も、一念の心中の理なれば、無分別なり”

三世諸仏総勘文教相廃立 御書 P561 編年体御書 p1224)

虚栄の、”影法師”、は、

それが虚栄の、”影法師”、である、とわかっても(証明、確定、されても)、

なお、虚栄の、”影法師”、であり続けようと、

虚飾し、或いは、虚勢し、さらに方便し続けようとする。

それは、さらなる高みへ、の妨げとなるから、

便宜上、その虚栄の、”影法師”(方便)、を、(カッコ)、に入れて、

さらに!

前進しましょう!

(2003.01.06)
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